これが、彼の最期 2
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フォーダーンと地上、二つの世界の差は大きかった。
フォーダーンにはなんといっても自然災害がない。正確に言えばもちろん大雨も大風もあるが、国民全体が餓えるような、大規模な凶作は一度たりともない。
内燃機関は存在しないが、その代わりに魔法がある。
身分制度は厳しいが、「奴隷」と呼ばれる存在は帝国崩壊とともに無くなった。細く険しい道とはいえ戦争でも勉強でも身を立てる筋道はある。
「帝国」崩壊後の数十年間は確かに飢饉も発生したし、流行り病によって村がいくつも消失した。
しかしそれから四王国時代三〇〇年の歴史において、飢餓も疫病も一度たりとも発生していない。まさに神に愛されし土地、と呼ばれるのもむべなるかな。
四季を持った温暖な気候で、果樹も穀物も良くとれる。例えば大穀倉地帯であるヴァンデル三角州は毎春、雪解けによる河川氾濫が起こるのだが、その際にウライフ山の栄養豊富な土壌が運ばれて、種をまくだけでフォーダーンの四分の一の人口が食うに困らない量の穀物が取れる(むろん運河、灌漑はきちんと整備されている)。
誤差の範囲内の増減はあれど、大豊作も大凶作もない。帝国末期の飢饉は、そのことに慢心していた人々が「人は一ヶ月も物を食わなければ死ぬ」という基本を忘れていたがゆえに起こった物流の人災である。
要は農業をすれば食うには困らないということだ。
それを実現するのに「地上に棲まう者ども」はどれほど血を流してきたことだろう。
そして二十一世紀の今、いまだに実現していない。
凶作も豊作もないということは飢饉以外にも、もう一つの物を発生させなかった。つまり投機、そしてその結果としての富の偏在である。
王族、貴族や大商人と言った金持ちはもちろん存在する。だが、基本彼らの主な富の源泉は蓄財である。一か八かの冒険的投資という物がほぼ存在しないからだ。
宗教紛争と呼ぶべきものがないのも幸いした。
ある意味それは当然であろう。「神の奇跡」とそう定義しうる「魔法」が存在し、社会の中で大きな位置を占めているからだ。貴賤を問わず、、「ナストランジャ神」を最高神とするピラミッド型の宗教で一つにまとまり、喜捨と弱者救済をもっぱらとした富の再分配システムが強固に出来上がっている。国、都市、村落、宗族、家、個人、それぞれが、誕生日の神を敬い、土産神を拝み、緩やかな「フォーダーンの民」という連帯に包まれていた。
「帝国」時代は現在よりも租税も高く、貴族は奢侈絢爛であったが、それでも農民の平均寿命が男で七〇歳、女で七五歳。
地上において七〇歳と言えば「古稀」だ。
古来稀なり、と詠んだのは唐の時代の詩人杜甫であるが、その数字は地上世界の半数で未だに実感として捉えられるだろう。さらにいわゆる中世暗黒時代の平均寿命と比べればおよそ倍とすらいえる。
そのうえで、ここ五〇年あまりでフォーダーンの平均寿命は男女ともに五歳ほど上がった。嘉すべきことだ。そう、それはつまり、現代日本のそれと変わらないということだ。
そうだ、一部の地域だけとはいえ、「フォーダーン」も地上世界も変わらない、ということだ。
十九世紀、「地上世界」は変わった。産業革命以降、電気文明は地上を覆い、法治国家がそのほとんどを占め、効果的な統治をおこない、貿易は世界中から偏りをなくしている。正確にはそのどれもまだ道半ばではあるが、そしてむしろ後退している部分ももちろんあるが、二十一世紀の今現在、これほど幸福な時代は地上人類史上かつてなかった。
そして冷静に俯瞰したとき、「帰還社」は一つの結論に達した。「帰る意味などない」ということに。
もちろん個々人の不満はある。今の地位が下層にランクされていて、一発逆転が可能ならば行きたいと願うだろう。さらには郷愁、しかも先祖代々受け継がれていた郷愁があるから帰りたいという気持ちは残存する。しかし帰ってどうするのか?
