表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪のリュカ  作者: ash
4/4

提督館の長い夜

 interlude



 仏頂面と不景気面が並んでカウンターに座っている。今宵最後となるであろうこの二人の客は、なんとも奇妙な組み合わせだった。お互いに会話はなく、静かな店内に流れる沈黙が気まずい。さて、どうしたものかと俺は考えあぐねて、とりあえず果実を絞った熱い湯のカップを二人の前に差し出すことにする。


「……」


 何も言わずに飲み干す黒髪の仏頂面と、


「あ……いただきますぅ」


 舌足らずな口調で礼を返す、ぼさぼさ頭の不景気面。その後ろで、ニーチェが面白そうにこちらの様子を伺っていた。

 店じまいの時間はとうに過ぎていて、ウェイトレスの娘たちはみな帰らせている。今いるのは俺たち四人だけだ。半ば引きずるようにして、リュカがぼさぼさ頭の少女を連れてきたのがつい先刻。衛兵を呼べと喚くのをどうにかなだめて落ち着かせたのだが……。


「で、一体何がどうしたってんだ? 俺ァ明日も早い。そろそろ休みたいんだがね」


 頬を膨らましたままのリュカに、俺はため息混じりに尋ねる。碌でもない理由なのは最初から解っていた。彼女が面倒ごとを持ち込むのは、何も今夜が初めてではない。

 思い返せば、こいつとの付き合いも長い。今や街一番の賞金稼ぎである『黒髪のリュカ』は、見た目はまだ成人を迎えたばかりの小娘だ。後ろでひとつにまとめた長い黒髪はあざなの通りで、切れ長の瞳と凛々しい顔つき、健康的に日焼けした肌としなやかなその体躯と相まって、彼女は野生的な美しさを放っている。

 南部の生まれであるエデッサ人の気質に違わず、リュカは陽気で、勝ち気で、かつ荒事を好んだ。すでに戦士たる彼女は戦うことに躊躇いはなく、流した血は自ら拭い、すべて舐め取って生きてきたのだろう。得物である二振りの短剣は爪と牙で、跳ねる黒髪はまるで尻尾のようだと誰かが言った。リュカは人の姿をした狼だった。彼女はいまだ多くを語らない。生まれ故郷で大きな争いがあったこと。天涯孤独の身であること。俺の知るリュカの過去はその程度のものだ。戦火に追われ、群れからはぐれ、腹を空かせた独りぼっちの狼。そんな一匹狼が人に懐くようになってから、もう数年が経つ。


「……コイツがあたしのベッドに勝手に寝てたのよ」


「知り合いか?」


「んなワケないでしょ。知らないっての、こんな顔」


 そう言ってリュカが隣の丸椅子を軽く蹴った。ゆっくりと舟を漕ぎ始めていたぼさぼさ頭の少女は、はっと我に返ったように慌てて口元の涎を拭う。挙句には湯のカップに気付いてまた「いただきますぅ」と両手を合わせるものだから、さすがの俺も天を仰いだ。どうやら長い夜になりそうだ。


* * *


「わたし、シャーリィっていいます」

  

 しばし眠り姫のお目覚めを待つ。呂律が回りだせば、少しクセのある訛りが耳をついた。ほわんと緩んだ顔で微笑むと、シャーリィと名乗った少女は湯気の上がるカップを美味そうに飲み始める。再びリュカに椅子を蹴られ、湯を喉に詰まらせて咽るまで。


