因果応報論
口から吹いて出た紫煙が虚空に揺らめいた。
待合室は閑散としていて、まばらに人がソファに腰掛け、或いは壁にもたれ掛かって、しかし皆一様に口を開きはしない。
そんな光景をガラス張りの壁越しに眺めながら、私は再び煙草を口に咥えた。
私が高校生の頃に一律値上げが施行されて十年近く。昨今では吸う人間の方がむしろ珍しい葉タバコ特有の臭みと肺腑に染み渡る味がお気に入りで、止めようと思っても中々止める事は叶わないそれを咥えながら、何をする訳でもなくただぼんやりと虚空を眺めた。
外は肌寒く、冬の訪れを感じさせる冷たい風が頬を撫でた。
葉を舞わせ、木々を鳴らし、水面を揺らす風はふわりと吹いて、宙を漂う紫煙を何処かへと運んで行った。
◆
大学の、あれは卒業を再来月に控えた頃合いだったか。
『人権尊重』とか、確かそういった私にしてみれば至極下らない理由から『死刑』が廃止された。
国際的な死刑撤廃に向けた取り組みにこれといった持論を述べる訳でもなく、ただただ唯々諾々と欧米列強の下僕と化した政府と議会の決定が一面に報じられ、巷は騒然となって、或いは嬉々としてメディアのワイドショーは頻繁にこの政変を取り上げた。
それから間をおかず、ある事件が起きた。
資産家を狙った強盗殺人、一人暮らしの老人を殺害して現金強奪、某私立高校内でのカツアゲから発展した殺傷沙汰。
金に目のくらんだ欲深い馬鹿共が次々と跋扈し、己の無知無能を顧みずに世俗を騒がせたそれとは一線を画した、心胆を寒からしめた事件。
来日していた某国の要人を、大使館に乗り込みその凶行を止めようとした警備員諸共殺害したある一団。
要人一人、会談に来訪していた大臣一人、その傍回り二人、警備員は大使館の人間と合わせて計五十人の、占めて五十四人を殺傷したのは、まだ二十歳にも満たない少年少女五人だった。
犯行の動機は、その要人の息子が徒党を組み、主犯の少年の姉を輪姦した事。
それが原因で彼の家庭は崩壊の一途を辿り、更にその事件すら要人に恭順した政府高官の横槍によって握り潰された。
結果としてその事件は表ざたにならず、当然その要人の子も何一つ罰を受ける事無く放蕩自適な日々を甘んじて送る事となった。
それが、未だ二十歳にも満たぬ少年の心を引き裂いたのだろう。
深夜、警備が手薄になった頃合いを見計らって門衛を殴死させ拳銃を奪うと、少年少女は正面から堂々と侵入して大使館に殴り込み、次々と警備員を射殺、或いは撲殺した。
そうして奥の部屋で愛人と戯れていた要人を有無を言わせず肉塊に変えると、とって返す様にその要人の子と、彼が徒党を組んでいた不良数名が屯している都心のバーに向かった彼らは店内にいた従業員、一般客諸共彼らを殺害。
その頃になって漸く駆け付けた愚鈍な警察官共によって、漸く犯人逮捕に至り事件は解決を見たかに思えた。
―――だが、
「僕の行いの、何処が悪いんですか?」
『高度に政治的な問題』であるとして早急に開かれた裁判に置いて、開口一番彼はそうのたまった。
最近の無表情な若者とはまるで異なる、泰然自若として凛とした声で堂々と発言した彼は、傍聴席に座った要人の関係者と、その国の外交官をチラリと見て嘲笑った。
「僕の姉は、あの下衆共のせいで手を斬り死にました。父母は姉の事件を受けて周囲から後ろ指を指される自分達を恥じ、自ら首を吊りました。けど警察も、政府も、誰も助けてくれないし、あのゴミ屑共に何一つ罰を与えようとはしませんでした」
世界的に普及し、近年では幼稚園児すら話す様になった英語を、しかし彼は実にネイティブな、流暢な発音で朗々と話し続けた。
「だけどある日、神様が僕に囁いてくれました。『あのゴミ共を殺せ』と」
子供の様に無邪気な笑みを湛えて、彼は続けた。
傍聴席の方で酷く気分を害したのか、荒々しい声音で怒声を上げ喚き立てる連中の言葉など戯言以下にも感じていないのか、顔色一つ変えず彼は続けた。
「罪に罰を、死には死を与えただけの事です。
ゴミを掃除する事の何が悪いんですか?
お上の人間なら、何をしても許されるんですか?
