堕ちてきた少女 1
第一章「墜ちてきた少女」
1
高橋悠太は今夜もこっそりと家から抜け出した。
父も母も仕事の関係から朝が早い方で、夜は弱い。妹も一度寝たら朝まで起きない。
深夜一時少し前、彼は部屋の窓から静かに抜け出す。
三十年ローンの一軒家。建売とはいえ神奈川県S市にあるのだから立派なものと呼べるだろう。
クロックスサンダルが窓の下、植え込みの陰に隠してある。悠太は音をたてないように細心の注意を払うと、夏の街を歩きだした。
ごそごそと水色のスウェットパンツからスマートフォンを取り出し、ラジオのアプリを開く。
イヤホンを耳にはめ、少し待つ。CMが流れてきた。
悠太は無意識にニコリとする。
今日も繋がった。
当たり前の話だ。だが、ラジオがインターネット経由で繋がる時、少年は少しだけほっとする。機械の機能といった無機質なものではなく、「うむ、お前と世の中を結んでやろう」とでもいうような意志をこの小さな板状の機械から感じるからだ。
CMが終わると騒々しいジングルが流れ出してきた。
『今週気付いたこと~!』
テレビでもよく見る太ったパーソナリティが、元気よく生放送を始めた。よしよし、と悠太はほくそ笑む。これから二時間、彼は退屈せずにすむ。
LEDの街灯が鋭く尖った光で彼の影をアスファルトに投影する。
八月の第一週。
夏休みが始まって二週間。
しかし彼の夏休みは始まって既に一カ月を超えている。(正確を期すために記しておくと、彼は期末テストの三日間だけ登校したのだが、そのあときっかり三日間、文字通り寝込んでしまった。)
悠太はラジオパーソナリティが語る不登校の自虐ネタに含み笑いをする。「しょうがないなあ」と思う。
しょうがない。
まったく、バカバカしくもしょうもない、のは分かっている。そしてどうしようもない、のもまた分かってしまっているのだ。誰が悪いというわけでもない。しかし学校へ行く、という行為が今の彼には恐ろしいストレスになってしまっただけで。
悠太はてくてくと夜道をあてどなく歩く。
ここいら辺の地理は完全に頭の中に入っている。無心に歩いても二時間の散歩コースは完璧に作り上げられていく。
どこで間違ったのか?
ラジオを聞きながら悠太は詮方ない追憶にふける。
小学校五年生の冬、よく遊んでいた友達が急に予備校に行くようになった。
「私立中学校に行くんだよ」
その志望校の名前は彼も知っている物だ。電車で三〇分。歩きも含めて家から一時間強でその有名中学校まで行ける、というのは目から鱗の出来事だった。
その晩、彼は家族共有のタブレットでその私立中学校について検索した。
なんだかわくわくした。
そし悶々と一週間ほど考え込んだであろうか。母に「私立に行きたいんだけど」と言った時、覇気
のないことだけが悩みの種だった息子の意志に母親は破顔した。
父は授業料に思いを馳せたが、それでも息子のやる気に水を差すようなことはしない。妹はお兄ちゃんに似合わないこと。と思いながらもミカンをむいて食べていた。
その時のことを鮮明に覚えている。その時着ていたミントグリーンのフリースの色もだ。
受験まで一年を切っていた。
友人は小学校三年時からそれ用の塾に通っていたのだ。悠太もスイミングスクールをやめ、予備校一本に絞った。
春休み、夏休みと予備校の合宿にもいった。
友人たちに「私立に行ったら寂しくなるなあ」などとも言ってしまった。
そして入試本番。
彼は何もヘマをしなかった。
別にインフルエンザに罹ったわけでも、受験票を忘れたわけでも、解答欄を間違えたりもしなかった。
そして節分の日、彼は普通に落ちた。
「残念です。でもこの経験は間違いなく悠太君の財産になりますよ」
予備校の若い講師はそう言って顔をそむけると、電話をとり、合格者からの報告を満面の笑みで聞いた。
母が挨拶をする間、悠太は細かい蒸気を上げる加湿器をじっと見ていた。
それからの二カ月、悠太はふわふわとした気持ちで小学校を卒業した。幸いにも問題なく近くの公立中学校に入学し、通いだした。
別に失敗組として縮こまっていたわけではない。小学校からの友人には笑われたが、むしろやる気の空回りした一年間だったともいえる。このくらいが自分の分相応なのだ、と思ったりもした。
中学では何か部活に入ろう、と思った。
祖父母は彼にスマートフォンを入学祝いに買ってくれた。
――こんなものさ。
ゴールデンウィークが過ぎた。
部活は決まらなかった。全員なにがしかの部活動は必須だったから、教師に呼び出された彼は有名無実な「読書部」に入部して、一度だけ参加すると、その後図書室そのものに足を向けることもなかった。
――こんなものさ。
初めての中間テスト、クラスメイト達は初の「考査試験」に緊張気味だったが、悠太にとっては何ほどの事もない。
学校で真面目に授業を聞いていなくとも、教科書に書いてあることがすらすらと頭に入った。
――こんなもんだよ。
深夜徘徊が始まった。
――こんなものなんだ、俺は。
平気だ、と思った。
だが、無論、違う。
本当に自分は一所懸命にやっただろうか?