「あのサ、ああいうのを寝床泥棒っていうんだよ。知ってるか? ね・ど・こ・ど・ろ・ぼ・う」


「ええと、誰も使っていないみたいだったので、いいかなあって」


 てへ、と何故か照れたように小首を傾げるシャーリィ。リュカは黙って立ち上がると、少女のその細い首を絞めてやろうとして、ニーチェに止められる。


「まあまあ。元々はただの物置小屋だったし? リュカだってしばらく家空けてたわけでしょ? 行き先も告・げ・な・い・で」


「……んだよ、今それ関係ないだろ」


「服も脱ぎっぱなし。ナイフだって鞘にも仕舞わずにそこらに出しっぱなし。あんたが何日も放っておいた食べ残しのお皿、今からでもゴミ捨て場から拾ってきてあげよっか?」


「うっさいなあ。自分の部屋なんだから、どう使おうがあたしの……」


「リュカ」


「そ、そりゃあたしだって居候の身だけどさ。だからって、誰も使ってなかったからいいかなっていうそのおかしな発想がっ……い、痛いってば!?」


 天下の『黒髪』も、ニーチェの前では形無しだ。そのうち笑顔でリュカを羽交い絞めし始める自分の娘に末恐ろしさを感じながら、俺は改めてシャーリィを見やる。背は小柄。肩口までに切り揃えられた銀髪に、鼻筋の通った細面と白磁のような肌の色。年の頃はリュカやニーチェより少し若いくらいか。一見、どこにでもいるような可愛らしいお嬢さんに見えるが、何よりも彼女の瞳の色が俺の目を引いた。赤い。まるで紅玉を嵌め込んだかのような真紅の虹彩が、ときおり妖しく光を照り返す。それは、長い客商売の人生の中でも初めてお目にかかるモノだった。

 

「あんた、見たところこの辺の者じゃなさそうだが……」


「旅人さん? なんか面白い格好してるねえ。でもそのクロークちょっと可愛いかも。どこで売ってたの?」


 話の途中で割り込んできたニーチェが、そのままカウンターに座る二人の間に無理やり入った。迷惑そうに顔をしかめるリュカと、はにかむシャーリィ。

 こうして三人の女が並ぶと、俺はもやのようにまとわり付いた違和感を確かなものにする。エデッサ人のリュカに、カトゥス人のニーチェ。この二人のどちらともシャーリィの顔つきは似ていない。見た目と話す言葉で大体の人間の出でころは知れるが、彼女はそれが判らない。別の大陸から渡ってきたのだろうか。その身もまるで巡礼者のような奇異な出で立ちで、一層この少女を異邦人たらしめていた。

 もっとも、ニーチェの目にはシャーリィの装いも乙女の新たな流行か何かに見えるようで、その風変わりな意匠に興味津々だ。話の方向もいつの間にか寝床泥棒から離れていく。なんだかんだとニーチェがこの場を一番楽しんでいた。すっかり雰囲気を和ませた娘を見ているうちに、俺の覚えた違和感もどうでもよくなっている。


* * *


 事の経緯いきさつはこうだった。シャーリィは知人を訪ねるためにベルクトにやってきのだが、道に迷っているうちに荷物を全て盗られてしまったらしい。途方に暮れた末、なんとか一夜を凌ごうとどこかの納屋に忍び込んだまではよかったものの、そこには運悪く先客がいた。


「あのときは本当にびっくりしましたあ。大きな角の悪魔に食べられちゃうんじゃないかって!」


「……食われちまえばよかったんだよ」


 頬杖をついたリュカが、そっぽを向いたまま小さくつぶやく。耳ざといニーチェが窘めるようにリュカを小突いた。

 路銀の節約のために、民家の納屋をこっそりと拝借する旅人も多い。もっとも、牛や馬と同衾するのに抵抗のない者に限られる話だが。藁のベッドも意外と寝心地は良いと聞く。家畜の糞尿の臭いに包まれて熟睡できるかどうかは別として。

 飼われていた牛に顔を舐められ、派手な悲鳴を上げたシャーリィは納屋の持ち主に見つかり、さんざん追い掛け回された挙句に、提督館まで逃げてきた。


「で? 隠れる場所を探しているうちにリュカのねぐらを見つけて、これ幸いと寝入ってしまったと」


「お恥ずかしながら……」


 言葉を補う俺に微笑むシャーリィ。俺は二の句を飲み込んだ。抜けているのか、したたかなのか、その判別に迷う。

 理由はどうであれ、見知らぬ他人が家に勝手に上がり込んでいたのは問題だ。しかし、シャーリィの愛くるしい仕草と無邪気な笑顔を見ていると、咎める前に毒気を抜かれてしまう。彼女が例え金品が目当ての輩だったとしても、押し入った先で幸せそうにベッドで熟睡しているようではなんとも締まりのない話だった。提督館の客には変わり者が多い。どうもこの娘シャーリィも例に漏れず同じニオイがする。