神様は見ています。あのゴミ達のやった行いの全てを。
けれど自分ではその罰を与える事は出来ないから、その役目を僕に下さったのです。
―――僕は何一つ、過ちなど犯してはいません」
◆
聞けば彼の祖母は生前、敬虔なクリスチャンだったそうだ。
幼心にそれを学んだ彼もまた神に仕える身として、神の言葉を賜る人間の一人として相応の教育を受けてきた。
だが同時に、彼の心には近年の若者が忘れ去ってしまった何かが芽生え、そして育っていたのだろう。
それが姉の事件をきっかけに弾け、そうして今回の事件へと結びついたのか。
検察は被告である彼を『大逆である』として、特例以外ではまず認可されない極刑、つまり既に廃止されている筈の『死刑』を求刑した。
また他の共犯四人に対しても同等の刑を求めているというが、これはいうまでもなく世間体と対外的な印象を最重要視しての発言である事は周知の事実である。
一方の弁護側は『犯行当時、少年に善悪の判断は出来なかった』として減刑を求めている。
だがこの弁護人のやる気が無い事は午前中の審議で既に明らかで、どう見てもあの少年を本気で守るつもりは欠片もない。
国選の人間と言っても、今回の事件は流石にキツイのだろう。
下手をすればそれこそ戦時下における『非国民』呼ばわりされ、非難のやり玉に挙げられかねない。
適当に争って、早々に死刑なり何なりにして貰おう。
そんな内心がありありと目に見える弁護人は、今頃外でフレンチでも食しているだろう。
パフォーマンスでしかない今回の裁判の行き着く先は、言うまでもなく極刑。
そんな事をとうの昔に理解しながら、しかし私の胸中にはドロリとした水たまりが広がっていた。
腸の底を抉る様な冷たさと鋭さを滲ませながら、その沼は心身を徐々に侵していく。
少年の家族は、一様に自殺でしかない。
対して要人は、一家を皆殺しにされた。
その前後の過程云々を差し引いた事実だけが伝わっている今、世評は後者に傾いている。
国家クラスでの情報統制。
よもや『一政党至上主義者』と軽蔑しているお隣さんのサル真似をしているとは、無知な人間は誰一人知りはしないだろう。
私がまだ学生という身分であった頃にはよくテレビで放映していた黄色い頭巾の老人と伴廻りが大暴れする勧善懲悪モノや、所謂ヒーローと呼ばれる単調な正義感を持った人間の活躍するドラマも、最近では酷く懐かしい代物になってしまった。
近年跋扈しているのは『悪の美学』であったり『嬲る者の理念』であったり、兎角私の様な少々古典主義な人間にはまるで理解の及ばない代物である。
己の信じる道が必ずしも正義である訳ではない。しかし進まずにはいられない―――
そんな言い訳がましい事をのたまう主人公は自分を爪弾きにした社会に復讐する、といった具合だ。
甥っ子が夢中になっているドラマも確かそんな内容だったと記憶している。
未だ中学生の身分でそんなものにハマるのもどうかと思案したが、姉の言う所によれば「実行しなければ問題ない」そうだ。
つまりは、私達が子供の頃に見ていた戦隊モノの真似を公衆の面前でやるという愚行と等しく、人様に恥を晒さないのであればどうだろうと良い、という事だ。
その意見が既にドラマと反していると感じたのは誤りではないだろう。
彼らは行動しなければならない、即ちのっぴきならない状況下に何らかの形で追い込まれていて、それで止むなく行った行動がたまたま私達視聴者には『正義』と捉えられたからウケているのだ。
では、彼はどうだ。
精神的にも社会的にも追い込まれ、救いようのなかった彼は。彼のとった行動が果たして『悪』であったのか。
私には断じる事は出来ない。
自分が同じ境遇に置かれたのなら、どうなっていたかなど想像も出来ないからだ。
◆
人はよく「貴方の気持ちもよく分かる」とほざくが、そんな事を言う人間に限ってその人物の表層しか見ていない。
否、そもそも赤の他人の本質をそう簡単に見抜ける人間など存在しようがないのだ。
存在した所で気色悪い事この上ない。自分の事を、自分以上に知る人間などいてたまるか。
だから私には彼の気持ちは分からない。
「何も殺す事はなかったのではないか」と云う人間と、「家族を奪われたのなら奪い返して当然だ」と云う人間。
相手が浮浪者か、一般的中産階級の庶民か、はたまた大富豪や大物代議士の血縁か。
その相手で、人は『罪』の軽重を判断する。
高度に政治的な問題?
――――――ハッキリ言おう、吐き気がする。
そんなモノはゴミ箱にでも放りこんでおいた方が環境に余程優しいだろう。
相手が某国の要人だから。
対外的面子を守りたいから。
だからあの少年は贄としてその首を刎ねられる。
全ての責を彼に押し付け、一億云千万の国民の当面の享楽と、お偉方の面子と懐は守られる。
馬鹿馬鹿しいそれが既に当たり前となってしまったこの社会が既に屑だ。
屑は屑らしく屑籠にでも放りこまれるのが分相応だというのに、未だに大国に縋りついて保身を図ろうとする上層の人間は自分が選ばれた人種だと勘違いしている。
阿呆の極みが国のトップである時点でこの国はお終いだ。
肺腑から入出た煙がゆらゆらと空に舞う。
酷く気力のないそれは、誰にも聞こえないであろう彼の叫びを物語っている様に幻視出来た。
家族を奪われた痛みを知らない私に彼の痛みは理解出来ない。
家族を殺された悲しみを知らない私に彼の慟哭は分からない。
だが、彼は己の行いを嘆き、悔いはしないだろう。
己の『正義』を振りかざし、その狂慢を悦とした彼に。
そしてその狂気を生み出したこの国に。
そう遠くない終わりを告げるかの様に、紫煙は空へと消えていった。