もう一つの問題
不思議なことに、ステュアートやケヴィンどころか、騎士団の教官らからも、呼び出しらしい呼び出しはなかった。
ただ、柱廊での騒ぎは噂になっているらしく、そのことに関してはケヴィンたちに、教官らからお咎めがあったようだ。
なんでも、集まった連中で剣術と魔法の練習をしている際に事故が起き、壁や柱を破損させてしまったと供述しているらしい。
あくまで憶測にすぎないが、ケヴィンは二十一になる騎士だ。まだ従騎士になったばかりの十三歳の少年にこてんぱんにされたとあっては、彼の矜持が許さなかったのではないだろうか。
それに真実を告げれば、いじめが発覚する。騎士の位を剥奪され、実家に帰される可能性も無きにしも非ずだ。
(まあ、真実を告げられることに怯えているのは、彼らだけではないけれど……)
こちらだとて、彼らに大怪我を負わせている。軽傷で済んだシャーロットたちと違って、向こうは骨折しているし、歯も数本行方不明だ。
度を越えた仕返しは、さすがに問題になり、こちらも家に帰される可能性だってある。
黙っているなら、それはある種、互いの利になる。
幸か不幸か、あれからステュアートたちが絡んでくることはなくなった。ヨーランの実力を知って、多少なりとも怖気づいたのだろう。
さて、それよりも心配だったヨーランの落第騒ぎだが。
「おい、チャールズ、ヨーラン」
喧嘩の翌日、イーシャーの身の回りの世話をして、直々に訓練を受けていると、突然、眉をしかめた彼に呼び止められたのだ。
「ケヴィンたちとやり合ったのは、お前らだな」
さすがは一番身近にいる先輩騎士だった。少し接しているうちに、簡単に見破られてしまった。
イーシャーは一つ溜息をつくと、短い黒髪をがしがしと掻いた。
「どうしてそうなったのか、説明してもらおうか」
ヨーランと目を見合わせ、諦めて事のあらましを説明する。
深く考え込むイーシャーが最初に発したのは、いつもの軽口ではなく、真剣なものだった。
「お前たち、いじめられていたのか」
子供のいたずら程度で、そんな大したことじゃないと口を開きかけると、イーシャーが眉間にしわを寄せた。
「なぜ、言わなかった。俺はそんなに信用のない騎士か」
ヨーランと二人で、絶句する。
決して、イーシャーを信用していないとか、そんな理由ではなかった。ただ、彼に迷惑をかけたくなかっただけだ。こんなくだらないことに、巻き込みたくなかっただけだ。
そう、二人で言い繕うが、イーシャーは鋭い視線を向けた。
「だが、お前たちは怪我をしている」
「軽傷です」
「軽傷でもだ」
はあ、と深い溜息が落ちる。
「お前たちはなんのために俺に仕えている。仕えた分、その対価として、俺にはお前たちを守る義務と責任が伴う。それが、仕える者を持つ主としての役目だ」
澄んだ空のような碧眼が、真摯にこちらを見つめた。
「俺に仕えているかぎり、お前たちはいくらでも、俺に頼っていいんだ」
力強い声に、二人して、声を失う。
「……ごめんなさい」
ヨーランと、声が重なる。それ以上、なにを言ったらいいのかわからなくて、床と睨めっこする。
しばらく、誰も声を発しなくて、静かな時間が流れる。
沈黙を破ったのは、イーシャーだった。
「だが、取り返しのつかないことにならなくて、よかった」
安堵を含んだ声でそう言って、イーシャーは苦笑を浮かべながら、二人の頭をがしがしと撫でた。
闊達で、落ち着いている先輩騎士を、ここまで心配させてしまったことに、申しわけなさが募る。
けれどそれ以上に、彼のその態度に、嬉しさが込み上げた。
問題の報告をするか否かに関しては、意見が一致した。
いじめの問題が明るみになり、それによって正当な防衛と騎士団が判断し、ケヴィンたちだけが家に帰されることになっても、侯爵家がこちらになにかしらしてこないともかぎらない。
侯爵家からすれば、ケヴィンは爵位を継げない次男坊だからこそ、騎士にでもなってくれないと困るのだ。
フィッツジェラルド家ならばともかく、力のないシュネーヴォイクト家は、簡単に潰されてしまうかもしれない。
家の問題だけは、切っても切り離せないのだ。
「その代わり、次になにかあれば、俺に言うんだ。いいな」
はい、と声が揃う。
「あの、さっそくなんですが、気になることがあって……」
そこで、兼ねてから心配だった、ヨーランの落第騒動について、イーシャーに相談した。
すると、イーシャーは口角を上げた。
「チャールズ、お前も見ただろう、ヨーランの戦闘能力を」
イェオリは、戦闘民族だ。
脚は鋭い剣のようで、狙った獲物は逃さない。軽やかに跳ぶ姿は、まるで水の中にでもいるかのようだ。