現実は残酷だ。
過去の貴族が帰還したところで喜んで自らの社会的地位を明け渡すものなど誰もいなかろう。
貿易のうまみは少ない。宝石や貴金属は存在するが、「産業」とするためには(かつての日本のように)内外価格差があることが大事である。宝石はともかく、金銀は超国家的な「金座」が存在している金本位制のフォーダーン現体制下ではほとんど地上の国際標準と変わらない。
「ピンダルゥの実」や「ガランの仙桃」といった魔力の結晶した食品は売れるだろうか?これは有望だ。確かに文字通り、不老長寿の果実ではあるが、それだけにフォーダーンだけでも常時品薄だ。ましてや今はピンダルゥの実が高騰している。もし地上に売るためにこれ以上高価になってしまったら、政情不安さえ起きてしまうだろう。
魔法の品々は?確かに高級品として売り出すことが出来るだろうが、「珍品」、以上の物ではない。そもそも魔法使いが最低でも数週間単位でかかりきりにならなければできないもので産業化は不可能だし、だいたい「遠くの人と会話できる」という内容の魔法の品を必要とする者はいるだろうか?
そうだ、今、魔法と科学技術は拮抗している。時間の圧縮、空間の操作と言った魔法の得意分野ならば未だに独壇場ではある。あるが、そこまで高級な魔法を使える者など一握り。そしてそれ以外ならば科学技術の方が上を行っている。
むしろ、新しい市場とすべきなのだろうか?自動車すらフォーダーンには存在していないのだ。未だに馬車(正確には牛馬よりも家畜化された羚羊や小型の犀と言った駄獣の方が多いが)が主たる輸送機関であり、鉄道は実験線の段階で頓挫した。地上世界はの偏見さえ解ければ、売るべき物品は数限りない。
その様な正規の商取引の結果、異世界の存在はありとあらゆる種類の好奇心をそそるであろう。そうして得られる金額も決して少なくはないはずだ。
しかし、だ。
正規の取引によって得られる報酬は所詮微々(びび)たるものだ。成功したサラリーマン、それが関の山であろう。そこにどれほどの夢や希望があるというのか。もちろん帰還社が独占的に取引できる期間もそれほど長くはあるまい。
「では?」、と考える。
帰還社として、どうすれば「帰還」することが即ち成功になるのだろうか、と。
答えは簡単だ。
「地上に棲まう者ども」のもっとも得意な点を磨けばいい。
そうだ、収奪だ。
そうして、やがて、「帰還社」は一つの結論に達したのだ。
「帰還作戦」
現代戦力による魔法の国への侵攻。
「帰還社」は持てる資産を全て投げうち、賽を振った。そしてその博打は成功したのだ。世界第二位の民間軍事会社、それこそが「帰還社」、真実の姿である。
時代も後押しをした。かつては零細個人事業でしかなかった傭兵稼業が、八〇年代以降、「民間軍事会社」と名を変え、姿を変えて、「戦争のアウトソーシング」を請け負う形となった。
錬度も、装備も、国家の有する「軍隊」と比べて遜色はない。戦闘機や戦車はさすがに有していないが、戦闘ヘリや装甲戦闘車輛は戦争を展開するだけの質、量がある。
「帰還作戦」そう呼ばれた作戦は三〇年以上にわたって営々と築かれてきた。そして今この瞬間にも、侵攻は可能だ。
しかしここへきて、兵士の錬度と装備は高まったが、問題が一つあった。
こちらからあちらへと「ゲート」がどうしても開けられないのだ。
魔法の源泉がない地上ではどうしようもないが、根源的な問題である。様々な方法がとられたが、上手く行くはずもない。
たまさか好奇心( )旺盛な「魔法使い」が地上に降りてきて調査をすることもあるが、彼らを捕らえ、脅し、すかして言うことをきかせる、というのは不可能ではないだろうが現実的ではない。時間がかかるからだ。
おそらく一カ月。何の用意もしなければ魔法使いが「ゲート」を開けられなくなる時間である。いくつかの事例でそれは証明されている。
そもそも魔法使いを脅していう事をきかせる、というのはあまり上手いやり方ではない。彼らは精神によって魔力を司っているのだ、その精神に傷を負わせたり、ましてや(様々な)薬で精神を変容させたりなどと言うのはもってのほかである。
であるのならば、どのようにすればよいのか?
手詰まりであった彼らのもとにやってきた一人の少女、これこそまさに天佑であった。まさにナストランジャ大神のお導きであるというべきだろう。
彼女となら取引ができる。内乱を手引きし、その隙に実権を握ればいい。
南米でも、アフリカでも、何度も行われた策である。
上手くいく。
そのはずであった。
だが、その取引を少女の高慢がぶち壊した。
あるいは今、紫紺のローブを身に纏っているクドイ顔の男の浅慮が。
とはいえまさかいきなりコーヒーをぶっかけられるとは思ってもみないであろうから、この中年男性を責めるのは酷と言うべきか?
