序、モブからみた授業開始
教室はざわめいていた。
貴族の子女が必ず入学し、卒業できなければ社交の許しさえ与えられない学園の、学期始め。
各領地にあるこじんまりとした学舎や、個人教師を雇える裕福な者は家での自宅学習を熟していたとはいえ、国中の同年代が集められたクラスでの授業に緊張していた気分も、週末が目前となればいくらかほどけている。
それに昼食後、今から受けるのは歴史や法律、経営などとは無縁な響きの「生活基礎」である。
何故か、毎週末の昼からの授業、2コマ続けての3時間も取られている必修科目だが、ここに集まるのは家で厳しく躾けられてきている貴族の子たちばかりである。基礎、ともなればすでに身についている、と緩やかに会話をする者もいた。
この授業が終われば、入学して初めての休日が来るのだ。
無事に寮生活が始まった報告の手紙を書こう、生活用品を街に買いに行こう、などと明るい声が其処らから聞こえている。
そして、ここまで緩んでいる空気には理由があった。
事前に配られる教科書だ。本とも呼べない、数枚の紙をまとめただけのぺらりとした簡素な冊子、その中身は巷でたまに話題になっていたりするようなチープな恋愛小説だったのだ。
一度目を通せばああね、となるような、どこかで聞いたことのある話だ。
一応、配られた物に目を通しはしたが、教科書とは思えない内容に幾人かは教師に確認しに行った者もいたが、あるものは慈愛を込めた笑みで、あるものは空虚な空笑いで、間違いではないと答えられたという。
去年、新入生として授業を受けたであろう先輩や年上の兄姉がいるものはどういった内容なのか聞き出そうとしても、誰もが受ければわかる、と教えてくれなかった。
そんなわけで、謎に包まれたままの「生活基礎」授業だが、こんな教科書であるし、きっと恋愛道徳やおおむねマナーの話なのだろうな、と、大半はリラックスして開始のベルを持っていた。
リンゴン。
授業開始のベルとともに教室の扉が開けられる。
賑やかだった空気が、貴族らしく行儀よく整えられる。
入ってきたのは、年若く見える女性教師だった。最近流行りの、薄縁の丸眼鏡に、髪をまとめ上げて理性的な空気をしている。恋愛小説を教科書に選ぶようには見えなかった。
「はじめまして、一年間、生活基礎を担当します、マリーです。よろしくお願いします」
発音のいい、聞き取りやすい声だった。中央貴族出だろうか、訛りもない。教師に対する身分差を意識させないように、家名は公表されていない。完全に隠しているわけではないので、調べれば分かるが、下手に動けば何かあると言っているようなものなので推奨はされていない。
「私の授業では、事前にお配りしている冊子をもとに進めていきます。今日に限らず、持ち込みを忘れた方は予備がありますので取りに来てください、居ませんね。では、始めます」
本当にこの小説を教科書にするのかと、一瞬ふっと空気が揺れる。
静かな教室に、薄い紙をまくる音だけがとけて、直ぐに落ち着いた。
「軽い話ですので、まず事前に読んでない方は話を聞きながら読み進めて追いついてください、ニ十分もあれば読めます。では、一行目、『私の住む領地は田舎だ。庭を見れば山が連なり、遠くまで牧草地が続く、ド田舎だ。』この文で読み取れることは何ですか?」
本当にこの小説を教科書にするんだ!!!と生徒の心は一つになれた空気を感じた。それとともに、動揺も広がる。この、スカスカな文章から、何を読み取るのだろうか。
生活基礎、というものがどのような授業なのかをいまだ把握できないまま、マリー先生は淡々と進めていく。
「答えは挙手、またはこちらから当てることで答えてもらいます。考えてください、この授業は生活の基礎、基本ですよ。ヒントは、二行目、『春になると一面青い花畑ができる』です……、はい、ご令嬢」
前の方に座っていた、侯爵家の方だ。自信が持てないのか、小さく手を挙げていた。
「挨拶は」
「不要です」
「では、……、この、一行目から読み取れるのは、主人公の彼女が、領地持ち貴族子女で、山脈を有している土地、牧草地であることから寒冷地、……ヒントである二行目から、春に雪解けとともに青い花畑が見れることで一時期有名になった観光地でもある、子爵領がモデルではないかと捉えました」
「はい、よろしいです」
ざわりと、息を吸う音が重なった。小さくえっ、と聞こえもしたかもしれない。
侯爵家のご令嬢は、安心したように、息をついていらした。
「このように、言葉に込められた意味をきちんと受ける取る、そのための授業です。生活の基礎、貴族の社交に必要な、今まで、これから皆さんが学んでいる情報を身につけているか、最低限の教養、知識をきちんと使えるのか。実践といえば分かりやすいですね。この授業が必修科目であり、単位落第は留年もあり得ることの必然性も理解してもらえたでしょう、では進めます」
さらりと言われた説明に、もう言葉もないとはこの事かと実感したのは生まれて初めてだった。
みな、ベルの前のあの穏やかな空気を完全に抜かれてしまっている。
上品な集まりで、聞いたことのない喉をゴクリと飲み込む音がした。目の端では、きっと軽薄な内容だと読まなかったであろう高位貴族の方が慌てて目を通しているのがわかる。自分の中の情報が多いと、このペラペラな冊子は、どんなハードカバーに化けるのだろうか。
先生の穏やかな、聞き取りやすい声が響く。
「では、三行目、『こんな場所で出会いなんてありはしない!』から読み取れることは何ですか?」
一斉に手が挙がった。矜持である。
一年経つ頃には、あまりに具体的すぎる教材の数々に、もしかして…実話…?と気づいた生徒たち。
自分が何かしでかせば後々の教科書になって同じように読み解かれ議論されるのだとわかってしまった……。




