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本当の名

 雷の魔法のせいで、体はひりひりと痛かった。

 それに加えて柱にぶつかっているものだから、体が悲鳴を上げている。

 普通ならば、しばらく身動きできないだろう。

 体中に、爽やかな風が吹いていく。水気を帯びた、涼やかな風だ。涼しいなと思っていると、草原の匂いがする。緑風の合間に花の香りが漂って、居心地がいい。

 暖かな陽だまりにいるようだった。体はぽかぽかと温かく、吹いてくる風が穏やかで、体中の痛みが、どこぞへと消えていく。

 はっと目覚めると、大理石の床が見えた。ずりずりと、引きずられるように前進している。

 隣を見やると、乾いた鼻血を拭ったのであろうヨーランが、肩を貸してくれていた。

「気づいたか」

 問われ、慌てて自身の足を使って歩き出す。

 肩を借りているのにまだふらりとしたが、痛みは先ほどより随分和らいでいる。

「わた――僕は大丈夫。そんなことより、ヨーランは」

 無事なのか、と問いかけて、気を失う前に見た光景が走馬灯のように蘇る。

 軽やかな足捌きで、取り巻きたちを蹴り飛ばす姿は、とても深窓の姫には見えなかった。

 到底、人の動きとは思えない、あの俊敏さ。

 いまだ、夢うつつにいるようで、頭を振る。

「……ステュアートたちは?」

「目についた者を蹴り飛ばしたから、わからない。手加減はしてやったから、重くて骨が折れたくらいだろう」

 脳天にかかと落としを食らっていたケヴィンは、果たして無事だろうか。ものすごい勢いで床に口づけしにいったのだから、まず軽傷ではないだろう。

「そんなことよりお前、回復が早いな」

「……そうかな」

 向かっているのは自室だとわかった。確かに医務室に行けば、事の仔細を説明しなくてはならないが。

(ステュアートたちだって医務室に助けを求めているだろうし……ああ、これが公になったら騎士団を追い出されるんじゃ)

 一度にいろんなことが起こりすぎて、頭の中がこんがらがっている。

(とりあえず、今心配するべきなのはヨーランだ。私をかばって、あちこち殴られたり蹴られたりしてるんだから)

 自室に辿り着き、ヨーランの手当てを申し出ると、彼は断固として拒否した。

「俺は回復が早い。お前は魔法で攻撃を食らっているのだから、早く手当てしろ。骨が折れていないか、それから火傷も」

 確かに、火傷特有のひりひり感と、ずきずきするような痛みがある。

 ヨーランのことは心配だったが、見たところ、こちらよりはいくらかぴんぴんしていた。ここはお言葉に甘えて、先に手当てさせてもらうことにする。

「じゃあ、洗面室に行って、患部を冷やしてくるよ。ヨーランも、できるところは自分で手当てして。あとで手伝うから」

「わかった」

 肩を借りずとも歩けるが、腰をぶつけたのか、老体のような動きになる。手伝おうと身を乗り出すヨーランを制して、洗面室に移動する。

 ふう、と息をついて、すっかり汚れてしまった白い制服を脱ぐ。雷の魔法が当たった箇所は、黒焦げになっている。

 脱ぐと黒焦げの場所は赤みを帯びていた。これは早急に冷やさねば。

 蛇口をひねって水を流そうとするが、洗面台では難しい。服を脱ぎ捨てて、浴室に向かい、冷水を浴びる。

 気休めかもしれないが、と傷口に手を乗せる。うっ、と呻きつつ、掌に氷が張るように想像する。

 すぐに患部がひやりとして、ひりひりとした痛みが引いていく。

 とりあえず、火傷の手当てはこの程度にして、氷の張った掌を傷口に乗せたまま、浴室を出る。

 気を抜くとは、まさにこのことを言うのだろう。

 浴室を出た先で、翠玉の瞳がこれでもかと目を見開いていた。

 ぎょっとしたのはこちらも同じなのに、互いにぴくりとも体が動かなかった。

 ヨーランの視線は、顔よりやや下を見ている。

(ああ……お母さま)

