鋼翅の魔女 1
第五章「鋼翅の魔女」
1
くっくっく。
とくぐもった笑いが髑髏面の下から聞こえてきた。
おかしそうだった。バスター・キートンの喜劇映画をポップコーン片手に見る観客のような、心からの笑い声。
あたたかい血の通った人間のそれだ。ただ、視線の先には親切心が仇となった格好の「死」が映し出されているだけで。
*
「秋人!」
駿介は叫んだ。
「ユータ!」
リリナもまた。
おかしな話と笑うだろうか?今の今まで殺し合っていた少年の命を救おうとして、今の今まで殺し合っていた少年に殺されるというのは?
だが、そのようなことはいくらでもある話なのだ。別に珍しいことでもない。それが「人」だ。エデバールも、地上に棲まう者どもも、流人も関係ない。
だから、もじゃもじゃ頭の男を爪で貫いて、血が胸部の装甲を濡らしているのに気付いた悠太は初めて自分が参加したそれが、自身が加害者になる可能性を持った「闘争」であることに気付いたかのごとく、悲鳴を上げた。
恐怖の悲鳴。
それは裂けた装甲から漏れ聞こえ、生者の耳朶を打った。
リリナは目を背ける。駿介は己の無力を悔やむように地面を拳で打つ。
そして髑髏面の男は――手を叩いて哄笑した。
からからと気持ちよさそうに笑った。
お前ら、何の冗談なんだい、と。
笑い声を残しつつ、マントの中から一丁の拳銃を抜き出す。
年代物だ。
レミントン社の「ニューモデルアーミー」。ニューモデルと言っても発売は一八六三年である。新選組が京の町でブイブイ言わせていた時代だ。その超ロングバレルモデル。銃身が一〇インチ、二五センチ強の長さを持つ。
古色蒼然、といったリボルバーだが、髑髏面には何とも似合う。しかし、魔法使いであるこの男が拳銃を使うのであろうか?
そう思う間もなく銃弾は発射された。
黒色火薬特有の煙がもうもうと立ちのぼる。
リリナはきっとその銃口を睨みつける。すでに魔法障壁は四方を囲っている。蟻の這い出る隙間もない。そしてその強度は先ほど小銃の銃弾を防ぎ切ったことから証明済みだ。小銃弾に比べれば、古臭いリボルバーの弾丸など――、
なんの苦労もなく弾いた。
いや、弾くはずだと想像した。
だが、違う。
魔法障壁にその「拳銃弾」は爪を立て、噛みついていた。
弾丸ではない。
赤黒い、小さな鬼。全身に鱗が生えている。大きさはテントウムシほどだろう、イガイガと両手両足と顎を動かし、障壁を打ち破らんとしているその鈍く輝く黄色い瞳と、リリナは目があった。
――なんだ、これは?
見たことも聞いたこともない怪物。
人工精霊?
魔獣?
いやそもそも、銃で撃ちだす必然はあったのか?
髑髏面はなお、撃鉄を起こして、引き金を引く。破裂音。撃鉄を起こして、引き金を引く、破裂音。
一発一発、別の場所へと赤黒い小鬼が撃ち出される。
なんだ?なんなのだこれは?
輪胴に収納されていた6発を撃ち尽くすと、髑髏面は拳銃を腰のホルスターに収める。金属薬莢以前の、パーカッション式拳銃は戦闘中に再装填できるようなものではない。
だがしかし、そんな必要はないのだろう。
リリナは背筋に冷や汗をかく。なんという事だろうか、先ほどテントウムシほどの大きさしかなかった小鬼は、見た目はそのまま、今や手のひらほどの大きさに育っている。育っている?そうだ、こいつは、魔法障壁を構成している魔力を「喰って」育っているのだ。
――あり得ない。
リリナは心底ぞっとした。魔法力は動力にもなるし、熱にも、光にも、ただ一つのパンを五千人前に増やすこともできる。不可能を可能にするエネルギーであるが、不可逆の性質を持つ。いったん魔法として結実したものをそのまま取り込めるなど、あってはならない事態である。
ギギギギギ
小鬼は鳴いた。
「ンギャアぁあぁあぁあぁああ!」
叫び声。
クドイ顔の男の声。叫び声さえクドかった。
だがその惨禍にしてみれば、その声はいかにもささやかであったろう。彼の顔面に張り付いた小鬼は既に新生児大にまで巨大化している。リリナに比べれば大人と子供の差があるとはいえこの男とて魔法使い。魔力を持っている。それを食われているのだ。
貪り食われている。
ついでにその顔も。
小鬼をはがそうと躍起になっている、クドイ顔をかつて持っていた男の抵抗がやがて熄んでいく。腕にこもる力もなくなり、虚ろな目で小鬼に貪られるままになる。魔法力とは生命力。では、生命力がなくなれば一体どうなるのか?
