花畑の追憶 3
*
「なに?」
クロフエナはその報告に思わず立ち上がった。
払暁。
既に天は薄青く染まっている。最も日差しの強い時間帯である。このような時間に外に出るなど、クロフエナ自慢の白い肌にとって悪影響の出ること甚だしい。
しかし屋内にいて知らせを待つなどと言う状況ではなかった。親衛隊に大きなレースの日傘を持たせている。
「カラだったというのか?」
「は!ライガなる者は荷物を全て帆船の持ち主に与え、『イグマ内陸港』の前にある小さな船着場にて消息を絶ったそうです」
「して、姫さま方は?」
「その荷物を調べましたが、中身はあまり価値のあるとは思えぬ鉄製品や錫製品でした」
美術的価値のない金属そのものの重さだけだ、と続けた。
……重さはそうだ、成人男性四、五人分と言ったところであろうとも。
ざあっと、クロフエナの総身から血の気が引く。
――荷物の中身が金属で、その重さで「まるで荷車の中に人がいるように細工した」のであるのならば!
クロフエナは、本来決して無能というわけではない。だが、焦っていた。二重の意味でだ。
姫を捕まえなければならないという当面の問題が一つと、この城にいる者の中で優位に立たなければならない、というもう一つだ。
「西王国審議会」、民主主義とはまた別の政治形態で動いているフォーダーンにあって貴族の持ち回り制で動議される、西王国最高の意思決定機関である。しかしここ百年は単なるお飾りとしてしか機能していない。
そもそも西王国に絶対的な権力と言う物はない。
現に「王の娘」という地位にあるエルメタイン殿下すら謀殺が可能なのだ。当然王に対してもそうだし、それは「女伯爵」という地位においても同様だ。
フォーダーンは、魔法の力によって、裾野の人々に対しての恩恵が厚い。実質的な債務奴隷こそ存在するが、もちろんどのような状況であってもそれは違法であるし、平均的な労働時間は(農民を含めても、だ)週に三十時間という統計もある。
だからある意味、大貴族などと言う地位は、羨望の的ではあるが、小市民的幸せとは対極にある存在でしかない。彼女が今の地位にあるのは、幼い弟を五階の窓から突き落とした――いや、あくまでもあれは事故だった。積極的に助けなかったというだけで――からであるし、そしてなってからでもそれに伴う苦労も大きい。もし楽しい人生を送りたいだけならば、隠居してのんびり生きるので充分だろう。
そう、わざわざ審議会などと言う、労多くして功少ない役割を負う理由などないのだ。
それがファルファッロ男爵ごときが審議会議長を任された理由でもある。要は誰もやりたくない役職なのだ。
やりたくないがやる、ならばその目的はなにか?
ゼルエルナーサ侯は王国の元勲としての責任感、ある意味では純粋に名誉職として。ゴッサーダ子爵は法の守り手として、更には「亡命貴族」という無駄飯ぐらいだった過去に対する清算として。
そして彼女とファルファッロ男爵は野望のために。
お飾りで、形骸化した役職とはいえ、西王国の最高意思決定機関だという事実に変わりはない。まっとうなやる気さえあれば、できることの範囲も大きさも桁外れなのである。これは第一段階だ。これから西王国と言う果実を彼女は大きなケーキのように切り分けて食べようと画策している。
していた。
だが、いまここでエルメタイン姫殿下に亡命でもされれば彼女たちの計画も水泡に帰す。
せっかく南王国と内通してまで――そこまで思考を進めて、彼女は当面のやることを思い出す。地上と水上の関所の強化、いや、塔の中にまだ潜んでいる可能性もあるからそちらの探索が先か?いやいや、まっとうな街道を行くわけないではないか、魔法使いもいるのだ、山狩りをした方が?まずは老婆を捕らえるほうが先なのか?
考えは千々に乱れ、何が正攻法なのかも分からない。彼女はほとんど凝然として立っているだけだった。
その女公爵の肩を、ポンとたたく者がいた。
真の城主、ゴッサーダ子爵である。治癒魔法によって今や前線に復帰した。
クロフエナは唖然とした顔でその白髪白髯の武人を見やると、「時間切れ」を自覚する。
もはや自分の順番は終わったのだということを。
「クロフエナ殿、まことに相済まなかった、これより指揮は私が執る」
「……ああ、頼む」
クロフエナはよわよわしくそう答えるのが精一杯であった。
そして思い出す。南王国との一件を。
南王国の宰相バタフリンは危険な男である。そのことはもちろん理解していた。いや、理解しているつもりであった。だが、それでも利用できると思っていた。だからこそ内通したのだ。
だが、この状況になった今でさえ、事態はバタフリンの(異形の)掌の上である。
そのことに、心底疲労したクロフエナは気付き、ひょっとして、とようやっと理解した。
――ひょっとして、妾のしていたことは、火薬庫で火遊びをしていたことに他ならないのでは?
