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白い箱の中

作者: かすっけ
掲載日:2026/10/30

 雨がフロントガラスを叩きつけ、ワイパーが一定のリズムで払う。コンビニの白い光が、濡れた夜の駐車場をぼんやりと照らしていた。


「真奈、緊張してるの? 大丈夫だよ、ちゃんと挨拶するから」


 律がびしょ濡れになって買ってきてくれたコーヒーを受け取る。冷えた指に、紙カップが温かい。


 緊張はしていた。彼が母に結婚の挨拶をするからじゃない。先にコンビニに寄ってもらったのは、ここで話しておかなければならないことがあったからだ。


 私は雨粒が流れる窓を見ながら、言った。


「先に、ねーねのところに行ってもらわないといけないの」

「ねーね?」

「お母さんの姉。私の伯母さん……なんだけど、昔からそう呼んでる」


 喉の奥がつかえた。変だと思われるのが怖かった。それでも、ここまできたら言うしかない。


「うち、昔から何かあると、その人に聞くの。お母さんは、ひとりで決めないの」


 律は首を傾げていた。


「習い事も、部活も、進学先も……ちょっとしたことまで、全部」

「その人が決めるってこと?」

「うん、そう」


 雨音が更に強くなった。


 私に父がいない理由を、母は語らなかった。

 父が生きているのか、死んでいるのかすら知らないまま育った。いないのが当たり前だから寂しくなかった。


 代わりに、私と母には、『ねーね』がいた。


「お母さん、ねーねって、お母さんのお姉ちゃん?」


 幼い頃、母にそう訊ねたことがある。


「うん、そうだよ。年子でね、あ、年子っていうのは歳が一つ違いのことね。だから、生まれた頃からずっと一緒だったの」


 母はねーねの話をすると、いつもにこにこしていた。

 私と母はアパートで暮らしていて、ねーねは母の実家にいた。


 ねーねに会いに行くたび、私たちはリビングのダイニングテーブルでいつも同じ席に座った。私はねーねの真正面、母はねーねの隣だった。

 ねーねの横にあるキッチンのカウンターには、いつも白い箱があった。中身を訊いても「大事なものだよ」と言うだけで、見せてはくれなかった。


 ある時から、母は何かある度にねーねを頼るようになった。


 はっきり覚えているのは、小学一年生の頃のこと。私は、スイミングをやめたくて母に泣きついた。すると母は私を車に乗せて、ねーねの家に向かった。車に揺られている間、無言の母が怖かったのを覚えている。


 ねーねに相談した結果、そのまま続けることになって私は一晩中泣き続けた。それでも母は考えを変えず、私を慰めてもくれなかった。あとになって、そもそもスイミングを勧めたのはねーねだったと知った。


 それから先も、私のことは何でもねーねを通して決まった。


「もう小三になるから筆箱を変えようと思うんだけど、シンプルなのと、みんなと同じ流行りの筆箱、どっちがいいと思う?」

「プールの時に、真奈のパンツが男子に盗まれたの! なのに、先生は犯人の名前を教えてくれなくて。これってどうすべき?」

「最近、この子のテストの成績が悪いんだよね。もっといい塾に変えた方がいいかな?」


 小さなことまで、母はねーねに聞いた。友達との揉めごとも、先生とのやり取りも、服や靴のことも。行きたくなくても通い続けていたスイミングは、高学年になると、ある日突然もうやめていいと言われた。


 母は自分の悩みごともねーねに話し、私はその話を聞かされるだけの日もあった。

 小学校を卒業しても、母は相変わらずだった。


「真奈がテニス部に入りたいって言ってるの。テニスってお金かかるよねぇ。……ああ、卓球部? うん、それがいいかも」


 母はその場で、あっさり決めてしまった。

 進学先で悩んだ時もそうだった。


「この子の学力だと西高がちょうどよさそうなの。……そうだよねぇ。……真奈、必死に勉強して東高に行きなさい」


 そう言われて、私は東高を目指して勉強するしかなかった。

 東高に進学後、初めての彼氏ができた。明るくて優しい人だった。私は言うつもりはなかったのに、母はすぐに気づいて、彼氏と一緒にねーねのところへ連れて行かれた。


「この子が真奈の彼氏。ねーね、どう思う?」


 返事が怖くて、私は目を閉じた。何も聞きたくなかった。


 その日の夜、私は振られた。

 優しかった彼は、私の母も、ねーねも、それに私まで不気味だと言い放った。


 それ以来、私は誰かを好きになるのが怖くなった。もしまたねーねがだめだと言ったら。そうじゃなくても、ねーねの存在を知られたら。そう思うだけで、何をするにも臆病になった。


 大学はねーねの希望通り、地元の国立大学の経済学部に進んだ。在学中も、母は私を連れて何度もねーねのところへ行ったけれど、私はもう自分から何かをやりたいとは言わなくなっていた。ただ、目の前で母の相談ごとを聞いていた。