しかしその時のコーヒーの恨みと言うわけでもあるまいが、今まさに、少女は弾丸を浴びせられた。浴びせられ、墜落した。
3
悠太はリリナに駆け寄る。凄まじい推進力で駆け寄った。気絶している少女の肉体に弾丸は――ざっと見たところ傷つけた物はなさそうだった、いや、いや違う。
その白い額に、赤い小さな蛇がぬたり、と滑り降りてきた。
どのようにできた傷なのかは分からない。しかし失神しているという事と合わせると、先ほどの銃撃は十分以上この少女を傷つけたということだ。
傷つけられた。
ドクン、と。心臓が重々しく拍動する。
喉の奥が鉄の味を覚える。
目の前に赤い紗幕がかかる。
――傷付けられた!
怒りが、かつてないほどの怒りが少年の、そして「聖騎士の鎧」の総身に満ちる。
十三年間で、ほとんど初めての感情だった。
激怒。
憤怒。
どう呼んでもいい、どう呼んでも足りない。
憤激、
激昂。
瞋恚。
アドレナリンの過剰放出が始まり、それが少年の腕脚を振るわせる、「武者震い」を引き起こしたが、鎧はその震えをカットし、フィードバックはさせない。ただ、怒りだけを鎧は『喰った』。
――結論から言えば、リリナの心配は杞憂であった。「ライムグリーンとペールシルバーの鎧」は、あくまで鎧だ、人を守るためのものだ。
だが、
「呪われた魔法装具」、であることもまた事実であったのだ。
ウオオオオン!
「鎧」は吠えた。
吠えた?
そうだ、吠えた。
頭部もないのに?
頭部がなければ吠えられない。道理だ。
だが、見よ。
武骨で実用性の高い印象の「鎧」の胸甲から、「頭部」が生み出されている。吊り上った鋭い、燐の燃えたつ炎のような黄色い瞳。耳(であろう場所)まで裂けた口。角が生えた、流線型のまがまがしい面相。
「聖騎士の鎧」は変形を始めていた。
色が変わる。
ダークネイビー一色の中に入る蛍光オレンジのライン。
丸い印象だった装甲一つ一つが尖鋭化していく。
籠手に収まれた五指が稲妻型の長い鉤爪を生やして露わになる。
「鎧」と言うよりもそれは、そうまるでそれは、鬼だ。
魔界の悪鬼。
既に悠太の姿は見えていない。透明だった胸甲もダークネイビーにオレンジの線が走るのみだ。半透明は半透明なのだが、色が濃すぎて夜の闇の中では確認できない。
そうしてもう一度。
吠えた。
咆哮した。
魂が震えあがるような、恐怖を引き起こす不協和音。猛獣の叫喚を数百倍に増幅したようなものすごい音。
既にそれは、それだけで十分な攻撃と言えた。
「う、撃て、撃て撃てえ!」
岩風が叫ぶ。
今まで石になったかのように固まっていた八人の隊員は弾かれたように銃を構えた。
さっきまでの高揚は無い。
この手にしている自動小銃の頼りなさときたら!
かつて隊員たちに満ちていた狩猟の高揚は鳴りを潜め、原始、大型の捕食者に食べられないように必死に逃げていた「あの頃」を隊員の肉体は遺伝子レベルで思い出していた。
隊員八名のうち七名までが失禁と脱糞をしている。そんなものを腸や膀胱に貯めておく余裕などない、ということだ。残った一名もしっかり小便は洩らしているが、大便に関してはつい先ほど岩風にどやされながらもトイレで「して」来たのが幸いした。
だが状況が変わらないのは誰であっても同じだ。
きちんと訓練を積んだ兵たちではあった。しかしいかんせん経験不足は否めない。指揮官の岩風にしても最前線の経験はあれど、正面切っての戦闘を体験しているわけではない。それが不幸だ。
この場合のベストな選択は「逃げる」であったのに。
「聖騎士の鎧」、もとい、「悪鬼の鎧」は跳躍する。
7.62×39ミリ弾のシャワーを浴びた「鎧」はしかし、頓着しない。
一人の兵士の目前に着地すると、爛と目を光らせて兵士のAKMを取り上げる。
腕ごと。
ほとんど何の抵抗も出来ずに二十歳そこそこの兵士の腕は「鎧」の腕に握られていた。生暖かい血が風に流れて元の持ち主を濡らした。
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
悲鳴には耳を貸さず、追撃を与えようと「鎧」は腕を上げた。二重の意味でだ。鎧の腕と、もぎ取った腕とを。
だがしかし!