と。
そして、その状況判断は、その状況判断だけは、正しかったのだ。
4
ライガの足取りは軽い。
とても今年六十五歳の者とは思えない。峻険な山道をまるで平地のように歩く。山を歩くように特化された脚は、平地においてはほんの少しだがいざり気味となる。だが、こと山道となれば彼女を超える健脚は、シャボリー城塞にも幾人といるまい。
――やれやれ、まったくお姫様も人使いが荒いよ。
それでもくたびれて、彼女はカボナという柑橘類の砂糖漬けを取り出すとパクリと口に入れる。爽やかな香気が鼻を抜け、酸味と苦みを砂糖の甘さが中和する。唾液が大量に出て、水を飲まなくても喉の渇きがぴたりとやんだ。
はるかに右手を見はるかす。
龍道から太陽が顔を出し、「嘆きの塔」はシルエットとなって彼女の目に映った。陰惨な逸話に欠かない塔ではあるが、実際のところここに収監される囚人の八割が一年と経たずに出て行くのだ。強制労働も何もないから、かえって肥る者まで出る始末である。
「ま、ある意味天国だよ」
老女は口に出していった。
そう、天国。
彼女が知るある女の生涯に比べれば、ここに収監されるということなど天国での生活に他ならない。
*
聖なる山、ウライフ山の中腹。
中腹とはいっても標高は(そもそも天蓋世界において海は平らではないから、海抜という言葉にあまり意味は無い、あくまで地上世界の基準で考えれば、だ)五千メートルを超えている。駄獣は既に肉として食ってしまい、荷物は一人一人が持っている物だけだ。
初夏、最も登りやすい季節であったのは幸いした。だが、幸いしたと言っても老人から幼児までいるこの二十数名の隊列は今や絶滅の危機に瀕している。
時ならぬ低気圧がもたらした氷雪嵐によって、洞穴の中に貼り付けにされている一行は、手持ちの食糧が山を越えることが出来ない量であることを、計算の上理解していた。
それでもライガは、かいがいしく練炭コンロで雪を解かすと紅茶を淹れ、そこに砂糖とスパイスを入れて皆に手渡した。
「ありがとう、ライガ」
黄金色の瞳、黒い長髪を後ろで束ねたハルザット坊ちゃまが、ほっぺたを赤くして真鍮製のコップを受け取る。たらり、と鼻水が垂れたので、彼女は腰の布でふいてやった。七歳の少年は、こそばゆそうに、それでも毅然と胸をそらして彼女の行いを受け入れている。
――おいたわしや。
ライガはこの時二十四歳。十七の時から今まで、ハルザット坊ちゃまのお世話係として、この少々癇癖の強い、だが聡明な少年に尽くしてきた。しかし、この正月に起こった政変に巻き込まれ、ゴッサーダ家は当主とその妻、つまりハルザットの父と母を相次いで失くしている。
未だ矍鑠とはいえ、老齢の前当主、ゴッサーダ・イン・カルゴネア、その妻のライハレを含む一族郎党が「ウライフ山越え」という最も過酷な道を選んで西王国への亡命を選んだのも故なきことではない。
政権を奪取した側の繰り出してきた、泣く子も黙る「亡霊騎士団」の追捕の手を振り切るためにはこの道しかなかったのだ。
実際過酷な道のりではあったが、もし通常のルートを選んでいたならば「亡霊騎士団」によってとうの昔に全員捕まっていただろう。そうなれば形だけの裁判の後、皆殺しは避けられない。否、「亡霊騎士団」によって裁判と処刑の手間を省かれる可能性も高かった。
二週間に及ぶ逃亡の中で人数は半分に減っていたが、それでも極言すればこのハルザット坊やを亡命させれば事はなるのだ。