 銀行に就職してしばらくした頃、デートに誘われた。もう誰も好きにならない。そう決めていたのに、以前から優しく指導してくれる先輩――律に、私は惹かれてしまっていた。


 その頃、母はねーねが勧めた健康サプリにのめり込むようになって、それを広めるための活動に夢中だった。私に彼氏ができたことにも気がつかなかった。

 私は少しずつ自分の荷物を彼の部屋に運び、母が活動の出張で家を留守にする日は、彼の家に泊まるようになっていた。


 ねーねとは何年も会っていない。このまま彼と一緒にいられたら幸せだと思っていた。


 付き合って四年が経つと、律は手のひらに収まるピンク色の箱を取り出し、私の前でパカッと開けてみせた。


「お母さんに挨拶したい。会わせてくれる?」


 そのひと言は、頭の中で重く響いた。

 母が帰ってきた日に、私は結婚したい相手がいると打ち明けた。母は目を丸くしたあと、ねーねに会う日取りを決めた。


「ねーねは、昔から厳しい人だったの?」


 律は不思議そうに話を聞いていた。


「……ううん。私が幼稚園の頃は、普通に優しかった……と思う。うろ覚えだけど」


 大人の事情なんて知らなかった幼い私は、ねーねに無邪気に聞いたことがある。


「お母さんと仲が良いのに、なんで一緒に暮らさないの?」

「うーん、そうできたらよかったんだけどねぇ」


 ねーねは少し困ったように笑って、隣に座る母を見た。

 母は笑っていなかった。


「真奈、変なこと言わないで。ねーねはここ、私たちは別って決まってるの」

「誰が決めたの?」

「あなたのおばあちゃんよ。もうその話はしないで。わかった?」


 よくわからなかった。祖母には一度も会ったことがない。もういない人の言うことなのに、どうして今もその通りにするんだろうと思った。

 その日は帰りの車で、母に怒られた。何を言われたかまでは、細かく覚えていない。ただ、人が決めたことに口を出すな、といったことを強い口調で責められていた気がする。


 途中から、母はハンドルを握りながら鼻をすすり始めた。


「私だって、本当は一緒に暮らしたい。でも、お母さんがそうしろって言ったんだから……だめなのよ」


 それ以降、私はねーねの前で余計なことを言わなくなった。何か言うと、また母に怒られる気がしたからだ。その頃は、少なくとも私にとっては、母の方が厳しい存在だった。


「私が小学校にあがる前に、ねーねが病気をして……お母さんはもっとねーねの家に行くようになったんだ。それから少しずつ、変わっていって」

「病気か……」

「……ごめんね。変だって思うよね」

「いいよ、いろんな事情があるんだろうし。俺は真奈と結婚できるならそれでいい。ねーねに会いにいくよ」


 今はそう言ってくれても、実際に会ったら、どうなるんだろう。心臓の音が、車を打つ雨とワイパーの音でかき消された。


 先にねーねの家に到着した母が駐車をし、すぐ隣に彼も停めた。母は彼に気づいても、会釈すらしなかった。


「よし、行こうか」

「だめ、待って」


 車のドアに手をかける律を制し、私は玄関前に立つ母を見た。

 母はポストから郵便物を抜き取り、鍵を開けて中へ入った。少しして、奥の部屋に明かりが灯る。それを確認してから、私たちは車を降りた。


 いつものリビング。いつものダイニングテーブル。いつもの位置。

 ねーねは変わらず、そこにいた。

 雨音だけがくぐもって聞こえる室内で、母が口を開いた。


「ねーね、今日は真奈のことで来たの」


 それから私は、また目を閉じて、意識的に耳を塞いだ。

 見ない、見えない、聞かない、聞こえない。どんな答えか、知りたくなかった。


 話が終わったのか、彼に肩をとんとんと叩かれた。

 目を開くと彼は落胆したような表情を浮かべていた。


「どうして……?」


 私はねーねを見た。小学生の頃から変わらない、その姿を。


「どうしてだめなの。ずっと今まで、ねーねの言う通りにしてきたじゃない。お願いだから、結婚を許してよ」


 私は泣きながら訴えた。ねーねに意見するなんて、何年ぶりだろう。


 茶色のテーブルが涙で滲む。ぼやけた視界の向こうに、うっすら黄ばんだ白い箱が見えた。

 母は『ねーね』を抱え、私と彼に向かって静かに言った。


「もう行って。ねーねが、出て行ってほしいって」


 私は涙を拭うこともできずに、その場をあとにした。


 彼は無言でエンジンをかけ、私がシートベルトを締めたのを確かめて車を出した。すぐ近くのコンビニに寄ると、一人で降りて、熱いコーヒーを二つ買って戻ってきた。


『なんだよあれ、不気味すぎるだろ』


 初めての彼氏に吐き捨てられたひと言を思い出す。


「ねーねって……もう、亡くなってたんだね」


 その声は柔らかく、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。


「……私が小学一年生の頃に、病気で……でも、お母さんは、ずっとねーねは生きてるんだよって言うの」


 私自身、ねーねのことはうまく説明できなかった。

