白い箱の中
雨がフロントガラスを叩きつけ、ワイパーが一定のリズムで払う。コンビニの白い光が、濡れた夜の駐車場をぼんやりと照らしていた。
「真奈、緊張してるの? 大丈夫だよ、ちゃんと挨拶するから」
律がびしょ濡れになって買ってきてくれたコーヒーを受け取る。冷えた指に、紙カップが温かい。
緊張はしていた。彼が母に結婚の挨拶をするからじゃない。先にコンビニに寄ってもらったのは、ここで話しておかなければならないことがあったからだ。
私は雨粒が流れる窓を見ながら、言った。
「先に、ねーねのところに行ってもらわないといけないの」
「ねーね?」
「お母さんの姉。私の伯母さん……なんだけど、昔からそう呼んでる」
喉の奥がつかえた。変だと思われるのが怖かった。それでも、ここまできたら言うしかない。
「うち、昔から何かあると、その人に聞くの。お母さんは、ひとりで決めないの」
律は首を傾げていた。
「習い事も、部活も、進学先も……ちょっとしたことまで、全部」
「その人が決めるってこと?」
「うん、そう」
雨音が更に強くなった。
私に父がいない理由を、母は語らなかった。
父が生きているのか、死んでいるのかすら知らないまま育った。いないのが当たり前だから寂しくなかった。
代わりに、私と母には、『ねーね』がいた。
「お母さん、ねーねって、お母さんのお姉ちゃん?」
幼い頃、母にそう訊ねたことがある。
「うん、そうだよ。年子でね、あ、年子っていうのは歳が一つ違いのことね。だから、生まれた頃からずっと一緒だったの」
母はねーねの話をすると、いつもにこにこしていた。
私と母はアパートで暮らしていて、ねーねは母の実家にいた。
ねーねに会いに行くたび、私たちはリビングのダイニングテーブルでいつも同じ席に座った。私はねーねの真正面、母はねーねの隣だった。
ねーねの横にあるキッチンのカウンターには、いつも白い箱があった。中身を訊いても「大事なものだよ」と言うだけで、見せてはくれなかった。
ある時から、母は何かある度にねーねを頼るようになった。
はっきり覚えているのは、小学一年生の頃のこと。私は、スイミングをやめたくて母に泣きついた。すると母は私を車に乗せて、ねーねの家に向かった。車に揺られている間、無言の母が怖かったのを覚えている。
ねーねに相談した結果、そのまま続けることになって私は一晩中泣き続けた。それでも母は考えを変えず、私を慰めてもくれなかった。あとになって、そもそもスイミングを勧めたのはねーねだったと知った。
それから先も、私のことは何でもねーねを通して決まった。
「もう小三になるから筆箱を変えようと思うんだけど、シンプルなのと、みんなと同じ流行りの筆箱、どっちがいいと思う?」
「プールの時に、真奈のパンツが男子に盗まれたの! なのに、先生は犯人の名前を教えてくれなくて。これってどうすべき?」
「最近、この子のテストの成績が悪いんだよね。もっといい塾に変えた方がいいかな?」
小さなことまで、母はねーねに聞いた。友達との揉めごとも、先生とのやり取りも、服や靴のことも。行きたくなくても通い続けていたスイミングは、高学年になると、ある日突然もうやめていいと言われた。
母は自分の悩みごともねーねに話し、私はその話を聞かされるだけの日もあった。
小学校を卒業しても、母は相変わらずだった。
「真奈がテニス部に入りたいって言ってるの。テニスってお金かかるよねぇ。……ああ、卓球部? うん、それがいいかも」
母はその場で、あっさり決めてしまった。
進学先で悩んだ時もそうだった。
「この子の学力だと西高がちょうどよさそうなの。……そうだよねぇ。……真奈、必死に勉強して東高に行きなさい」
そう言われて、私は東高を目指して勉強するしかなかった。
東高に進学後、初めての彼氏ができた。明るくて優しい人だった。私は言うつもりはなかったのに、母はすぐに気づいて、彼氏と一緒にねーねのところへ連れて行かれた。
「この子が真奈の彼氏。ねーね、どう思う?」
返事が怖くて、私は目を閉じた。何も聞きたくなかった。
その日の夜、私は振られた。
優しかった彼は、私の母も、ねーねも、それに私まで不気味だと言い放った。
それ以来、私は誰かを好きになるのが怖くなった。もしまたねーねがだめだと言ったら。そうじゃなくても、ねーねの存在を知られたら。そう思うだけで、何をするにも臆病になった。
大学はねーねの希望通り、地元の国立大学の経済学部に進んだ。在学中も、母は私を連れて何度もねーねのところへ行ったけれど、私はもう自分から何かをやりたいとは言わなくなっていた。ただ、目の前で母の相談ごとを聞いていた。
銀行に就職してしばらくした頃、デートに誘われた。もう誰も好きにならない。そう決めていたのに、以前から優しく指導してくれる先輩――律に、私は惹かれてしまっていた。