「あ、アレは見た? 今、目抜き通りの広場に曲芸のジプシーが来てるの」


「なんか、お馬さんの背中で逆立ちしてましたけど」


「そーそー、アレ。見てるこっちがヒヤッとしちゃうよねー」 


 楽しげな笑い声が重なった。ニーチェはシャーリィがいたく気に入ったようで、今や二人は知己の友人のように打ち解けて談笑している。今夜ばかりはニーチェの人懐っこい性格に助けられた。無骨な男の俺では、この場を上手く収める自信がない。

 俺はちらりとリュカを盗み見た。会話には交ざらずに頬杖をついたままのリュカ。一番の被害者には違いないのだが、話は既に別の方向に行ってしまい、もう彼女の立場は蚊帳の外だった。そんなリュカの胸の内を少しでも汲んでやろうと、俺は黙ってその空いたカップに二杯目の果実を注いでやる。


「それで、その知り合いって人はこの街にいるの? 名前さえ分かればすぐに探してあげられるわよ。ねえ? 父さん」


 ニーチェがどこか自慢げ言った。酒場の一つとして名を連ねる傍ら、情報屋の顔を持っていた俺にかかれば人探しは容易い。決して自負しているわけではないが、自惚れでもない。任せろとばかりに頷く。


「母から預かった手紙を失くしてしまったのでよく思い出せないのですが、確か……メアリ、なんとかさんだったような……」


「メアリ、ね。そりゃ親戚か何かかい?」


「いいえ。一度も会ったことありません」


「んー。じゃあ、お前さんの母親の知り合いってことか?」


「……たぶん」


「えーっと、シャーリィちゃん。そのメアリさんなんだけど、どこかでお店やってるとか、大体どの通りに住んでるとかも分からない?」


 申し訳なさそうに首を振る少女。それからは何を聞いても彼女は曖昧に微笑むだけだった。俺は顎鬚をしごきながら小さく唸る。ニーチェも困ったように頬を掻いた。和やかだった雰囲気に、再び気まずい沈黙が影を落とす。

 姓はおろか、何処に住んでいるのかも分からず、『メアリ』というありきたりな女の名前だけを頼りに人を探すことは、少しばかり骨の折れる仕事になる。ここは散歩ついでに一巡りできるような田舎町とはワケが違う。ベルクトは何千もの人口を擁する巨大な交易都市であり、人の出入りも激しい。俺自身、メアリの名に思い当たるだけでもすぐに数人は書き出せる。シャーリィのいうメアリとも、運が良ければすぐに巡り会えるはずだ。しかし、逆ならば街を歩き回る羽目になる。何日もかけて。文字通り、それは足の骨が折れるような仕事だった。ゆえに俺とて手を貸すのは吝かではないし、ニーチェもそのつもりだろう。ただ、気がかりなのはシャーリィ本人がそれを望んでいないことにある。


* * *


――もう少し種明かしさえしてくれれば、助けようもあるんだが。

 

 シャーリィはおそらく、どこかの家に女中として奉公に出されたのだろう。母から託されたのは手紙ではなく、職を斡旋する紹介状だったのかも知れない。それらしいことを匂わせた際に彼女は一瞬だけ身を強張らせた。薄っぺらい笑みを顔に貼り付けたまま、その赤い瞳を僅かに細めて。俺は敢えて詮索をしなかった。ニーチェも薄々感付いているのか、言葉を慎重に選んでいる。けれど、シャーリィはただ口をつぐむだけ。『メアリ』の単語が出るたびに、彼女の指が震える様が見ていて痛々しかった。無論、コトの真相は知れない。しかし、こうだんまりを決め込まれては、嫌でもいらぬ想像をかき立てられてしまうものだ。彼女の置かれた境遇というものを。

 いくらかの金と引き換えに、労働力として市場に子供を売る親はいくらでもいる。奴隷という言葉はベルクトの祖である開拓民たちによって駆逐されたが、貧困そのものがなくなったわけではない。リュカのように戦争で親を亡くす者もいれば、日々のパンを得るためだけに親に見捨てられる者もいる。うちのウェイトレスの一人、マルタがそうだ。彼女は路上で物乞いをしてどうにか命を繋いでいたところをニーチェに拾われた。リュカは、マルタは、そしてシャーリィは初めて潜るベルクトの門をどのような思いで見上げたのだろう。想像し難い。否、想像などしたくもない。