 お葬式の最中に、大人たちが錯乱した母を抑えていた。母の叫び声が、ずっと頭に残っている。


『ねーねは死んでない! 死んでない! 死んでない!』


 死んでいないのなら、生きているのかな。私にはその意味がわからなかった。


 火葬が終わって、白い箱を抱えた母は、急に笑顔になった。母が嬉しそうに笑うから、ねーねはまだ生きているんだと思った。

 それからは、これまでと同じようにねーねに会いに行った。

 変わっていたのは、ねーねの姿形だけ。

 母は、箱に話しかけ続けた。その間、私は向かいの椅子に座って静かに待つ。

 私たち親子にとっては、それが当たり前の日常だった。


 車内に満ちるコーヒーの匂いと、窓を打つ雨音が、私を今いる場所に引き戻した。

 でも、もう、彼ともお別れの時間だった。結婚は諦めるしかない。


「ごめんなさい。せっかく、一緒に行ってくれたのに」


 律と目を合わせられないでいると、手を握られた。


「結婚しよう。俺が真奈の家族になるよ」

「え? でも、でも、ねーねが……お母さんが――」

「関係ない」


 私が言い終わる前に、律は真剣な目で続ける。


「そりゃあ、お母さんに祝福してほしかったけど、結婚は俺たち二人が決めることだよ」

「でも……」


 このまま母を、ねーねを置き去りにしていいのかわからなかった。

 迷う私の手を、律は温かく、強く握った。


「これからは俺がずっとそばにいる。約束するよ」


 その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。

 彼を信じたいと思った。涙をこらえきれないまま、私は頷いた。



 それから私は、実家に残っていた残りの荷物を段ボール箱に詰めて、家を出た。

 律の家に引っ越してから三ヶ月経ち、私の心は随分と平静になっていた。


「家を建てるなら平屋がいいな。お、黒の外観かっこいい」


 律が楽しそうに住宅雑誌をめくる。


「平屋かあ。確かに、その方が家族が近い感じがするよね」

「そうそう。いつか子供が二階にこもりっぱなしになったら嫌だもんな」


 当たり前のように将来の子供の話もしていた。


「リビングには大きなソファを置きたい。そこでごろごろする」

「えー、ごろごろするの?」

「うそうそ。一緒にテレビ観ようよ。横に並んで」

「うん、いいね。絶対にそうしようね」


 あれから、母とは会っていない。

 最初の頃は心配もしたし、悪いことをしてしまったような罪悪感もあった。母から連絡がないことに落ち込んだ日もある。

 そんな私を、律は何度も励ましてくれた。おかげで、自分の選択は間違いではなかったと思えるようになった。


 それに、私がいなくなっても、母にはねーねがいてくれる。だからきっと大丈夫。

 律と出会えたおかげで、ねーねの言う通りに生きてきた人生は終わった。二人から離れて、私はやっと、自分の目でいろんなことを見られるようになった。


 結婚の手続きで戸籍を取ったとき、父の名前を見つけた。

 そこから先を辿ろうと思えば、方法はあったのかもしれない。

 悩む私に、律は「無理に探さなくていいんじゃないか」と言った。私もそれでいい気がした。調べることで、はっきりしてしまうのが怖かったのだと思う。


 父は今もどこかで生きているのかもしれないし、もう死んでいるのかもしれない。まるで箱を開けるまで確定しないシュレーディンガーの猫のようだった。

 もし生きているのなら、誰にも干渉されない自由な場所で、幸せに暮らしていてくれたらいいと願った。



 結婚してから、十七年が過ぎた。

 私ももう四十を過ぎ、二人の間に生まれた娘は十四歳になった。

 私と律は、今ではお互いをパパ、ママと呼び合っている。彼と建てた黒い平屋で、家族三人、穏やかに暮らしている。

 リビングには、本革の大きなソファ。豆からコーヒーを淹れ、その香りに包まれながら、律と娘と並んでテレビを見る。その時間がなによりも幸せでたまらない。

 いつか娘にも反抗期が訪れるのでは、と心配していたけれど、律が優しく諭してくれたからか、真っすぐないい子に育ってくれた。




――進路を決める時期になり、キッチンで料理をしているママに声をかけた。


「東高を第一志望にしていいかな? 担任の先生も塾の先生も、大丈夫だって言ってたから」

「えー? 東高ってここからかなり遠いよねぇ」


 ママはタオルで手を拭くと、私には目もくれずソファに向かい、テレビの音量を下げた。


「ねえパパ、この子が東高に行きたいっていうんだけど、どう思う?」


 ママは、パパに向かって話しかけた。返事を待つ間、私はじっと黙っていた。

 ママは小さく頷いて、それから私の目を見た。


「パパが、そっちは車が多くて危ないから、西高にしなさいって。わかった?」


 ママはなんだってパパに相談する。

 私が生まれてすぐ、事故で死んだはずのパパに。


「……うん。じゃあ、西高にするね」


 ママは黒い箱を撫でて、満足げに微笑んでいた。


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