とうとう小鬼は地上生まれの魔法使いの頸動脈を噛み切った。しかし、通常なら二メートルほど噴出するはずの動脈血はよわよわしく一回ピュッと吹き上がったきりで、以降はたらたらとしか流れない。心臓は停止こそしていないが、それに近い状態にまで血圧が降下しているのだ。
体の前面を血で濡らし、全身に鱗、額に一本の角を生やした赤黒い小鬼は既に九〇センチ、二歳児ほどの大きさになっている。
振り返った。
口角が吊り上がる。
笑ったのだ。
まさか!
自意識があるのか?
慄然とする、とはこのことだ。この魔法生物には「心」があるのだろうか?
「混乱しているようですな、リリンボン・ゼ・クシャーナ・エンリリナ」
髑髏面の男は楽しそうに語りかける。意外なほどに澄んだ声だった。
「あなたの御高名はかねがね。……あの魔女の弟子なのですから筋がいいのは当然としても、この魔法に覚えがないのが不思議でしょうがないという顔をしてらっしゃる」
そこで髑髏面はたっぷり間を取った。
「この小鬼どもは『妖蚤』ですよ。よくご存じでしょう?」
――馬鹿な!
与太話を、と思いつつもリリナは魔法障壁にかじりつく小鬼を見た。二本の大きな牙が上下に生えているだけの顎に、長くてギザギザした突起のあるピンクの舌。言われてみれば彼女は知っている。
神話の時代、神界戦争において「ヒ神」の心臓が軍神アスガイードによって割かれた際に、その悪血の海の中に潜んでいたのが妖蚤だ。
多くの英雄譚の中で、厄介な敵として登場する。
そう、「おとぎばなし」の中に出てくる怪物だ!
帝国建国の祖、大英雄ロウも若き日にこの難敵と戦っている。その際にはアスガイードの神佑を受けた救い手がこの難敵を蹴散らしてくれたのだが、今この局面で、誰が彼女を救いえるだろうか?
「単なる魔法戦でも良かったんですがね、それじゃあ面白くない。そこで我が一族に伝わるコイツの出番ってわけです」
一拍呼吸を取る。
「言い伝えでは処女の魔法使いにこいつらは卵を産み付けて、生きたまま内側から食うそうです。意識朦朧の状態で三か月後にはこいつらの大群が胎の中から生まれるって寸法ですよ。楽しみですね」
笑う。
ひそやかに、ゆっくりと。
与太話なのか事実なのか。
冷や汗をかいたリリナは髑髏面を睨みつける。目の前の妖蚤もそうだが、悠太の状態も心配だ。駆けつけてやりたいのだが目の前のこの男がそれを許すはずもない。
まさか、地上で魔法戦をやる羽目になろうとは。
勝てるのか?
それは分からない。
だが、一つだけはっきりとしていることがある。
地上での数日を過ごしたリリナの魔法量は目減りしている。この髑髏面が地上に降り立ったのがいつかは知らないが、この余裕。そのことに気付いているのだ、そしてそのことが表しているのは、このままではじり貧だという事実である。
2
そうだ、父は、出来が悪かった。
決して悪い人間ではない。だが、いくつもの事業に手を出しては失敗し、その上で懲りないのだ。
しかも不思議なことに、何度もどこかから金策をしてきては、性懲りもなくまた失敗する。謹厳実直な祖父の子とも思えないダメオヤジだった。
――そんなオヤジの血を引いた俺もダメ息子か。
秋人は苦笑して不採用通知をくしゃくしゃに丸めた。
大学四年の夏、友人たちは次々に内定をもらっているが、彼は未だゼロであった。
フリーターにでもなるしかねえか。と考える。
日本の不況はどうしようもない。大学時代の四年間をバイトとパチスロで無為に過ごした彼には武器になるような資格もない。ないない尽くしだ。
「ねーぇ」
下着姿の女が彼の背中から手を回す。胸筋を撫でまわした。バイト先であるジムの受付嬢だ。顔もスタイルもいい。彼のそれほど多くない女性経験の中では断トツのいい女だった。この三か月後にこっぴどくフラれることになるのだが、そんなことはもちろん知る由もない。
女の指がまさぐる先は決まっていた。胸の中央、少し左。心臓の位置。そこにある傷跡、その下にある硬い欠片。
「へーんなの」
女はそう言って少し笑うと、彼の唇を求めてきた。
「変な物」、いやまったくそうだ。