西王国王家とゴッサーダ家はかの「エンミドラ会戦」を通じて友誼を結ぶ関係となっていたため、「大逆人」の汚名を着せられ、九族皆殺しの罪をかぶせられても庇護してくれるはずである。
――しかしそれも今となっては不可能なのだ。この少年はおそらくウライフ山を越えられない。
焚き火に炙られ、洞穴の岩肌が汗をかいている。高山は基本的に乾燥しているが、二十人からの人間がひとつところで既に三日もいるのだ。じめつき、大小便の匂いが鼻を付く。食料の供給も日に二度、薄いお粥のみと言う状態であった。勢い、人々の考えも暗澹としたものにならざるを得ない。
三々五々、気心の知れた者同士で会話している。やはり問題となるのは食料の事だ。
分家の連中から「足手まといはこの際置いておくのがいいのでは」という意見がまたぞろ出てくる。足手まとい、それは七歳の少年と、老齢の前当主夫妻の事である。
そして置いて行かれる。とはつまりこの場合は凍死を意味する。
「……全滅するのであれば……」
「……お家の再興を目指すのであれば、別に本家の血筋でなくとも……」
のっぴきならぬ状況の中でもさらにのっぴきならぬ状況下、人々は自らの生に執着する。していないのは、客分の武芸者、ガラン・ザバリぐらいのものだ。
高名な魔法装具、「巨神乃戦杵」を肩にかけ、ちょうどベンチのようになっている石の上に座っている、魔法装具の影響で雪のように真っ白な髪の中年は、何を考えているのか分からぬ木石のような表情で茶を飲んでいた。
――この男を味方に引きいれなければならない。
ライガはほとんど物質的な圧迫感さえ覚える、人々のほの暗い想念に押しつぶされそうになりながらも、この武芸者にもう一杯の茶を供しようと近づいた。
近づいたその時、武芸者の切れ長の目が、絨毯をかけた洞穴の入り口を鋭く睨む。
バザリ。
扉代わりの絨毯を開けて侵入してきた巨漢は、「おんや、こんなところでこんなに人がいるとは!」と心底驚いた、と言う感じで胴間声を張り上げた。
熊の毛皮を着て、背中には弓と矢筒、腰には山刀と血の滴る(滴ったまま凍結していたが)オカアザラシの皮がくくりつけられている。顔は雪目やこ吹雪の時に用いるゴーグルと、雪焼け予防なのだろう、色とりどりの絵具が塗りたくられていて、時と場所を間違えた熱帯の猿のようである。
幽霊騎士団とは到底思えぬその出で立ちに、ガランも立ちかけた膝をゆっくりともどすと、またもや木石の顔に戻った。
男はどたどたと(カンジキを付けた毛皮の長靴を付けているので、自然とそう歩かざるを得ない)中央の焚き火まで遠慮なく進み、手を気持ちよさそうに炙り出した。
その背中には、皮をはがれ、内臓を抜かれたオカアザラシの成獣がくくりつけられている。
その場にいたほぼ全員がゴクリ、と喉を鳴らした。優に四十人前にはなる肉の塊だ。大事に食べればその倍は保つだろう。すなわち食糧不足はこの一頭で解消まではいかなくとも、ずいぶん改善される。
その視線に気付いた物か、大きな男はにやりと(化粧が濃すぎたためにおそらく、ではあるが)笑うと、演劇じみた動作でオカアザラシをどすん、と洞穴の地面にじかに置く。
「す、済まんがその肉を売ってくれんか?」
一族を代表して前当主、カルゴネアの末弟が交渉する。
金貨三枚、大男は首を横に振った。五枚、まだ駄目だ。十枚、いやいや、三十枚!男はにこりと笑う。
「これは、お前さんがたの命だあよ。命の値段が金貨三十枚ってのは虫が良すぎるだ」
確かに一行の財産はその百倍はあるだろう。それをすべて吐き出せと言う事だろうか?
