イェオリ
起床の鐘が鳴る前に、蓑虫の毛布を剥ぎ取り、寝間着を脱がす。
すっかり躊躇いがなくなっている自分に内心引きながら、濡れた布をヨーランの顔面に宛がう。びちゃっと盛大に音がしたので、常人ならばこれで起きるはずだが、そこは天下のヨーランさまだった。
珠のような白皙をごしごしと拭うのは初めこそ気後れしていたが、寝起きがすこぶる悪い子供を起こしていると、躊躇などどこ吹く風である。
椅子を引き寄せて、そこに脱力した人形を座らせると、白銀の髪にブラシを通す。一つに結んだところで、はたと気づく。すっかりヨーランの近侍状態であることに。
はは……と苦笑を浮かべていると、鐘が鳴る。
同時に、ヨーランの耳元で指を鳴らす。
しばらくぐーすか寝ていたヨーランだが、次第に呻き声が混ざるようになる。
ばっと椅子から飛び起きて、尻餅をつきそうになる。
「おはよう、ヨーラン」
肩で息をしている少年に向かって、笑顔で挨拶する。
「なにか悪い夢でも見たの?」
いまだ状況が把握できていない少年だが、放っておくとまた眠りこけてしまうので、さっさと椅子から立たせて、二人してイーシャーの部屋に向かう。
実のところ、ヨーランはイーシャーに憧れている風である。なので、かの先輩騎士に幻滅されるという夢を見せたのだ。憧れの騎士に失望されて、かわいそうだなと思いつつ、けれどさまざまな実験を試みた結果、これが一番効果があったのだった。
(それにこのまま遅刻を繰り返していたら、どのみち失望されるだろうし……)
ヨーランには申しわけないけれど、遅刻の連帯責任はイーシャーだって被るのだ。
イーシャーに訪いを告げて、身支度の用意を手伝う。
「最近、ヨーランは早起きだな」
眩しい笑顔で告げられ、ヨーランがびくりと肩を震わせる。
「そ、そうなんです。イーシャー先輩のために頑張っているみたいですよ」と横から入り、ねっ、と同意を求める。ヨーランは言われるがまま、こくこくと頷いた。
「近々、本格的な任務がお前たちにも任ぜられる。どんな任務に当たるかはわからんが、そのときは供を頼むぞ」
「わあ、初めての任務ですね。しっかりお供させていただきます」
「頼もしいな、チャールズ。ヨーランも、俺にはなくてはならない存在だ。供を頼めるか」
問われたヨーランはすっかり目が覚めているだろうに、目を瞬いて、「あ……はい」と力のない返事をした。
ヨーランがこんな返事をするのにも事情がある。
最近、騎士団内ではある噂が飛び交っている。
それはもっぱらヨーランのことで、先日の件から彼に魔法と剣術の才がないのが露見してしまったのだ。
あの日以来、顔を合わすと、赤銅の髪を掻き上げながら、ステュアートが得意そうな顔で突っかかってくるのだった。
「シュネーヴォイクト、お前、剣術の才がなくて落第寸前だって話だぞ。騎士団を追いやられて家に戻されるなんて恥ずかしいことをご丁寧に教えてくれたのは誰だったかなあ?」
「ステュアート、ヨーランの掌を見てごらんよ。毎日剣術の稽古をしているんだよ。そうやって見下していると痛い目を見る羽目になるよ」
隣でただ睨みつけるだけのヨーランに代わって反駁すると、ステュアートはあからさまに顔を歪めて、小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「一日二日の稽古でなんになるんだか。俺たちは家にいる頃から剣に触れ、剣がどんなものかを習う。今まで剣を触ったことのない奴に、俺たちの苦労をわかった気になられるのは腹が立つってものだ」
ヨーランだとて、剣を触ったことがないわけではない。ただ、どういう事情か、剣を習う機会が他の子弟たちと比べて少なかっただけだ。