――逃げたいのか、もしくはすでに逃げ出したあとだったりしてな。


 いずれにせよ先立つものがなければその境遇から抜け出す術はなく、伝手つてもない見知らぬ土地で、若い女が選べる道はあまりにも限られている。少なくとも、このリュカのように一人では生きられまい。


「……」


 当のリュカと目が合った。その瞳にはもう、先ほどまでの激しい感情はなく、何かを思案するような深い色が窺える。俺の無言の視線を受け止め、ほんの僅かに頷いたように見えたのは気のせいだったか。

 

「……アンタ、これからどうすんのさ」

 

 しばらく黙って二杯目のカップを傾けていたリュカが、ここにきてようやく口を聞いた。シャーリィには目を向けず、視線を遊ばせたまま、ぼそりと呟く。


「あ、はい。荷物をまとめて……って言っても大したものはないんですけど、ここを出ます。今すぐにとは言えませんけど、ベッドをお借りした代金もいつか必ず。……調子がいいのも解ってますが、できれば衛兵さんを呼ばないでいただけると助かります」


 自嘲気味に笑うシャーリィ。何かを言おうと口を開きかけたニーチェを遮るように、シャーリィはリュカの方に体ごと向き直ると、しっかりとした口調でそのこうべを垂れる。


「リュカさん、すみませんでした。勝手に部屋を使ってしまって」 


「別にいいよ、何も盗られてなかったし。……あたしも昔はアンタと似たようなことをやらかして痛い目に遭ったもんだ。ま、せいぜい次は上手くやりなよ」


 声を荒げることもなければ、毒を吐き付けるでもなく、リュカは意外にもシャーリィの謝罪を素直に受け入れる。カップの残りを飲み干すと、彼女は静かにカウンターを立った。らしくないなと思う俺は、次にリュカが発した言葉に、さらに自分の耳を疑うことになる。 

   

「ご馳走さん。いくらだ?」


「……なんだって?」


「だから、こいつのお代はいくらだって聞いてんだよ」


 日々の飲み食いすらツケるような女が律儀に勘定を催促するのだから、思わず聞き返したくもなる。案の定、ニーチェも目を丸くしていた。驚かないのはシャーリィ一人だけ。いくら聖域たる店内とはいえ、こんなモノは客人に振舞う茶みたいなものだ。ましてや品書きにも載らない、余りものの果実を絞っただけの粗末な湯の一杯に、いくらの値打ちがあるというのか。俺達はお互いに気を遣うような関係はとうの昔に終えている。そもそも、出会った頃からそんなモノなど存在しない。ゆえにリュカの意図が掴めず、俺はまじまじとその顔を見つめる。しばし見つめ、なおも見つめ、リュカの頬が朱に染まったあたりで、ふいにそれを思い出した。


「あー、そうだな。今夜はオマケで金貨一枚にしといてやる」


 次の瞬間、噴き出す音が奏でられた。おおよそ演奏とは程遠い出来だが、反応としては上々だ。もちろん奏者はシャーリィとニーチェの二人である。


「なっ! なんでこんなのが、き、金貨一枚もすんのよっ!?」


「こんなのとはご挨拶だな、ニーチェ。こいつはあたしらが易々と口にできる代物じゃないんだよ」


「まったくだ。お前も酒場の娘ならその一杯に敬意を払え」


「はあ!? ちょっとソレ意味解んないんだけど!?」


 娘の怒り顔を眺めるのもそんなに悪くはない。自分のカップに釘付けになったままのシャーリィに気取られないよう、俺はニーチェにニヤリと笑って見せた。ややあって彼女の表情が訝しさに変わり、次いで考え込むものに変わる。はっと何かを思い出したときには既に手遅れで、まるで魚のように口をぱくぱくとさせたあと、ニーチェは乱暴にカウンターに座り直した。何も言わない。いや、言いたくないのだろう。娘の呆れ顔を眺めるのもそんなに悪くはない。

   