ヨーランの動きは、とても人のそれとは言えなかった。蹴り技が得意の彼の脚が体に触れれば、まるで突風に煽られたように吹き飛ばされてしまうのだった。
イェオリは確かに戦闘民族だ。
けれど、それを瞬時に思い出せないほど、近年のイェオリからは戦闘民族らしさを感じられない。
血が薄れたのだろう、とイーシャーは言った。祖国を失い、各国へと散ったイェオリ同士が婚姻することもなくなって、徐々に徐々に、純血のイェオリの民はこの世から消えていく。
ヨーランは、そんな戦闘民族の血を色濃く受け継いだ者なのだ。
少年を見る目が変わったからか、彼は翠玉の双眸を細めて、気難しい顔をしていた。
「それにヨーランは、剣が使えないわけじゃない」と、イーシャーが流れを変える。
なっ、と先輩騎士は、その教え子に笑みを向けた。
教え子は、まんざらでもない様子で頷きながら、瞑目した。
「けれど、正直剣の腕はまだまだだ。それに加えて魔法が使えないとあれば、騎士団としては黙認できないだろう」
気づかないほど微かに、ヨーランの肩がぴくりと震えた。
「そこで、お前は嫌だろうが、その体術を教官らに披露する必要がある。剣や魔法が使えないとまずいのは、単に身を守る術がないと騎士として務まらないからだ。だが、その脚自体が剣ならば、教官らもなにも言うことはあるまい」
イーシャーの言ったとおり、ヨーランの剣の腕を懸念していた教官たちは、彼に類まれなる体術の才があるとわかると、引き続き従騎士として励むようにと告げた。
こうして一つずつ、問題が片づいていったのだった。
「さて、ヨーラン。お前にはもう一つ、片づける問題があるだろう?」
厩舎の近くの馬場で、ヨーランと青馬が睨み合っている。
青馬は小馬鹿にしたような態度が滲み出ており、主であるヨーランを無視して、適当に歩き始める。
ヨーランは傲岸不遜な態度の青馬を見つめると、ふっと笑った。
青馬はなにごとかと白銀の少年を一瞥したが、さして興味もなさそうで、駆け足気味で馬場を走り出した。
それを、ヨーランが追い抜いた。
彼は青馬のほうを振り返ると、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
何度も、それを繰り返す。
青馬が足で地面を蹴っている。いらいらしているのだとわかった。
駆け出し、ヨーランを追い抜こうとする。そうすると、ヨーランが馬よりも速く駆けていってしまう。
(は、速い……)
正直、人間業ではなかった。青馬も驚いたのだろうが、それよりも悔しさのほうが強いらしく、ヨーランの挑発に乗って、本気で駆け始める。
ヨーランと馬が、とんでもない速さで、並んで走る。
特に終着点を定めていたわけではないが、二人の体力が尽きると、ヨーランは膝に手をついて呼吸し、馬も疲れたように速度を緩めた。
どちらが勝ったとか、そういう次元ではない。けれど、なかなかに速かった青馬に人間のヨーランが追いついたのだ。
馬が、未だ肩で息をしているヨーランのそばに寄ってくる。なにが起こるのかとひやひやしたが、青馬はしばらく小柄なヨーランを見下ろすと、ぶるるんといなないて、にやりと笑ったような気がした。
青馬を見上げたヨーランも、どこか笑みを浮かべているように見えた。
翌日、ヨーランが青馬に騎乗すると、あれほど指示に背いていた青馬が大人しく言うことを聞いていた。
「二人の間には、どうやら友情が生まれたようだな」
そう、イーシャーが言うので、「そうですね」と頷く。
昨日、イーシャーが青馬の御し方を告げると、ヨーランは苦虫を噛み潰したような顔をした。
青馬はああ見えて俊足なので、人間如きがその速さに追いつくようなことがあれば、悔しがるよりまず、好敵手として認めるだろうと言ったのだ。
イェオリの血を色濃く受け継ぐヨーランならば、それは可能であった。
そんなに上手くいくのかと乗り気ではなかったヨーランだが、彼も案外本気で青馬に勝ちにいこうとしていたようである。
すっかりよき相棒となった青馬の名前は決めたのかと問うと、ヨーランはしばし逡巡して、「ルシウス」と告げた。
イーシャーと顔を見合わせて、笑ってしまう。双子の姫たちには、いたずら好きな兄がいたという。その兄の名を、自身の馬に名づけたのだ。
「かの王族に怒られそうだな」と、イーシャーが苦笑を浮かべる。
イーシャーの黒馬はともかく、シャーロットの白馬もかの王族を意識して名づけたものだ。
今はロシュフォールと名を変えたかつての王族に、シャーロットは心の中で小さく謝罪したのだった。