盾持ちの仕事
起床の鐘が鳴る、一時間前。
ぱちりと目覚めたシャーロットは、同居人を起こさないよう、部屋の中に設えられた洗面室に向かう。洗面台や浴室があり、騎士の身だしなみは、ここで済ますことができる。
ヨーランが起きる前に、白地に金の刺繍が施された騎士団の制服に着替える。戦場はもちろん、入団式や叙勲式など、正式な場を除いて、騎士が鎧を着ることはあまりない。
ここで起床の鐘が鳴り、隣で蓑虫のように眠っているヨーランを揺すった。
「ほら、起きる時間だよ。清掃の時間に遅れると連帯責任でイーシャー先輩にも迷惑がかかるんだぞ」
毛布を引っぺがすが、ヨーランは寝台の上で膝を抱えるように丸まるだけだった。
その後、いくら揺すっても、寝台の上から引きずり降ろそうとしても、ヨーランは微動だにしなかった。
はあ、と深く溜息をついて、水差しを持ち上げる。そのままばしゃりとヨーランの顔にぶっかけると、さすがのヨーランもなにごとかと身を起こした。
ぱちぱちと、状況が把握できず、何度も目を瞬いている様子はおかしかったが、悠長にもしていられない。
「起きたか? 早く支度して、集合するぞ」
盾持ちというのは先輩騎士に仕えるものだ。だというのに、ぼうっとしたまま微動だにしない同僚の世話をしていると、なんとも微妙な気持ちになる。
「僕は、お前の、盾持ちになった覚えは――ないぞ!」
少し躊躇ったが、十三歳の子供の裸を見ても、なにも思わなかったので、寝間着を着替えさせて、腰に届きそうなさらりとした白銀の髪を一つに結ぶ。寝癖がついていたが、近侍のように髪を整えてやる暇なんてあるわけもなく、手を引っ張りながらイーシャーの元へと走っていく。
イーシャーの私室に辿り着くと、叩扉をして、訪いを告げる。
「入っていいぞ」
「失礼いたします! 遅れて申しわけありません……!」
すでに制服に着替えているイーシャーの姿が目に入って、ああ……と脱力する。
(初日から遅刻だなんて、印象が悪すぎる……)
当たったのがイーシャーでなかったなら、今頃正座して懇々と説教を食らっているところだ。
「馬の世話がまだだから、頼めるか」
「もちろんです……!」
「やり方は昨日教えたとおり。少し手荒い馬だから機嫌を損ねないようにな」
にっ、と白い歯を見せて破顔するイーシャーは神さまのようで、思わず心の中で涙を流した。
「おい、いい加減起きろ、ヨーラン! 厩舎に行くぞ」
あれだけ手を引いて走ったにもかかわらず、この少年はいまだ夢うつつにいるらしく、目が据わっていた。
(こいつ……寝起きが悪すぎる!)
なんとか厩舎に辿り着く頃には、ヨーランも独り立ちできるようになり、自主的に馬の寝藁を変え始めた。しかし、これが臭いったら。
同じ厩舎に幾人もの盾持ちたちがいたが、貴族出身の彼らはそれはもう悲痛な声で呻いている。
盾持ちの一人が、馬の餌を持ってきていたので、思わず首を傾げた。
「ねえ、飼い葉は先輩たちが騎乗してからじゃなかった?」
「あれ、そうだっけ」と、少年は淡い金髪を掻く。
すると、隣にいた赤銅の癖毛を持つ少年が、不遜な態度でこちらを見つめてくる。
「なんだ、お前、やけに記憶がいいじゃないか。ついでだから、俺たちの馬の世話をしておけ。寝藁なんて、とてもじゃないが触れない」
「おい、ステュアート!」
「なにかおかしなことでも言ったか? 俺はコヴェントリー侯爵家の息子だぞ。こんなこと、下々の者がやればいい」
そう鼻で笑って、こちらを見下ろすようにするものだから、思わず苦笑してしまった。
(……このぞんざいな態度はチャールズそっくりだなあ)
すると、ステュアートと呼ばれた少年が、赤銅の髪とは正反対の青い瞳を細めて、「なにがおかしい」と睨みつけてきた。
「寝藁の準備もできていないどんくさいお前に呆れているんだ」
唐突に背後から飛んできた声は、間違いなくヨーランのものだった。驚いて振り返ると、ヨーランはすでに馬装の準備を終えていた。
ステュアートの矛先はヨーランに移ったようで、肩をわなわなと震わせている。
「お前……どこの家の者だ! この俺に、そんな口の利き方をしていいと思っているのか!」
「お前のような口先だけ達者な奴が盾持ちになって、主の騎士はさぞ嘆いているだろうな」
追い打ちをかけるように、ヨーランの翠玉の瞳が、冷淡にステュアートを見据えた。
「使えない奴だと知れれば、家に戻されるぞ。それほど恥ずかしいことはないと思うが」
呆然としていたが、はたと我に返る。ここは彼らより四つも年長者の自分が、この喧嘩を止めなければ。
「ちょっと、ヨーラン――」