その頃、母はねーねが勧めた健康サプリにのめり込むようになって、それを広めるための活動に夢中だった。私に彼氏ができたことにも気がつかなかった。
私は少しずつ自分の荷物を彼の部屋に運び、母が活動の出張で家を留守にする日は、彼の家に泊まるようになっていた。
ねーねとは何年も会っていない。このまま彼と一緒にいられたら幸せだと思っていた。
付き合って四年が経つと、律は手のひらに収まるピンク色の箱を取り出し、私の前でパカッと開けてみせた。
「お母さんに挨拶したい。会わせてくれる?」
そのひと言は、頭の中で重く響いた。
母が帰ってきた日に、私は結婚したい相手がいると打ち明けた。母は目を丸くしたあと、ねーねに会う日取りを決めた。
「ねーねは、昔から厳しい人だったの?」
律は不思議そうに話を聞いていた。
「……ううん。私が幼稚園の頃は、普通に優しかった……と思う。うろ覚えだけど」
大人の事情なんて知らなかった幼い私は、ねーねに無邪気に聞いたことがある。
「お母さんと仲が良いのに、なんで一緒に暮らさないの?」
「うーん、そうできたらよかったんだけどねぇ」
ねーねは少し困ったように笑って、隣に座る母を見た。
母は笑っていなかった。
「真奈、変なこと言わないで。ねーねはここ、私たちは別って決まってるの」
「誰が決めたの?」
「あなたのおばあちゃんよ。もうその話はしないで。わかった?」
よくわからなかった。祖母には一度も会ったことがない。もういない人の言うことなのに、どうして今もその通りにするんだろうと思った。
その日は帰りの車で、母に怒られた。何を言われたかまでは、細かく覚えていない。ただ、人が決めたことに口を出すな、といったことを強い口調で責められていた気がする。
途中から、母はハンドルを握りながら鼻をすすり始めた。
「私だって、本当は一緒に暮らしたい。でも、お母さんがそうしろって言ったんだから……だめなのよ」
それ以降、私はねーねの前で余計なことを言わなくなった。何か言うと、また母に怒られる気がしたからだ。その頃は、少なくとも私にとっては、母の方が厳しい存在だった。
「私が小学校にあがる前に、ねーねが病気をして……お母さんはもっとねーねの家に行くようになったんだ。それから少しずつ、変わっていって」
「病気か……」
「……ごめんね。変だって思うよね」
「いいよ、いろんな事情があるんだろうし。俺は真奈と結婚できるならそれでいい。ねーねに会いにいくよ」
今はそう言ってくれても、実際に会ったら、どうなるんだろう。心臓の音が、車を打つ雨とワイパーの音でかき消された。
先にねーねの家に到着した母が駐車をし、すぐ隣に彼も停めた。母は彼に気づいても、会釈すらしなかった。
「よし、行こうか」
「だめ、待って」
車のドアに手をかける律を制し、私は玄関前に立つ母を見た。
母はポストから郵便物を抜き取り、鍵を開けて中へ入った。少しして、奥の部屋に明かりが灯る。それを確認してから、私たちは車を降りた。
いつものリビング。いつものダイニングテーブル。いつもの位置。
ねーねは変わらず、そこにいた。
雨音だけがくぐもって聞こえる室内で、母が口を開いた。
「ねーね、今日は真奈のことで来たの」
それから私は、また目を閉じて、意識的に耳を塞いだ。
見ない、見えない、聞かない、聞こえない。どんな答えか、知りたくなかった。
話が終わったのか、彼に肩をとんとんと叩かれた。
目を開くと彼は落胆したような表情を浮かべていた。
「どうして……?」
私はねーねを見た。小学生の頃から変わらない、その姿を。
「どうしてだめなの。ずっと今まで、ねーねの言う通りにしてきたじゃない。お願いだから、結婚を許してよ」
私は泣きながら訴えた。ねーねに意見するなんて、何年ぶりだろう。
茶色のテーブルが涙で滲む。ぼやけた視界の向こうに、うっすら黄ばんだ白い箱が見えた。
母は『ねーね』を抱え、私と彼に向かって静かに言った。
「もう行って。ねーねが、出て行ってほしいって」
私は涙を拭うこともできずに、その場をあとにした。
彼は無言でエンジンをかけ、私がシートベルトを締めたのを確かめて車を出した。すぐ近くのコンビニに寄ると、一人で降りて、熱いコーヒーを二つ買って戻ってきた。
『なんだよあれ、不気味すぎるだろ』
初めての彼氏に吐き捨てられたひと言を思い出す。
「ねーねって……もう、亡くなってたんだね」
その声は柔らかく、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「……私が小学一年生の頃に、病気で……でも、お母さんは、ずっとねーねは生きてるんだよって言うの」
私自身、ねーねのことはうまく説明できなかった。