だからイーシャーと手合わせしたとき、あそこまで機敏な動きができたのだし、剣筋もまだ初心者の域を出ないとはいえ、日頃の研鑽のおかげで、形になってきているのだ。
連日剣を振りすぎて、ヨーランの柔らかだった掌はまめが潰れ、すっかり皮が厚くなっている。痛がる素振りも見せず、気づいたこちらが手当てしたくらいだ。
それをわかられた気でいるほうが、腹が立つというものだ。
「ステュアート、僕らは剣に触れる機会に恵まれた人間だ。剣術に優れているのは、当たり前だよ。けれどヨーランが腕を上げたとき、とてもじゃないけど、僕は君が勝てる要素はないと思っているよ」
正面から告げると、ステュアートは醜く顔を歪めた。
「俺がこいつに負ける? 名門コヴェントリー侯爵家の俺が? 剣を握ったばかりの雛鳥のようなこいつに?」
「名門なのは君の家であって、君じゃないだろう」
「俺はなあ! 属性魔法を三つ持てる可能性があるんだぞ! コヴェントリー侯爵家は優秀で、代々王の近衛を務めてきた。初代コヴェントリー侯爵は三つの属性魔法を使っていたとも言われる。三つもだ! その血が、俺にも、流れているんだ!」
火や、風や、水や、雷など、属性魔法は一人に一つ使えるものだ。二つ使えればかなり優秀で、それが三つも使えるとなると、ヨーランのように魔法に精通していないのと同じくらい珍しい。
「でもステュアート、君が使える魔法は一つだろう」
ただ、事実を告げただけ。
けれど、ステュアートの顔からは感情が抜け落ち、ただ真顔でこちらを一瞥しただけだった。
ステュアートがなにも言わずに横を通りすぎると、その取り巻きが思い出したように、ヨーランに向けて捨て台詞を吐いていく。
「剣が使えるようになっても、魔法が使えないんじゃなあ」
「あーあ、ステュアートに盾突くと痛い目を見るぞ」
その日から、取り巻きたちによるいじめが、ヨーランだけでなくシャーロットにも及ぶようになったのだった。
変えたばかりの寝藁に糞だらけの寝藁を投げ込まれたり、掃除したばかりの部屋を汚く荒らされたり、食事がひっくり返されたりだの、まあ、その時点ではまだまだ可愛いものだったが、シャーロットたちがそれに懲りていないようだと知ると、いじめは過激なものへとなっていく。
なにより面倒なのは、ステュアートが仕える騎士もまた、彼によく似た性格だということ。
ケヴィン・ソールズベリーは二十一の歳にようやく正騎士になったという侯爵家の次男坊だが、大の男にしては痩身で、嫌味ったらしさが顔に出ている。
ステュアートはケヴィンに相談したのだろう。次の日、柱が並ぶ柱廊に呼び出されたかと思えば、直属の従騎士でもないのに、雑用を押しつけられそうになった。
「僕たちはイーシャー・グジャラートの盾持ちであって、ケヴィン先輩の盾持ちではありません。雑用はあなたの盾持ちであるステュアートに言いつけてください」
ケヴィンも先輩であることには変わらなかったが、盾持ちは一人の主に尽くすものだ。イーシャーの手伝いを跳ね除けてまで、ケヴィンに肩入れする理由はなかった。
そんな態度が気に食わなかったのだろう。けれどステュアートと違うのは、なんの予測もなしに手が出るところだった。
一瞬、物を投げられたことに気づかなかった。その前に出る、怒りの表情だとか、肩の震えなどが一切なかったからだ。
投げられた本は額にかするように当たり、突然のことに思わず瞠目した。
すぐにヨーランがかばうように立ちはだかって、「大丈夫か」と訊いてくれる。
「うん……かすっただけだから」
