花畑の追憶 2
*
「フォーダーンはあったよ、駿介」
父からそう聞かされて、駿介は危うく飲んでいた「不二家のネクター」を噴き出しそうになった。
面会を記録する係の、少年院の教官も不思議そうな顔をしている。
父はそれきりその話題に触れることは無く、金髪から坊主頭になった息子の事をひとしきりイジってから、今は神奈川県のS市で働いていると言った。
『フォーダーンはあるんだ!』
それが口癖かつライフワークであった駿介の父は、各地の古文書や言い伝えを探し回る生活をしていた。嫁が(つまり駿介の母が)三年前、交通事故で死んだときにも、葬式が終わって、火葬が済み、骨壺に入れられた後で帰ってきたものだ。
駿介が寝起きしている少年院の面接室は、狭い室内に折り畳み式のそっけないテーブルと、パイプ椅子が人数分。それに教官用の木製の書き物机が一つあるきりだった。
父はひとしきり昔話に花を咲かせた後、息子が飲み終わり、折り畳み机の上に置いた「ネクター」の缶の脇に一回だけ口を付けた自身の缶を置くと、手品師のような滑らかさで、駿介の方を手にした。
もう一本飲めよ、とその目は語っていた。
二か月前、少年院に暴行傷害の罪で入所した十七歳の伊藤駿介は甘味に飢えていたから、ありがたくその申し出を受けた。
父は、細い目をさらに細めてにこりと笑う。しわが深くなったな、と彼は思った。
その笑顔こそが、彼が最後に見る生きた父の姿だった。
伊藤駿介は「帝国」死刑執行人の家系に生まれている。死刑執行人と言ってもその中でも最も下な、実際に手をかけるのではなく下準備と後処理を行う役職であった。
祖先がなぜ地上へと追われるような行為に手を染めたのか、そもそもどんな罪を犯したのかすら分かっていはいない。だが、地上に堕ちてきてからの数世紀、むしろ彼の家系は積極的に天蓋世界の事を忘れようとしていた。
「まあ、よくあることでね」
クドイ顔をした、ダンディーを気取っている男は小さいカップに入っているエスプレッソのドッピオ(この店では豆ではなく、単純に量が二倍という意味だ)をすい、と飲み込んだ。
「だが、それでも我々はフォーダーンの民、同じ血を分けた兄弟だと言ってもいい。君もお父さんの志を受け継いでみないか?」
そんなことを言われてもなあ、と駿介は思う。
十七歳のあの日から五年が経ち、身長は一切伸びなかったが、体重は二十キロほど増えている。つい先だって、一年半勤めた建築会社を辞めたばかりだった。
施工主の目を欺いて、自社が手抜き工事をしていることがようよう理解できた彼は、そのような行為をやめさせようとしたのだが、交渉は思うようにいかず、刃物まで出てきた大喧嘩の結果、社員の半数を半殺しにしたのだ。
「腕っぷしは強い、と聞いている」
「格闘技の大会に出たら、一回戦負けですよ」
しかしその福々しい頬に浮かんだ、切れるような笑顔は、駿介の凄絶な青春を物語っていた。
同じ団地、隣の部屋に住んでいた、風変わりな爺さんから教わった「柔術」を、彼は不良の喧嘩で磨いた。少年院に入ることになった喧嘩では、十五対一で戦い、その十五人に合わせて二十八か所の骨折を負わせてもいる。
「なかなかできる事じゃない。というか、君の言う『格闘技』の日本チャンピオンでもできるかどうかは怪しいだろうね」
クドイ顔の男のその評に駿介は無関心を決めこみ、ホイップクリームがごってり乗ったカフェモカをすすった。
そう、父は死んだ。
正確には殺されたのだ。
腰から下の存在しない死体であった。
牛乳寒天をストローで刺して、その刺さった部分を抜き出したような真円の「虫食い」が、その上半身にも何か所か残されている。
人間業ではない。
「魔法だ」
クドイ顔の男はそう言うと父の死体をもう一度白い布で覆い、その上に指を走らせた。なんらかの宗教的な作法であると、それは知れた。
「いま、我々は戦いのさなかにある。君の『暴力』がチカラになる局面だ」
敵討ちに興味はない。だが、やることもなかった。
――スカッとすることがしたいな。
それが駿介という男が「帰還社」に入った理由だ。
*
そして今、駿介は実に久々に充実した気分だった。
戦ってもそうそう勝てそうにない敵、有能な味方、そして美しい守るべき女性。
もはや全てがそろっている。
「で、どうするんだ」
駿介の目にギラリと炎がともる。その炎は、人間が穴居生活をしていた昔から、絶やされることのなかった光だ。
やる気満々だなあ、コイツ。と、秋人は見て取る。不利な状況であろうとなかろうと突っ込む、という心性はもはや変えようがない駿介の心の偏りだ。そのくせ勝てないことが分かればすたこら逃げ出すし、降伏もいとわない。
死ななければ、いつか倒せるだろうよ。
とは駿介の口癖だ。
秋人の感覚からすれば、「いつか」なんてものは存在しない、あるいは存在するとしても無限のかなたにある物なのだが、この男の「いつか」は「いつか必ず来る日」の事なのだ。それは五秒後かもしれないし、五十年後かもしれないが、いつかが必ず来ると確信するのなら、その時まで生き延びれば、勝てる。その時まで負けてはいない。それは道理だ。
では、この状況で突っ込むべきか?