「どうした?」


「……ません」


「聞こえないよ」


「わたし、そんな大金……は、払えません」


「おいおいおい。寝床泥棒のうえに食い逃げかよ。アンタ、おとなしそうな顔してなかなかのワルじゃん。……衛兵の詰め所にしょっぴいたら、特別に報奨金とか出たりして」


 一方、こちらは仕上げにかかっていた。顔面蒼白なシャーリィの耳元で、芝居じみた口調のリュカが小悪魔のような笑みを浮かべている。もちろんシャーリィはそれが判らない。ほんの少しでも彼女の頭に冷静さが残っていたのならば、或いは自分が騙されていることに気付けたかも知れない。何せ俺の出したものは、歓楽街のガラの悪い店ですらシャーリィに同情するような「ぼったくり」の一杯だったのだから。ちなみに我が提督館で人気の黒エール酒は一杯銅貨一枚。もう少し贅沢を楽しみたければ、スパイス入りのワインか蒸留酒をお勧めしておく。こちらは一杯銅貨十枚ほどだ。今さらだが銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨百枚で金貨一枚に相当する。これは子供でも知っていることだが、念のため付け加えておく。


「なあ、提督。ここじゃ飲み代払えないヤツの末路はどうなるんだっけ?」


「そりゃお前、労働と商売の神様が仰るにゃ皿洗いと相場が決まってる。そうさな、万が一逃げられても敵わんから、完済するまでは空き部屋にでも放り込んどくかね」


「嗚呼、ミシェルの髭にかけて、アンタには心から同情するよ。知ってるか? ここの厨房はとびきり人使いが荒くて有名なのさ。なあ、ニーチェ?」


 腰をくねらせたリュカが神に祈る振りをする。そして矛先はいよいよニーチェに向けられるが、提督館の看板娘らしかぬ奇声を上げたかと思えば、ニーチェはリュカともつれ合いながら床に転げ落ちた。二人の取っ組み合いの喧嘩を見るのは久々だ。じゃれ合っているようにも見えなくないが。いっそのこと、店の余興にして金を取ってもいいかも知れない。そんなことを思いつつ、俺はシャーリィの空っぽのカップにミルクを注いだ。砂糖たっぷりの熱いミルクを。ぎょっとする彼女を手で制し、どこか独り言のように俺は呟く。

 

「心配せんでもこいつはオゴリだ。いらんのなら飲まなくてもいい。俺はこれからおてんば娘たちの仲裁に入らにゃならんから、今ならこっそり勝手口から出て行っても誰も気付かんだろう。今夜の出来事は単なる夢だったの一言で片付く。もしお前さんさえよければ、ゆっくり味わっていくといい。ぐっすり眠れる」


「……いただきます」


 じんわりと瞳に涙を浮かべてシャーリィが笑う。いい笑顔だった。俺はその頭を撫でてやりながら、箒を得物に戦い始めたリュカとニーチェの二人をどう取り成したものかと考える。正直言ってしまえば、何も考えていない。ただ笑い出したくて堪らなかった。 

 まったく同じなのだ。俺たちがリュカと初めて出会ったあの夜と今夜が。悪酔いした荒くれ共を相手に、たった一人で暴れ回った黒髪の少女の話題は、いまだ提督館の常連客たちに人気の酒の肴だった。多少の尾ひれはあれど、「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」と盛り上がるその内容は概ね正しい。けれど、実は話には続きがある。

 事が片付いて、黙って出て行こうとするリュカを、礼くらいさせろとニーチェが首根っこ掴んでカウンター席に座らせたのだ。皆の見守る中でおずおずと料理に手を出したリュカ。しかめっ面で全ての皿を平らげた彼女は料理の代金を置いていこうとしたが、俺はやんわりそれを断った。軽い押し問答の末に、そこでニーチェはあろうことか法外な支払いを突き付けた。彼女曰く、「不味そうに食べられるのが我慢できなかった」とのこと。勘定を巡ってリュカとニーチェはひと悶着あったが、事の顛末はご覧の通りといったところだ。あのときのリュカの顔を俺は忘れない。そう。ちょうど先ほどのシャーリィのように。意趣返しとは、つまりこういうことを言うのだろう。リュカは文字通り体で借金を返した。労働と商売を司るミシェルの戒律に従い、皿洗いをこなして。最初は手際の悪さに厨房では怒鳴られっぱなしだったが、ウェイトレスたちに慰められ、険悪だったニーチェとも一言、二言会話するようになる。気付けば一週間はとっくに過ぎていて、一ヶ月、半年、そして季節がひとつ巡る頃にはリュカは提督館の一員になっていた。以来、端から数えて二番目のカウンターはリュカの特等席となり、そして俺とニーチェには家族が一人増えた。



 interlude out... 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