真剣にやっていただろうか?
やっていたさ!
反駁する。
本当に?
本当に、倒れるまで君はやったのかい?
どきりとした。
自分からの冷笑に悠太はどきりとした。
その翌日から、彼は学校に行くと頭痛がするようになってしまったのだ。
*
悠太はちらっと小径に目を向けた。マンションの中を通り抜けるための道だ。いわゆる公開空地というものである。この道を行こうか、あちらの国道を行こうか。
分かれ道、文字通りの意味での。
――どうしようかな。
思案するまでもなく、小径に入っていった。国道沿いは目立ちすぎる。週に一回くらい、気分転換に歩くのならばいいが、普段は街路樹と建物に挟まれたこの細い道を行く。
特に思考とも言えない、感覚、あるいは習性――日陰者としての――と呼んでもいいのかもしれない。
しかし彼は決断し、選択した。
あの時の、小五の冬の決断とは全く違う、だがまぎれもなく人生を変えた決断だった。
そのことを知る者は、無論、今はいない。
2
黒いワンピースの少女、リリナは舌打ちをした。
しつっこい。
後ろを振り返るまでもない、右手に持った『魔法の若枝』から情報が絶え間なく入ってくる。彼女の後を追う『猟犬』の影が一つ。
「魔法装具か」
リリナはそうひとりごちた。
魔法の発動様式を機械的に作りつけ、使用者の肉体から魔力を得ることで、魔法使い以外でも魔法が扱えるようにする器具だ。高名な魔法使いが作り上げたそれら「魔法装具」は、工業製品というよりは芸術品の範疇に入る。一つの例外もなく彼女の住む世界、「フォーダーン」からこの「地上世界」に持ち込まれたものである。地上堕ちした者どもには過ぎたる道具だ。
――大体があの男!
彼女は「クロニクワの末裔」と名乗ったクドい顔の男の事を思い出してムカムカした。
――古臭い大貴族の名前を出したクセに、古式礼も知らないなんて、単なる野蛮人より百倍タチが悪い!
頬と黒髪をねぶる風すらもこの街はねちっこくも蒸し暑い。そのこともリリナの不機嫌さの原因であった。
いらっとしてリリナは跳躍するために思い切り蹴り込む。
十二階建てのビルの屋上、その赤錆の浮いたフェンスを。
黒いレースのケープが風に翻った。高層とまではいかないが十階前後の雑居ビル群をひと跳びで五棟、越える。
滑空魔法。
放物線のピークから文字通り宙を滑るように進む。見かけの質量を減らして、その上で足底に不可視の可変翼を作り上げる。
速度そのものは大したことはない。ないが都市部にあって建物に邪魔されることなくほぼ一直線に進めるうえ、魔法の消費も飛翔魔法の一割に満たない省エネルギータイプだ。使い勝手が良い。ましてやあの姫様に随いて王都の屋根を駆け巡ったリリナはこの術の達人と言えた。
追ってこられる者などそうざらにはいない。
だが。
小憎らしいことに『猟犬』はそれでも彼女を追い掛けてくる。
――どうしたものか。
少し思案するが、その思案すらも少女のいら立ちを募らせるばかりであった。
どうするもこうするもない。交渉は決裂したのだ。
それによってリリナは丸一日を無駄にした。
大切な大切な一日という時間をだ! そもそも初めから交渉の余地などない、彼女の出した提案(それは常識ある者にとっては命令、と置き換えるべきものであったかもしれない)に納得できないのであれば、一切干渉してこないければそれで良いのだ。
それでも干渉するというのであれば?