「お前こそ、女みたいなくせに!」
一瞬自分のことかとどきりとしたが、ステュアートはヨーランに向けて発したようだった。確かに、ヨーランは髪も長いし、線も細いし、深窓の姫君のような外見だったが、いくらなんでも弁が立つヨーランに向けて放つには幼稚すぎる言葉だった。
しかし、予想に反して、ヨーランは黙り込んでしまった。
見ると、子供のように肩を震わせながらそっぽを向いている。
(十三歳といえば多感な歳だろうし、これは結構気にしてるやつだ……)
思わぬ弱点を見つけて、ステュアートはにやりと笑った。
「なあ、お前たちも女みたいだと思わないか?」
遠くのほうに呼びかけると、様子を窺っていた少年たちが近づいて、ヨーランをまじまじと見つめた。
「確かに、女みたい」
「この腕じゃ、剣なんて握れないんじゃないのか」
無理やり笑みを浮かべているところを見ると、どうやらステュアートの取り巻きのようだった。もう取り巻きがいるなんて、さすが侯爵家の令息……と呆れざるを得ない。
ヨーランが黙り込んだまま、イーシャーの黒馬を外に連れ出そうとすると、「女! 女!」とステュアートとその取り巻きたちの大合唱が始まった。
実際に大声を上げているのはステュアートたちだけなのに、馬の声しかしない静かな厩舎では、やけに目立って聞こえた。
はあ、と溜息をついて、声を上げる。
「そうかな。僕はステュアートのほうが女の子みたいに見えるけど」
大合唱が止んで、全員の注目を浴びる。なにをそんな目で見ているのか、と天然を装って、言葉を続ける。
「だって、ヨーランより背が低いし、声だって高くて女の子みたい。ステュアートも髪を伸ばせば、本当の女の子みたいで可愛いのに!」
「な……な……」
「癖毛だから、伸ばしたらお人形みたいになるんじゃないかな。そうしたら今度はドレスを着なくちゃね。ドレスを着たステュアートかあ。想像したら、ちょっと面白いね」
誰かが、ぶふっと吹き出すと、つられたように笑いを堪える声が聞こえ出す。
先ほどまで余裕をこいていたステュアートは、周囲の様子に、再び肩を震わせた。
「お前……! ふざけるなよっ!」
こっちに向かってきたので、驚いて瞠目していると、巨大な影に覆われて、眼前のステュアートの顔が暗くなる。
馬のいななきとともに、イーシャーの黒馬が竿立ちになったのだ。ステュアートは驚いて、尻餅をついた。踏んでから、それが糞だらけの寝藁だと気づいて、ステュアートは悲鳴を上げた。
こちらはこちらで、機嫌を損ねている様子の黒馬を落ち着かせるのに必死だった。ヨーランと二人で、どうどうと落ち着かせるが、騒いだのがまずかったのか、今にも走り出しそうだった。
「――ジャンヌ!」
声がかかると、黒馬はゆっくりと落ち着いていき、やがて大人しくなった。
厩舎の入口を見やると、見事な赤毛をした少年が立っていた。ここにいる少年たちより二、三歳年上のようで、彼らよりも背が高かった。
長い前髪から見える若草色の双眸と、顔のそばかすを見ていると、どこか侍女のセーラを思い出す。
「イーシャー先輩のジャンヌは気性が激しいんだ。驚いたろう」
声変わりを終えた優しげな声音に、殺伐とした厩舎が落ち着いていく。
「でも、今年の盾持ちたちは清掃が遅いな。もう先輩たちが準備されてる。早く馬を出して、馬装を済ませなさい」
その一言に、慌てたように少年たちが動き出す。
昨日、説明を受けていたはずだが、なにをやればいいのか、もう頭にないようである。赤毛の少年が、それを手助けしている。
ぶるるんとジャンヌが鳴いたので、ヨーランとともに厩舎を後にしようとすると、後ろから声がかかる。
「貴族の子弟たちは、馬丁に任せることが多い。君たちは、自分で馬の世話をしていたんだね」
「馬が、好きなので……」と恐々と答えると、赤毛の少年は優しく微笑んだ。
「僕はジョン・ウィンストン。二年前からアーサー先輩の盾持ちをやってる」
「あっ、わた……僕はチャールズ・フィッツジェラルドです。こっちは同室のヨーラン。助けていただいて、ありがとうございました」
深々と頭を下げる。隣のヨーランは軽く会釈しただけだった。
「イーシャー先輩は今年正騎士になられた方だから、君たちの手助けが必要だ。僕も盾持ちの先輩として協力するから、なにかあればいつでも頼ってほしい。引き留めてごめん。さあ、もう行って」
「はい! ありがとうございます、ジョン先輩」
そうしてヨーラン、そして黒馬のジャンヌとともに厩舎を後にする。
優しげな先輩がいてくれてよかった、と安堵するとともに、波乱はこれから巻き起こりそうだなあと、シャーロットは身構えたのだった。