そばに控えているステュアートと取り巻きたちの笑い声が、辺りに響いた。大丈夫か、とヨーランの口調を真似て、小馬鹿にする。
「強気なお姫さまを怒らせちまったなあ」
「立ちはだかったところで、剣も扱えないお前に一体なにができるんだか」
下卑た笑いが柱廊にこだまするが、彼ら以外、今は人っ子一人いない。
「お前が殴られるのと、そっちの王子さまが殴られるの、どっちがいい?」と、ケヴィンがヨーランに問いかける。
「殴るなら俺を殴れ」
「おーおー、かっこいいお姫さまだなあ」
ケヴィンが命じると、取り巻きたちがヨーランを囲む。
止めようとすると二人が両腕を拘束してきたので、思わず叫ぶ。
「ヨーラン!」
一人がヨーランの頬に殴りかかる。よろけたヨーランに追い打ちをかけるように、残りの者たちが次々と殴り始める。
「やめろ! ヨーランに手を出すな!」
身をひねって、拘束から抜け出そうと試みる。しかし、四つも年下だというのに、切磋琢磨している少年たちの力は強かった。
風の魔法を使って、彼らを吹き飛ばそうと試みたところで、我に返る。火の魔法しか使えない「チャールズ」としてここにいるのに、風の魔法を使うわけにはいかない。
歯噛みして、うずくまっているヨーランを見つめる。蹴られても、呻き声一つ上げずに耐えている姿に、胸が痛む。
(『チャールズ』ではないと、ばれてはいけない……けれど)
けれど、このままみすみす友達を見捨てていいわけがない。
(お母さま……私に力を貸してください)
覚悟を決めて、目を見開く。
その瞬間、拘束している二人が、手を離した。
「……熱っ!」
「こいつ! 魔法を使ってるぞ!」
彼らが火傷しない程度に、火の魔法を身に纏わせたのだ。
二人が手を離した瞬間に、飛び出していく。
ヨーランを蹴り上げている取り巻きの足先が、ちりちりと音を立てて光っていた。雷の魔法を纏わせているのだと気づくのに、時間はかからなかった。
「ヨーラン……!」
彼に覆い被さるようにすると、腹の辺りに斬りつけられたかのような痛みと衝撃がくる。
そのまま吹き飛ばされて、柱にまともにぶつかる。思わず呻いて、ずるずると柱から落ちていく。
全身が痺れたように痙攣していて、立ち上がることができなかった。
「あーあ、王子さまが受けちゃったよ」
「余計なことするなよ、王子さま」
大笑いするケヴィンやステュアート、取り巻きたちの声が聞こえる。
まぶたを開けると、突っ伏したまま、こちらを呆然と見つめるヨーランと目が合った。
「ヨー……ラン……」と息も絶え絶えな声しか出ない。
ケヴィンたちはひと笑いすると、鼻血を出して突っ伏しているヨーランに視線を戻した。
ヨーランを蹴り上げるために、片足が上がる。止めようと手を伸ばすが、悔しいことに、それ以上体を動かすことができなかった。
瞬きを一つすると、隣に衝撃がきた。
首をゆっくり動かすと、隣の柱に、ヨーランを蹴り上げようとしていた取り巻きがぶつかって、昏倒していた。
「えっ……」
「なんだ……?」
取り巻きたちがさざめき立っていたのは、そこまで。
ぎゃあ、と叫び声が次々に聞こえて、壁になにかがぶつかる衝撃音が走る。
正面に視線を戻すと、空中で回し蹴りをするヨーランが目に入る。その足先は一点の曇りもなく、正確に、相手に狙いを定めていた。
ケヴィンが、蹴りを食らって、吹き飛んでいく。壁にぶつかる痩身の青年を、ヨーランが信じられない速さで追いかける。
ケヴィンの前で跳躍したヨーランは、片脚を上げると、そのままかかとを振り下ろした。
その脚はまるで、鋭い剣のようで。
そのとき、思い出したのだ。
イェオリが、戦闘民族であることを。