今でも鮮やかに思い出されるのは、ステンレス製のボウルの中で、医療用エタノールの中に沈んでいる、底辺の長い二等辺三角形の金属プレート、その鈍い虹色に輝く光と、血が混じっているのだろう、薄い鮮紅色のエタノール。
父に羽交い絞めにされ、一五歳の彼はブランドのタグのようにも見えるそれを祖父から刺しこまれる。虹色の光を反射して彼の胸の中にプレートは沈み込み、傷は癒合した。
その父の胸には血のにじんでいるガーゼと包帯が巻かれていた。どこかから仕入れてきた外科用のメスでもって自身の胸を切り裂き、息子の胸に「それ」を埋め込んだのである。
以来彼の胸の中にはその金属片が潜んだままだ。
別に目立つ物でもないし、邪魔にもならない。しかしあの日の異常な熱狂を持った父と祖父の目は、恐ろしくも深い印象をもって彼の脳裡に刻まれている。
その記憶を玩んでいると、受付嬢の指先が彼の下半身へと滑り下りてきた――。
翌朝、受付嬢と同衾していた秋人のもとに「俺の知り合いの会社」の面接に行け、という父親からの電話が来た。
ロクでもないコネでもないよりましだ。彼はリクルートスーツに袖を通すと電車に乗った。
そしてその日のうちに、内定をもらったのだ。
胸の中のプレートについては何の詮索もされなかった。「あれは魔法素子であったのか」という知識を得たのも研修期間が終わり、魔法装具が手渡されてからである。
父は一昨年癌で死んだ。母親は彼が小学生の時に家を出て、種違いの妹が出来ていたということを葬式で知った。そうか、と思い、そう口にした。
母は苦笑して、「変わらないわねえ」とどこか薄気味悪そうに呟いたものだ。
そうだ、秋人は、出来が悪い。
人間として出来が悪いと、そう自覚している。
やりたいこともなければ、やらなければならないこともない。それを探すのが人生なのかもしれないが、そんなことは真っ平御免であった。
――そういう人間の死にざまとはこういう物か。
彼は苦笑に似た顔を作ろうと努力した。
目の前の子どもは恐怖にひきつった顔をしている。まあしょうがあるまい。初めて人を殺したときは、俺も三日は寝つきが悪かった。そういう物さ。
意識がそして暗転――しなかったのだ。
*
――な、なんだ?なにが?
悠太は混乱の極みにある頭で「その変化」を体感した。
動かない。
あれほど自在な、否、彼我の境目さえなかった「鎧」がその本性を顕わにしたかのように、頑として動くことを拒んでいる。それだけではない。
「悪鬼の鎧」が、強い輝きを発しだしたのだ。
理解が追い付かない。頭の中にインストールされたはずの「取扱説明書」にはこんなこと「書かれて」いなかった。
それもそのはずというべきか。
この反応は「鎧」単体では決して起こらない反応であったからだ。この反応は、ある種の呪的鍵がなければ、決して開かないようにできている。
「鍵」。そうだ、黒い爪で貫いた男の中から何かがどくどくと染みだして、「鎧」に注入されてくる。
発光はさらに眩しさを増し、とうとう鎧は、金色に輝く光の奔流となって彼の身から解き放たれる
どさっ、と悠太は尻餅をつく。そのままどうと体を横たえた。肩をしたたかコンクリートの床にぶつける。ぶつけてから気付いた。その痛みに顔をしかめる余力すらないことを。
疲弊しきっていた。指一本動かせないほどに。
だから、その光景が見えたのは身を横たえた方向が偶然にも秋人の方向だったからにすぎない。
光の奔流は秋人に巻きつく。太陽の周りを回る遊星のように赤、青、橙、紫の光球が飛び交い、巻きついて、縛る。胸を貫き致命傷を与えた爪はそのまま再生用の「人工精霊」となって傷の急速修復を行う。悠太に理解できるはずもないが、その修復の精度も速度も、リリナのそれをはるかに超えていた。遊星は、秋人にまとわりつき、彼の肉体を支える。
「ぬがっ!」
秋人から声が漏れる。
黄金色の奔流は秋人の遺伝子を解析し、彼の胸に埋め込まれた魔法素子を通じて相互にリンクする。
知識が与えられた。鎧の持つ、本棚一竿ほどの情報が秋人の脳になだれ込んできていた。
*
時間にしたらほんの数秒。しかし体感時間にしたらたっぷり一時間ほどの「強制学習」が終わり、秋人はほとんど呆然とした表情で、呟いた。
「参ったな」
と。
参ったな――どうも俺が、皇帝の正統な血筋だったらしい。と。