「まあ、今外に出たら必ず捕らわれますよね」
エルメタイン姫はにこやかに絶望的なことを言った。
「ですから、今ここでは……」
それから彼女は計画を話しだす。
リリナが悠太と駿介にエルメタイン姫の作戦を訳す。
秋人はなるほど、とうなずき、駿介は「いいんじゃないか」と言うと奮起してバネ脚で三メートルほど何度か跳躍する。
悠太とリリナは視線を互いに交わして、それからなぜかすい、と逸らした。
……「その計画」は、確かに今この場で突撃するよりかはいい案であったろう。だが、ひとつネックがあった。
「それは悪くない、悪くない話だが、一つだけ」
秋人は尋ねる。
「その協力者とやらはきちんとやってくれるのか?聞いた話だと、協力者に利益どころか、損しかない話なんだが」
「そうですね」
姫は落ち着き払っている。
「確かにアキト様のおっしゃる通りです」
けれど、と言いさして、エルメタイン姫はにこりと咲顔を作る。
「でも、信じていますから」
と。
3
竜化兵はしかし、やる気満々で出てきたものの、無聊を囲っていた。
メインコントロールを任された美形の男はクロフエナに指示を求める。
そう言われても女伯爵としても困ってしまう。
彼女としては圧倒的な兵力差を見せつけて降伏させるのが目論見であったのだが、そもそも今夜、この場の兵力差は三百対五なのだ。その三百が竜化兵の登場によって四百になろうと、五百になろうと、絶望的な差であるという意味では変わりない。
だとしたらあまり、効果的な策とは言えなかった。
そのことに多くの兵たちが気付きだす。
「ぐむっ」
クロフエナは切歯みをする、決断を迫られていることをひしひしと感じる。どうするべきだろうか?
「御前さま、竜化兵を塔の中に入れてしまう他ないのでは?」
白銀の鎧を身に着けた、茶色い巻き毛の男が進言した。
竜化兵ならば個人の魔法や魔法装具をほとんど無化できる。ゴッサーダ子爵とその魔法装具が敗れた今、それが上策であるとは無論彼女とて理解できる。
だが――
「我々もついております」
「決して御前さまの御身に傷一つ付けませぬ」
言い募る男たちの語りには「あなたが先頭に立つのだ」という言外のプレッシャーが存在している。
クロフエナは騎乗用の鞭を左右の手で二つに折らんばかりにたわませる。
それからゆっくりと手の力を抜いた。
「……そうだな、それが最も良い方策だ」
いやいやながら、しかしそれを悟られないぎりぎりの矜持を見せて、クロフエナは鞭を振るう。
「塔に突入する!竜化兵と我が親衛隊が先に行く!我に続けい!」
ゴッサーダ麾下の兵たちもようよう方針が決まって胸をなでおろす。
元々強兵と名高い者たちなのだ。戦うと決まればむしろその方がずっと良い。
ずしゃり。
竜化兵は歩を進め、大きさこそ三倍ほどあるが、人間によく似た腕を伸ばし、観音開きの青銅製の扉を押し開く。扉の高さは三長尺(約六メートル)、身をかがめるまでもないのだが、体を低くして、首だけを塔の内部に侵入させる。
「どうじゃ?」
覚悟も決まった物か、クロフエナは竜化兵に堂々たる声で内部の様子を尋ねる。
「おかしいです!」
操縦席の男は声を返した。
月が天蓋の果てへと消えゆくフォーダーンにおいては、慣用句的な意味ではなく、天文的な意味で「夜明け前が最も暗い」。
太陽が地平線からではなくウライフ山の「龍道」から出てくるまで、薄明は火口からほんのり明るく見えるだけなのだ。
だから、明かりの消された塔の内部は先ほどに比べてもぐっと暗くなっていた。
「誰もいません!」
もちろん竜化兵の目には光電子倍増魔法が掛けられているから、夜間でもフクロウの数倍の視認力を誇る。当然投光器も、赤外線、紫外線をも含めて頭部に標準装備されている。
さらには音響探知も人間をはるかに超える、超音波を発して見えない物を視るエコーロケーションも含めて自然界ではコウモリの耳の良さが図抜けているが、それを超えた敏感さだ。
そもそも探知魔法が半径二百長尺(約四百メートル)に存在するすべての人間を見つけ出す。
その精度は――
「馬鹿な!竜化兵の探知魔法はわたくしと同程度のはずですよぉ」
ベン・ジーアルフが慌てて走り出した。
肥満した人間の例にもれず運動の苦手そうな走り方であった。竜化兵のすぐ後ろに身を隠すと、探知魔法を起動させる。
魔法自体はこの世界の生物の中全てに充ちているが、エンリリナのように強力な魔法使いは、探知魔法の中で一等星のごとくに輝く。それが無い。
別の術式も試す。今度は生物無生物に限らず「動くもの」を探る魔法だった。だが、衛兵たちがもぞもぞと動いているのが分かるだけだ。
もう一つ、もう一つ。
かつてリリナが語ったように、探知魔法は戦場においてもっとも大切な魔法であるから、ベン・ジーアルフも習熟している。
ある種の隠匿魔法で死角に潜んでいるのか?とも思い、知る限りの探知魔法を起動してみるが、成果は無い。
――わたくしの探知魔法を全てかいくぐれる隠匿魔法をあの少女は持っているというのですか?