無論、実力で排除するまで!
リリナは滑空魔法を解除すると、動きやすそうなマンションの屋上にとどまり、後ろを振り向いた。猟犬が追い付くまでの一瞬で魔法の若枝を宙に走らせる。かすかな燐光が中空に文字を描き、その発光する文字は集合すると七つの鬼火となって少女の身体の周りを浮遊する。
リリナはきっ、と灰色がかった緑の瞳で虚空を睨んだ。
その睨んだ数瞬の後に、一個の丸く、黒い影がリリナの直上から降ってきた。
ゴム毬を思わせる丸まっこい身体。
夜の光を反射する金属製のブーツを履いていた。
*
「バネ脚」。
その魔法装具は、濃紺のスーツに同色のネクタイを締めた伊藤俊介に十数メートルのジャンプ力と、釘の頭ほどの足場でダンスを踊れるバランス力を付与してくれる。
ビルのように突起物の多い建物ならば、鼻歌交じりに跳び昇り、乗り越えることなど造作もない。
「エンリリナさん、」駿介は、困ったような笑顔で彼女の正式な名前を呼び掛ける。「申し訳ないですが戻って来てもらいたい、と上の者から言われてるんスよ」
嫌がる少女を強制的に連れ戻す。
しかも(指を砕かれたうえに頭からコーヒーをぶっかけられた)上司の命令は「手足の一、二本へし折ってもかまわん!」なのだから、駿介にしたら困惑せざるを得ない。
いやそもそも。
――この娘は俺より強いんじゃないの?
おそらくその想定に間違いはない。懐に忍ばせている密輸品のテーザー銃のなんと心もとないことか。
リリナは「はっ」と鼻で笑った。美少女にそう笑われるというのをご褒美と思う人間もいるかもしれないが、その少女の笑いには、根深く選民意識が見えた。さすがにそれでは、ご褒美も何もあったものではないな、と駿介は薄ぼんやりと思考する。
「あなた方に用はない。だから邪魔はしないでもらいたいな。この街に捜し物があるのは間違いのないことなのだから」
ぶん、と音を立て、リリナの周りを浮遊している発光体が間合いを取るかのように広がった。少女はやる気満々だ。
――困ったなあ。
駿介は懐に手をやる。
――上手くいく気がしないよ。
普段は陽気な小男が、眉を八の字に寄せる。
リリナの強気な視線が彼の視線と交わった。
次の瞬間。
駿介はポーンと跳びあがり、後ろも見ずに逃げ出したのだ。
「待て!」
と、つい、言ってしまった。
そして、その瞬間「鬼ごっこ」の攻守が逆転したのだ。
『男を追う。』
ほとんどそれは反射的な思考だ。リリナにしても経験豊富な戦士と言うわけではない、『つい』追いかけてしまったのである。それはある意味人類の変わらぬ心性そのものなのかもしれない。
発光体が駿介の身体をかすめる。空気がイオン化した匂いが夜気に混じる。それを一発でも喰らえば相当ヤバい、と本能が教える。スピードは彼の最高速度よりはるかに速いが、幸いにも少女から一定以上は離れられないようだ。
「ヒモ付、ってことね」
そうでなければ一瞬でボコられるな。と駿介は正確に状況判断をする。
だが、彼の「魔法装具」は都会を走るのに、これほど適したモノもないのだ。そして地の利もある。この「鬼ごっこ」、実際は駿介に分がある。
それでも、リリナは追ってきた。
作戦通りに。
――後は頼むぜ、秋人クン。
駿介は相棒に祈りながら逃げ続ける。
否。
罠に、誘い込む。