寝床泥棒
夜も更けてくると賑やかだった提督館も静かになり、客の姿もまばらになってくる。最後の一人が店を出る頃には、あたしの意識はもう半分夢の中だった。よほど体が疲れていたのか、ちびちびと蒸留酒を舐めているうちに眠気が襲ってきて、グラスを何度も取り落としそうになる。顔馴染みの連中が帰り際に肩を叩くたびに、夢見心地なあたしは適当に生返事を返していた。
「あれ、もしかしてこの子寝ちゃってんの? ちょっとリュカ、寝るなら自分の部屋で寝なさいよー」
テーブルの食器やらグラスやらをいそいそと厨房の洗い場に運びながらニーチェが言った。いつもなら店じまいのあとに提督館の面々と朝まで飲み明かすのだが、今夜はとてもそんな元気がない。ベケットの野郎のお陰でせっかくの夜が台無しだ。酒の肴に取っておいた、あたしの蔵出しの冒険譚も次までお預け。カウンターに突っ伏したあたしはもう寝床に戻るのも億劫で、このまま不貞寝を決め込みたかった。そのうち誰かが毛布を持ってきてくれるだろう。
「ほら、リュカってば、風邪引くよ!」
けれど、実際はそうはいかない。お節介なニーチェが体を揺り動かしてくる。犬のように唸るあたし。寝ぼけ眼のむこうで他のウェイトレスたちが可笑しそうに笑っていた。どうやらここで一夜を明かすのは難しいらしい。あたしはニーチェに抱えられるようにして、ずるずると特等席から引き剥がされた。
「あとで体拭くお湯持ってくから待ってて」
ちょっと臭うわよと、ニーチェが顔をしかめる。その目はまだ少し赤く、頬に涙の伝った痕がうっすらと残っていた。あたしはそれに気付かない振りをして目を逸らす。むずがる子供のようにニーチェの腕の中から逃れると、あたしは提督館の裏口から外へ出た。なんだか気分が悪い。
「すぐ行くから起きてなさいよー?」
戸口のむこうから聞こえる声。いつまで経ってもニーチェにとってあたしは世話の焼ける妹だ。ありがたいことだとは思う。けれどその献身も度が過ぎると少し鬱陶しい。特に、今日みたいな夜は。身も心も紙やすりで削られ、鮮血のニオイが鼻の奥まで詰まり、まだ戦いの昂ぶりが手に残っている、そんな夜には――。
「……」
震える指先を見た。あろうことか今、あたしは彼女に短剣を突き立てる自分を思い描いている。ニーチェの背中に、腹に、胸に、そして苦痛に歪むその顔へと。ニーチェだけでなく提督もベケットも同じように、あたしは短剣を躊躇いなく振り下ろす。仕事と称して名も知らぬ人間に自分が下した今日の行いを、それを一瞬の幻の中に思い描いている。あたしは喉の奥で小さく笑い、そして嘲った。
ここに帰ってくるのは、まだ少し早かったのかも知れない。
わずかに吹く夜風が熱くなった頬を心地よく撫でる。少し歩いた裏庭の離れに、自分の寝床であるその物置小屋は建っていた。途中にある井戸の水を汲み上げて軽く喉を潤すと、あたしは眠たい目をこすりながら小屋に入る。
思えばここ何日は食事はおろか、睡眠すらまともにとっていなかったことに気付く。今までの稼ぎの勘定に、短剣の手入れやら色々と片付けておかなければならないことはあったが、今夜はもう全て後回しにして眠ってしまいたかった。陰鬱な気分こそ持ち直したものの、ついさっき裏庭でぶちまけた胃の中の料理は対価にしてはあまりに惜しい。さっさと寝て忘れてしまうに限る。そして目覚めればいつもの『黒髪のリュカ』様だ。
木造の物置小屋は簡素な二階屋になっていて、一階にはもう使わなくなった古い家具などが無造作に置いてある。あたしは手探りで壁に掛けてあったランプに火を灯すと、梯子を登って二階に上がった。
久しぶりの我がねぐら。淡い光が、狭いながらも愛着の湧いたあたしの部屋をぼんやりと照らした。ガタの来ているベッドに、小さなテーブル。頼りなさそうな椅子が一脚に、提督館の誰かが持ち込んでは増やしていく、趣味趣向の異なるガラクタ。みすぼらしいと人は言うだろう。けれど立派なあたしの城だ。満足感に浸っているうちに、視界がとろんと溶け出していく。そういやニーチェがまだ起きてろとか言ってたっけと、ぼうっとした頭の端っこで思い出す。
「まあ、いいや」
あたしは服を脱ぐのもそこそこに、そのままベッドに倒れ込んだ。
「ぎゃっ」
「――ッ!?」
しかし、そこに優しく包んでくれるはずの柔らかさはなく、何故か聞こえるのはくぐもった短い悲鳴と何かの硬い感触だった。予想外の出来事にあたしの眠気は一気に吹き飛んだ。切り替わる戦闘思考。床に放った短剣に手を伸ばしながら、もぞもぞと動いているシーツを思い切り引き剥がす。
「……は?」
「……うう。痛ぁい」
見れば一人の女が寝ていた。多分あたしが倒れたときに頭が当たったのだろう、腹のあたりを抱えながら悶絶している。
「……アンタ、誰?」
暗がりでよく見えないその女の顔をランプの光で照らした。まだ若い。小柄な少女だ。その顔に見覚えはない。物盗りにしては身なりも上等で、何よりその服の意匠が奇妙だった。まるで古い絵画にあとから新しい絵の具で描き足したように、女の存在そのものが歪で場違いだった。
「……あれ、もう朝ですかあ?」
陽の光とでも勘違いしたのか、起き上がると眩しそうな顔で間の抜けた返事を返してくる。鼻にかかったような甘い声色がいちいち癇に障った。
「じゃなくてさ、なんでここで寝てんの?」
「わたしですかあ? わたしは……わたしは、ふふっ」
途中、意味もなく含み笑いをしたかと思えば、少女はぱたっとベッドに倒れ込んで再び寝息を立て始めた。ずれる会話と、あまりに幸せそうな寝顔にあたしは頭に来て、枕を抜き取ると思い切りその顔面に叩きつけた。
「だから! アンタはどこの誰なんだッ!?」