ベン・ジーアルフは一瞬そう思ってから、別の(常識的な意味で)合理的な解に辿りつく。
実に簡単な答えだ。
「……姫様も、リリナ嬢も、地上世界の男たちも、塔の中にはおりませぬぅ」
「そんなことが……、ええい、探せ探せ!」
クロフエナは兵たちを突入させた。
あとは混乱のるつぼだ。もし姫君が逃げ出したのであれば、これは責任問題である。もちろん最高責任者はゴッサーダ子爵ではある。あるが、今この場で指揮を執ると宣言したのはクロフエナ自身だ。その責任は軽くない。
「なぜだ!どうしてっ!ええい、中にいるはずなのだ!中にいる!」
クロフエナのその声が上ずっているのも無理からぬことであった。塔の内部に百人からの兵士が入り込み、上を下への大騒動だ。しかし五人の男女は見つからない。その時にはもう、門へと駆けてゆく気の利く者もいた。
この門を通った者はいなかったか?と。
「片目のミルド」は馬鹿を言いなさんな、という顔で応じたのだが、はっと気づいた。
「……通った者がいる」
「誰だ!」
「ライガ婆さんだ」
じゃあ問題は無いな、と事情を知る男は応えたのだが、みるみる脂汗の浮かんでくるミルドの表情から、異変を察した。
「あの婆さんは、荷車の着いた牛車に乗っていた。……その荷車の中には行李が五つ…いや六つ……、俺は一つ開けてみた。空だった、あの中に金目のものを入れると言っていたんだ、だが……」
そこでミルドは同僚を見やる。同僚は首を横に振った。彼は行李を確かめていない。
「だが、あの中に人間が入っていてもおかしくは、いや、タイミングが合わない、あの時城主様が戦っているさなかだった。けれど、もし……」
男は目を剥くと、塔へと向けて駆け出した。
*
「この轍の跡は、不自然です。相当重い物を運ばないとここまでくっきりとは付きません」
「重い物?」
「そうですね……複数の人、とか?」
クロフエナと熟練の「探索者」は語り合っていた。戦場においてゴッサーダの「目」とも呼べる存在のその男は、小柄ながらも鍛え上げられた精悍そのものの肉体を持ち、目の鋭さは狩人のそれだった。
ミルドと同僚は呆けたように口を半開きでそれを見ている。すでにからからの口は、まるで乾いた枯葉のように舌を留めさせていた。
そして下士官がクロフエナの質問の答えを持ち帰る。
「ゴッサーダ殿によれば、卿が立ち合われたのは一人だけであったそうです!」
だとすると、それは不自然だ。残りの人間はどこに行ったのだ?
答えは決まっている!
クロフエナの整った柳眉が逆立つ。
激昂していた。
「門番としての務め一つ果たせぬ愚か者め!それとも貴様自身が叛乱に一枚噛んでいるのか?」
ミルドを火の出るような眼差しで刺す。
「と、とんでもねぇ」
釈明しようとするが、しかし釈明の余地は無かった。物的証拠はないが、状況証拠はこう語っている。
「エルメタイン姫殿下をはじめとする叛乱者たちは、ライガの乗る牛車の積み荷として、堂々とこの門から出て行った」と言う物だ。
塔の中ではくまなく探索が続けられているが、はかばかしい成果は上がっていない。
――当然だ。
とクロフエナは吐き捨てるように思う。
――この阿呆どもがおめおめと逃がしたのだから。
だがこの木っ端役人の処断など後のことだ。今は時間が惜しい。竜化兵を出しておきながら(虚しく)にらみ合っていた五分。その価値は値千金であったことだろう。なんといってもシャボリー河があるのだ。船を用意できて、それに乗りさえすれば既にこの地を離れる事何里であろうか。
こうはしていられなかった。
「城門を開け!」
クロフエナはそう命じた。騎兵を用意させ、一番近くの船着き場へとやらせる。あにはからんや、ライガはミルドへと語った言葉とは違い、昼夜を問わず商いをしている商売熱心な小型の帆船に荷物を載せると、河口の町、ミグリスまでの料金を前金で支払ったと言うではないか。
大型帆船や超高級の遊覧船ならばともかく、粗末な木造帆船に魔法炉は無いし、魔法の道具など備えていない。少なくとも次の内陸港までは連絡がつかない。そこを封鎖するしかないな、とクロフエナは考えて、伝令にその旨を命じる。
――水上封鎖が間に合えばよいが。
じりじりと焦れるような思いで、クロフエナは護衛の美男子が入れてくれた蜂蜜紅茶を口に含んだ。
明日も更新いたします。