鎧の腕が動いたその瞬間に、岩風は兵に隠れるように忍びよって、狩猟用のライフルから銅で包んだ鉛の塊を「鎧」に向けて発射した。飛び出た弾丸はまさに規格外の〈・460ウェザビーマグナム〉。ゾウやサイを一発で仕留め、イヌイットは捕鯨にすら用いる。人間が二本足で撃てる範囲の中では、おそらく最強の弾丸である。
その威力は一〇〇〇〇ジュールを超え、AKMが射出する弾丸のおよそ四倍強。
その零距離射撃。
鎧は吹き飛ぶ。
「やったぜ!」
岩風は喜色を深める。だが次の瞬間に、そのゴリラじみた顔が目出し帽の下で青ざめた。
「鎧」は平然と起き上ったからだ。
背中に爆薬でも詰まっているかのような急激な起立。鎧にはこすれ傷こそあるが、ヒビ一つない。
「ッッ!」
岩風はもう一度照準を合わせようとして、すでに遅いのだということを悟った。鋭い鉤爪を有した手が、岩風のライフルを弾き飛ばす。若い隊員とは違う、岩風は反射神経を総動員させてライフルから手を放すと、拳銃をホルスターから抜いたそのまま腰だめで撃つ。狙いを付けない、勘だけの射撃。しかし、全弾命中したというのに「鎧」は素知らぬ顔だ。豆鉄砲ほどにも感じていない。
絶望。
岩風の脳裡にその二文字が黒々と湧き上がる。どうしようもない。これは、どうにもならない。彼は目を瞑じる。まるで恐怖から逃げる幼児のように。
――衝撃。
岩風はこれが死の衝撃なのだと悟った。
しかし違う。
何やら全身が痛い。今の一撃はあの巨大な掌の一撃とは思えなかった、そうだ、まさに硬い靴で蹴られたような――。
「アブアブアブ危ねえーっ!」
駿介は岩風を蹴り倒してそのまま腕をもがれた兵士を抱きかかえて退避した。間一髪。まさに首の皮一枚。否、耳一枚というべきか。
「いってえなあ、畜生!」
右耳のあった場所から血を流しながら、駿介は顔をしかめる。顔の半分を持っていかれるところだ。それを耳一枚で済んだのだから良い取引だと思うべきだろう。
そして駿介は、今彼がなんとか逃れた死地に自ら足を踏み出した男を見やる。そう、相棒の姿を。
羽生秋人の目は、すでに平時のそれだ。生に無頓着、死に無頓着。勝利に無頓着、敗北に無頓着。
それ故に、達人。
いつ斬ったのか、それは誰にも分からない。
「悪鬼の鎧」の腕は、半ばから両断されていた。
今や、「呪霊刀・無限式」は、秋人の精神を呑んでいない。かつて、ほんの寸毫前までの「剣鬼」とは違う。秋人という個性が呪霊刀の能力を完全に支配していた。
秋人は皮肉な笑みを頬に張り付かせている。何が幸いするか分からないものだ、「悪鬼の鎧」の咆哮は間違いなく精神面を攻撃する「魔法の武器」であった。その武器の攻撃によって彼の精神は揺さぶられた。揺さぶられ、目が覚めた。
呪霊刀の怨念から。
――たかが刀が、人間様を使って意趣返しをしようなどと……笑わせんなよ。
彼が刀の意思に、より正確には刀がコピーした「地上」の名人・達者たちの「技倆」と「思考の偏り」に呑まれようとしていたのは事実である。怨念?ある意味その表現は正しいのかもしれない。コピーの仕方が「原版」を破壊してしまう方法と来ては――、ただ技術のみを追求した人斬りたちの、そしてその事業が道半ばで途絶えてしまうことへの怨念を内封した、呪いによって怨霊を宿した刀、呪霊刀。
しかし見よ、今や、「呪霊刀」は、秋人が完全に支配している。
そしてそのことが意味するのは、人間の、物体としてのカタログスペック。誰も知らないその性能を、この男は今から体現しようとしていることに他ならない。
しかし「鎧」も今までのそれとは違う。ぶらぶらと半ば切断された腕が振子のように振れ、たかと思うや否や、磁石のS極とN極のようにぴたりとくっつき、すぐに傷が見えなくなった。ばかりではなく、指が自在に動き出す。切られたダメージは無い。いや、奇襲が失敗した今、むしろ窮地に追い込まれたのは秋人の方だとも言えた。
しかし、しかしだ。
切っ先を目の高さにまで上げた呪霊刀を持つ秋人の表情は依然として澄明だ。
勝機は薄い。
だがそれがなんだというのか。その瞳はそう語っていた。
とん、と秋人はまるで散歩でも行くかのような軽やかさで一歩前に踏み出す。
 