「おっと、そこにいる棒のおっさんは動かねえでくんろ」
ガラン・ザバリの僅かな殺気にも敏感に反応したこの男の感覚は、野生の獣のそれだ。
「それに何もオラは金が欲しいってわけではねえんだ。ま、金貨三十枚は貰っとくけどもよ」
そこで大男は何が面白いのか大声で笑うと、この氷雪嵐があと丸一日で止むこと、しかしその後の安全なルートは地図どおりではないこと、それを自分は教えられること、を立て板に水とまくしあげ、
「そんで、オラが欲しいのは」
とそこで言葉を切り、視線をライガに向けた。
餓えた獣から向けられる視線に、それは似ていた。
大男が言うには、自分の所属する一族は女が少ない。そのため嫁を連れてこなければならないのだが、魔法炉もない山に住む不便な生活を耐えられる女など、きわめて少ない。だから嫁の成り手がいない。
そう、彼が喉から手が出るほど欲しいのは。
若い女だった。
一行の中で未婚の女性は彼女と、十二歳の少女ただ一人、その十二歳の少女は先ほど大男に話しかけた末弟の孫娘だ。彼女とは立場が違う。
立場。
彼女は、ライガは立場の違う存在であった。
二十数名のうち、平民の出は彼女ともう一人の老僕のみとなっていた。
その場にいる全員の視線が彼女に向けられる。正確に言えば元貴族の武芸者は絨毯のその先、来るかもしれぬ追手を見ていたから全員ではないが、それでもほぼ全員が彼女を見た。
その視線の中で一つを除くすべてがこう語っていた。
「諾と言え」と。
……かくして彼女はその時初めて会った男と結婚することとなった。正確に言えば彼の五人いる兄弟全員の花嫁ということだ。
都市育ちの若い女にとって、それはずいぶんときつい新たな「日常」であったが、ライガはそれによく耐えた。。
彼女はそれから八人の男子と七人の女児を生むことになる。
しかし彼女が最も辛かったのは、結婚を強いられたからでも、その後の過酷な山暮らしでもない。彼女がふもとの町まで毛皮を売りに言ったその帰り、集落の全員が、他の氏族の襲撃によって皆殺しの憂き目にあったからだ。そしてそのいさかいが原因となった内紛によって、「ウライフの民」と呼ばれるブンブーツ族は壊滅した。
それから幾年が経っただろうか。
あの時、ウライフ西麓での彼女との別れの時、目に涙をためながらも、口を結び決して泣くまいと決心した金色の瞳の少年は言った
「必ず恩に報いる」
と、そして、少年はその言葉を実現させたのだ。
なかば乞食としてさまよっていた彼女をどこでどう見つけたものか、壮年のゴッサーダ・イン・ハルザットは彼女の前に現れ、職と住居を世話してくれた。
これらの事情を知るのは、彼女とハルザット、そしてガランの娘であるラグナとルギアの双子の姉妹のみだ。
――まったく、ハルザット様には合わせる顔が無いねえ。
と彼女は思う。
彼の必死の探索が無ければ彼女は路傍でのたれ死んでいたことであろう。それが今や身一つになったとはいえ、金貨で五十枚、ピンダルゥの実二十粒、宝石がいくつか。
これらを売れば当面の生活費どころか、店の一軒は買えるだろう。そこで姫様に言われたようにお菓子を作って売るのも悪くない。
彼女は確かに貴族の出でも、大金持ちの娘でもない。それでも庶民としては上の下程度の家に生まれ、特に料理はみっちり仕込まれた。粗野な山人の男どもも料理で屈服させたのだ。
――だからね、坊ちゃん。
老婆は山道を懐かしく思いながら汗をかきつつ登る。
――決して私は、「かわいそう」なんかじゃなかったんですよ。
世界の中心、ウライフ山は恐ろしく険しい。魔法があろうが、人なんぞ簡単に死ぬ。
それでも、その山懐にはいくつもの美が蔵されていた。
春、山の斜面に一斉に咲く可憐な花。
視界いっぱいに広がる紅、赤紫、紫、桃色、黄色、白の花弁が見せる花畑の美しさは――まさにこの山が妖精の国、天蓋へと通じる階梯の一部なのだと信じるに足らせる天上の美であった。
ライガは懐かしくそれを思い出す。
いつしか彼女の歩みは既に若かりし日のそれの比肩するほどだ。だがあのときは、背中に赤子を背負い、両手で幼子の手を握り、先までさっさと駆けていく子供たちがいた。
「ハルザットお坊っちゃん」
ライガは自分の子供たちと遊ぶ七歳の少年を幻視した。
「ほらほら、前ばかり見ていると、つまづいて転びますよ」
5
「こんなにうまくいくとはなあ」
秋人は駿介やエルメタインと同じく衛兵姿で、ほっとしたような、呆れているような声で、灰色の羚羊馬を駆る。