お葬式の最中に、大人たちが錯乱した母を抑えていた。母の叫び声が、ずっと頭に残っている。
『ねーねは死んでない! 死んでない! 死んでない!』
死んでいないのなら、生きているのかな。私にはその意味がわからなかった。
火葬が終わって、白い箱を抱えた母は、急に笑顔になった。母が嬉しそうに笑うから、ねーねはまだ生きているんだと思った。
それからは、これまでと同じようにねーねに会いに行った。
変わっていたのは、ねーねの姿形だけ。
母は、箱に話しかけ続けた。その間、私は向かいの椅子に座って静かに待つ。
私たち親子にとっては、それが当たり前の日常だった。
車内に満ちるコーヒーの匂いと、窓を打つ雨音が、私を今いる場所に引き戻した。
でも、もう、彼ともお別れの時間だった。結婚は諦めるしかない。
「ごめんなさい。せっかく、一緒に行ってくれたのに」
律と目を合わせられないでいると、手を握られた。
「結婚しよう。俺が真奈の家族になるよ」
「え? でも、でも、ねーねが……お母さんが――」
「関係ない」
私が言い終わる前に、律は真剣な目で続ける。
「そりゃあ、お母さんに祝福してほしかったけど、結婚は俺たち二人が決めることだよ」
「でも……」
このまま母を、ねーねを置き去りにしていいのかわからなかった。
迷う私の手を、律は温かく、強く握った。
「これからは俺がずっとそばにいる。約束するよ」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。
彼を信じたいと思った。涙をこらえきれないまま、私は頷いた。
それから私は、実家に残っていた残りの荷物を段ボール箱に詰めて、家を出た。
律の家に引っ越してから三ヶ月経ち、私の心は随分と平静になっていた。
「家を建てるなら平屋がいいな。お、黒の外観かっこいい」
律が楽しそうに住宅雑誌をめくる。
「平屋かあ。確かに、その方が家族が近い感じがするよね」
「そうそう。いつか子供が二階にこもりっぱなしになったら嫌だもんな」
当たり前のように将来の子供の話もしていた。
「リビングには大きなソファを置きたい。そこでごろごろする」
「えー、ごろごろするの?」
「うそうそ。一緒にテレビ観ようよ。横に並んで」
「うん、いいね。絶対にそうしようね」
あれから、母とは会っていない。
最初の頃は心配もしたし、悪いことをしてしまったような罪悪感もあった。母から連絡がないことに落ち込んだ日もある。
そんな私を、律は何度も励ましてくれた。おかげで、自分の選択は間違いではなかったと思えるようになった。
それに、私がいなくなっても、母にはねーねがいてくれる。だからきっと大丈夫。
律と出会えたおかげで、ねーねの言う通りに生きてきた人生は終わった。二人から離れて、私はやっと、自分の目でいろんなことを見られるようになった。
結婚の手続きで戸籍を取ったとき、父の名前を見つけた。
そこから先を辿ろうと思えば、方法はあったのかもしれない。
悩む私に、律は「無理に探さなくていいんじゃないか」と言った。私もそれでいい気がした。調べることで、はっきりしてしまうのが怖かったのだと思う。
父は今もどこかで生きているのかもしれないし、もう死んでいるのかもしれない。まるで箱を開けるまで確定しないシュレーディンガーの猫のようだった。
もし生きているのなら、誰にも干渉されない自由な場所で、幸せに暮らしていてくれたらいいと願った。
結婚してから、十七年が過ぎた。
私ももう四十を過ぎ、二人の間に生まれた娘は十四歳になった。
私と律は、今ではお互いをパパ、ママと呼び合っている。彼と建てた黒い平屋で、家族三人、穏やかに暮らしている。
リビングには、本革の大きなソファ。豆からコーヒーを淹れ、その香りに包まれながら、律と娘と並んでテレビを見る。その時間がなによりも幸せでたまらない。
いつか娘にも反抗期が訪れるのでは、と心配していたけれど、律が優しく諭してくれたからか、真っすぐないい子に育ってくれた。
――進路を決める時期になり、キッチンで料理をしているママに声をかけた。
「東高を第一志望にしていいかな? 担任の先生も塾の先生も、大丈夫だって言ってたから」
「えー? 東高ってここからかなり遠いよねぇ」
ママはタオルで手を拭くと、私には目もくれずソファに向かい、テレビの音量を下げた。
「ねえパパ、この子が東高に行きたいっていうんだけど、どう思う?」
ママは、パパに向かって話しかけた。返事を待つ間、私はじっと黙っていた。
ママは小さく頷いて、それから私の目を見た。
「パパが、そっちは車が多くて危ないから、西高にしなさいって。わかった?」
ママはなんだってパパに相談する。
私が生まれてすぐ、事故で死んだはずのパパに。
「……うん。じゃあ、西高にするね」
ママは黒い箱を撫でて、満足げに微笑んでいた。