 しかし、諦めたわけではない。

「ヨ、ヨーラン、どうしたの?」

 一つ、ゆっくりと瞬いてから、ヨーランの翠玉がこちらの顔を見つめる。

「……自分の手当てが終わったから、手伝おうと」

 呆然としていたが、意思疎通ができている。なんてことはない。ほんの少しだけ男子より膨らんでいるかもしれないが、今はただ父親似の胸板に感謝する。

「ああ、そうか、ありがとう。今、火傷の手当てを終えたところだから。痣はできているけど、骨折もしていないし、大丈夫だよ」

 隠したい気持ちはあるにはあるが、隠せば男ではないと否定するようなもの。ここは堂々としているのが一番だ。

 そのおかげだろうか。ヨーランがやっと我に返ったような顔をしたので、こちらも満面の笑みを浮かべる。

「……お前、女だったのか」

 ここまで堂々と平たい胸を見せびらかしているのに、一体なにが彼を正解に導いてしまったのだろうと考えて、思い至る。

 生まれたままの姿であることを、失念していた。


 大事なものがついていないんじゃ、男である証明は到底無理な話だった。

 女であることを確信したヨーランは、顔をトマトのように真っ赤にさせると、洗面室を脱兎のごとく逃げ出した。

 毛布にくるまった見慣れた蓑虫が顔を覗かせ、事情を説明できるようになるまで、それは長い時間がかかった。

「では、お前は本当はチャールズではなく、その姉だと?」

「……はい、仰るとおりで」

「本物のチャールズはどうしているんだ」

「まだ病気が治ってなくて、それで、私が代わりに」

 床に正座させられている。

 正面で椅子に座っているヨーランは、考え深げに眉をひそめたかと思えば、突然頬を赤らめて、あわあわしだした。

「じ、じゃあ、お前は、あのときも……」

「あのとき」がどのときなのかわからず、首を傾げる。

 ヨーランがここまで動揺するほどの出来事があったかなと逡巡していると、ああ、と思い出す。

「しょうがないよ。夢魔に襲われたら男の子は反応しちゃうだろ」

「お、お前……女のくせに恥を知らないのか!」

 そんなことを言われても……と、困ってしまう。

 その後、ヨーランはしばらく夢魔の件で顔を赤くしていたが、仮にも異性と一つ屋根の下にいた事実に、困惑が隠せないようだった。

(まあ、逆の立場だったらと考えると、申しわけなさでいっぱいだ……)

 相手が男の道を歩み始めたばかりの十三歳だとしても、同性だと思って気を許していたのだから。一応、淑女としての教育を受けた者としては、気恥ずかしさはある。

(それに、すこぶる寝起きが悪いおかげで、何度もヨーランの服を剥いてしまったし……)

 これが十九歳のイーシャーだったなら、確実に服を剥く自信はない。それに、あの青年に生まれたままの姿を見られて、この程度の感情で済んでいるだろうか。

 十三歳。よくも悪くも弟のチャールズと同い年。少年である彼らは、こちらからすれば弟のような存在にしか思えない。

 その感情と態度を見透かされて、余計ヨーランを腹立たしくさせているのだろう。

 ヨーラン、と名を呼ぶ。正座したまま、姿勢を正す。

「見られたくないことや、知られたくないこと、たくさんあったと思う。今まで騙していて、本当にごめんなさい」

 頭を下げると、ずきりと痛む。体がなのか、心がなのか。

 しばらく沈黙が続いて、けれど頭を上げずにいると、小さな吐息がこぼれた。

「もういい。お前にだって、事情があるのだろう」

 顔を上げると、致し方ないという表情を浮かべた、いつものヨーランがいた。

「安心しろ。お前の正体について、誰にも言うつもりはない。……それに、自分の意思とは関係なく、男装させられているのだろう」

 どこか同情的とも見える。ヨーランがこんな顔をするなんて珍しいなと思った。

「俺も……わからないではない」

 ぽつりと、ヨーランが言葉を漏らした。

 少年の言葉の裏はわからなかったが、家の事情を押しつけられて、不憫な思いをしているのだろうと言外に伝わった。

 確かに大変ではあるが、シャーロットの場合、男として生きる生活も存外悪くないと思っているので、そこまで同情的に思われるのは申しわけなささえ感じる。

「……お前、髪は長かったのか?」

 突然、そう問われて、えっ、と変な声が出る。

「まあ、それなりには……。侍女に、淑女は髪を伸ばすものだって、耳にたこができるほど言われていたからね」

 苦笑を浮かべると、ヨーランは思慮深く、自身の白銀の房を手に取って、じっと見下ろした。

「……俺の髪でよければ、好きなだけ触らせてやる」

 目を瞬くと、むすっとしたヨーランが顔を背ける。

(ああ……先日のブラシの件のことか)

 髪を梳かさせてほしい、とお願いした。シャーロットが、髪に対して未練があるのだと察したのだろう。

 確かに、自分が思っているよりも、邪魔だと思っていた長い髪には、それなりの愛着があったらしい。失くしてみて、気づいたことだ。

(ヨーランは、優しい子だな)

 思わず、微笑む。

「ありがとう。でもヨーランの髪は、癖がなくさらさらだからなあ。女として負けた気分になっちゃうかも」と、冗談めかして言う。

「それは知らん」

 いつものつんとした態度に、微苦笑を浮かべて、堪え切れずに笑ってしまう。

「なにがおかしい」

「別に、なにも。知られたのがヨーランでよかったよ。追い出されないから、そう言っているんじゃないよ。私の同室になったのが、同じ騎士に仕える盾持ちとなったのが、ヨーランでよかった」

 少年は一瞬、心ここにあらずといった表情をしていたが、照れ臭いのか、また顔を逸らした。

「名は、なんという」

 それが、本当の名を訊かれているのだと気づいて、瞑目する。

「――シャーロット」

 ヨーランの口が、音なくその名を呟いた。

 彼が、この名を呼ぶことはない。けれど、身近な存在に、本当の自分を知られていることが、こんなにも安堵するものだとは思わなかった。

 気が抜けたのか、傷口がずきずきと痛み出した。

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