「これもすべてアキト様がゴッサーダ殿を退けてくれたおかげです」
エルメタインは赫ける髪を風になびかせながら、白い羚羊馬の手綱を握っている。朝日が昇り、その髪はまさに炎が燃えるがごとく、だ。
「城の兵は王国の兵ではありますが、そのほとんどが城主を敬慕しております。どこの馬の骨とも知らぬ貴族がやってきたところで、上手く使いこなせるはずは御座いません」
確かに、と秋人はうなずく。
結局のところ、クロフエナは正しかったのだ。
彼ら一行は塔の外へなど出ていない。
密室からの脱出において最も古典的な方法、それは密室の一角に潜んで、密室が破れた際にそのどさくさに紛れて逃げる、と言う物だ。
だから女伯爵は、なんとしてでもしらみつぶしにすべての部屋を探せば良かったのだろう。そしてエルメタインはそれをさせないために、ライガを用いて工作をした。まるでなんらかのトリックを用いて既に脱出したように見せたのだ。
リリナの魔法は恐ろしく大胆で精緻な代物であった。最初の竜化兵の探知魔法は高名すぎて、彼女の知識の中に抗魔法が入っている。しかしベン・ジーアルフの探知魔法に関しては、彼女は目視で魔法使いの動きと、その魔法象形文字を見ることによって何をしようとしているのか確認してから、抗魔法を用いたのである。
「いやまあ、あの変人師匠にしごかれただけよ」
と彼女は言うが、魔法使いの力量とは才能の差だという暗黙の了解のもとでは、その才能の差は、おそらくベン・ジーアルフに真実を教えない方がいいほどであろう。
*
リリナと悠太はライガの物であった荷馬車の後ろ、幌の下で四囲を監視しながらこそこそと話をしている。ライガ婆さんが用意してくれた旅の支度は、簡素なものであったが、遊牧を旨とする生活を送っていた者の選択らしく、必要十分な物がそろっている。
「ああ、そうだ」
リリナははっと気づいて自分が拘束衣を改造した粗末な衣を着ていることをようよう思い出す。
靴こそ何とか(双子の片割れのものだ)調達したものの、下着すら身に着けていない。ライガはどのようにしてか、エルメタインの言った通りのサイズの服をあの短時間で用意していた。
少女は下履きを取り出す。おそらくは囚人用なのだろうが、絹製で、高級ではないがしっかりとした造りの下着だ。
「見ないでよ」
釘を刺す。幌の下なのでほかの者の目からは見えないが、目の慣れた悠太にとっては十分な明るさがあるのだ。
「うん」
ある種密閉された空間に少女と二人きりなのだ、悠太の心拍数は平常時の倍のスピードで拍動していた。これで下着姿など見てしまったとしたら――。と想像した悠太はやはり想像力が足りない。
リリナの服の下はすっぽんぽんだったのだから。
「あ」
御者をしていた駿介が、石畳が一つ無くなっているのに気づくのと、その上を荷車の車輪が通るのが同時であった。
荷車はガタンと大きく揺れ、中身を片一方へと寄らせた。
片一方。
リリナの無防備な胸元へ悠太の顔面が。
「!!!!!!!!ッ」
叫び声を挙げなかったのはリリナのさすがと言ったところである。
悠太はしかし何かやわらかい物が自分の顔を覆っていることにしか理解が及ばない。ほとんど溺れた者の動作で彼は右手でなにかをむんずとつかんで上体を挙げた。
むんずとつかんだそれ、それがリリナの生乳房と理解した時には、彼の中にラッキーであるという思考は存在しなかった。
生命の危機を感じたからだ。
その姿は完全に、リリナを悠太が押し倒している図そのままだった。
「……ちょっと待って、あの、ね……」
どう言いつくろおうかと、いやその前に乳房から手を放そうとするのだが、首から下が断線したかのように硬直して動かない。
彼の下でリリナの目は大きく見開かれている。
どうしよう、何か言うべきか、何をすべきか、どうしようどうしようどうしようどうしよう……ぐるぐると思考が巡る。
およそその時間は二秒ほど続いただろうか。
「わ、まただよ」」駿介が呟く。
石畳の整備が悪い。つまりはインフラの整備が悪いというのは、上層か下部か、あるいはその両方で制度疲労が起こっている証拠である。それは確かにこの国の何かを象徴していたのかもしれない。
今度は石畳の石が飛び出していて、荷車は軽くジャンプした。
放心していたリリナの額が、悠太の顔面の中央にヒットしたのは次の瞬間である。
魔法使いの少女は、きちんと服を着てから、だらだら流れる少年の鼻血を魔法で癒してやった。
次章は11月に更新いたします。




