エミール
褐色の肌をなでる。短い黒髪が、太陽の光を受けてキラキラと輝く。長いまつげと、髪と同じ黒々とした瞳。ショコラのような男の子に、思わず目を奪われた。
「あなた、おいしそう」
男の子は、目をぱちくりとしばたたいた。
「おいしそうと言われたのは初めてです」
そういって、男の子は私を抱き上げた。
「おけがはございませんか。陛下たちがお探しです」
「どこもいたくないわ。――あなた、けがしてる!」
「気になさらないでください。俺は丈夫ですから」
きっと、私を探しに来るときにけがをしたのだ。遠くへと飛び出してしまった自分を恥じて、悔いた。だからと言って、男の子のけがが治るわけではないのだけれど。
「ごめんなさい」
「あなたのせいではありません」
男の子が慌てたように、そう言いつくろった。
「これは勲章です。あなたを無事に見つけ出せた、俺の勲章」
「リシャール……」
「名前を覚えていてくださったとは、光栄です」
男の子のほほ笑みに、泣きそうになる。こうして守られる立場の人間なのに、その実、守られる価値などないのだから。
「ごめんなさい……私、すぐに死んじゃうのに」
男の子はびっくりしたようにこちらを見て、顔をうつむかせている私の頭をそっとなでた。
「無礼は承知です。後で、いくらでも罰は受けます」
男の子は、ふと考えるように前を向いて、そして優しげな声で言葉をつづけた。
「この命は、あなたに授けていただいたものです」
だから、と男の子は口を開いた。私はその言葉が心の底からうれしかったのに、時がたつにつれ、徐々に薄らいでいったのだ。
今ではどんなに望んでも、思い出すことはできなかった。
馬車が進むにつれて、霧が濃くなっていく。周囲は静かで、馬の足音だけが聞こえている。
「この霧……」
「ああ、おかしいな」
イーシャーはそう言って扉を開けようとしたが、衝撃を加えても扉があくことはなかった。
「デュランダル卿!」と呼び掛けるが、彼からの返事はない。向こうの声もこちらの声も、互いに聞こえていないのかもしれない。
「俺たちがどうなるかはエミール氏にかかっているらしい」
それからどれほど揺られたか分からない。長くも短くも感じた。急に霧が晴れたかと思うと、馬車の行き先に城がそびえていたのだ。
城の前で馬車は停車し、きしむような音を立てながらデュランダルによって扉が開けられた。降り立つと、吐く息が白い。ここがまだロシュフォールなのか分からなかったが、王都よりも肌寒かった。
全員が降りると馬車はどこぞへと走り去ってしまう。同時に、眼前の大扉が開かれていった。開かれた扉の先で二人のメイドが待っていて、こちらに一礼した。
金髪を結い上げたメイドが、優しくほほ笑んだ。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、こちらへ」
全員がけげんそうにメイドたちを見上げると、黒髪を結い上げたメイドが城の奥へと手を広げた。
「旦那様がお待ちです」
とにかく、ここにいても仕方がなかったので城の中へと足を進める。
「人が訪ねてこられるのは久方ぶりですから、何も準備できずに申し訳ないのですが」
広間に入った途端、金髪のメイドがわびるように言った。食堂に案内されると、ごちそうが並んでいた。珍味でありながら狩猟するのが難しい鳥であるマチョウ料理を見つけて、デュランダルが口を開いた。
「マチョウ? この時期にどこで手に入れたのです」
「私たちで狩ってまいりました」
なんてことないというように言う金髪のメイドに、全員がいぶかしげに眉を寄せた。メイドが狩りをするなんて、異様なことだった。それも、狩猟の難しいマチョウを。
「どうぞおかけになってください。もうすぐ旦那様もいらっしゃいます」
いぶかりながら全員が着席したところで、あの、とディアーヌが声をかけた。
「エミール卿は、わたくしの毒を癒やしてくださるとお聞きしました。それは本当でしょうか」
金髪のメイドはディアーヌを見てほほ笑んだ。
「本当ですよ。旦那様は王女殿下に流れる血の始祖であらせられますから。けれど、癒やされるかどうかは旦那様次第です」
そういって金髪のメイドが部屋から下がると、残った黒髪のメイドにイーシャーが尋ねた。
「あなた方はどれくらいエミール卿に仕えているのです」
「私は新参者ですので、五十年ほどです」
「五十……?」
メイドの肌はつやがあり、十代後半から二十代前半くらいにしか見えなかった。とてもではないが、五十年も仕えているメイドとは到底信じられなかった。
「あなたも、吸血鬼なのですか?」
ディアーヌが、緊張しながら尋ねた。メイドは、寂し気ともとれる笑みを浮かべた。
「私たちは、いろいろと訳ありなのです。保護してくださったのは旦那様だけ。ですから、私は旦那様のためにお仕えしているのです」
意味は分かりかねたが、メイドたちは自らの意思でここにいるようだった。彼らの間に何があったのかは、想像の域を出ない。
給仕をする従僕も、彼らを取りまとめる執事も、姿を現さない。ここにいるのは、実質彼女たちだけなのかもしれなかった。
「人の食事です。安心してお召し上がりください」
食事に手を付けない客人を見て、黒髪のメイドが声をかけた。一同は顔を見合わせて、そしてようやくナイフとフォークを手に取った。
食事を始めてからしばらくして、食堂の扉が開かれた。先ほどの金髪のメイドと、その足元に小さな影が見えた。癖のある黒髪に、異様なほどに白い肌、黒曜石の瞳が面白げにこちらを見つめている。ヨーランよりも幼い、十歳ほどの子供だった。
「わが城のあるじ、エミール様です」
メイドがそう少年を紹介するのを、一同は聞き間違いかと瞠目した。恰幅のいい壮年、もしくは老年の紳士を想像していただけに、想像上のエミールと目の前のエミールが一致しない。
「あなたが……エミール卿?」
「見た目にそぐわぬ立場だとは思っているが、その反応は実に久しぶりだね」
声変わりも迎えていない高い声。けれど妙に落ち着きのある声音で少年はそう自嘲した。
「……失礼。想像していたお姿と、少々相違があったものですから」
「年を取らないとこういうことがあるから不便だね。大丈夫、気にしちゃいない」
遅くなってすまなかったね、とエミールは席に着いた。同時に、黒猫がぴょんとテーブルに飛び乗った。
「こら、黒猫。お行儀が悪いじゃないか」
「シャノアールって……名前は付けないんですの?」
おずおずとディアーヌが口を開く。エミールは慈愛に満ちた表情で、ふっと笑った。
「これが名前だよ。下手に名前を付けるとね、別れるときにつらいだろう」
猫がにゃあと鳴いて、エミールがその黒い頭をなでた。
「こうして隠居しているとね、いろんなものに興味が出てくる。もっと話し相手も欲しいし、世界も見て回りたいと思う。けれど、私には許されていないんだ」
「許されていない……?」
エミールは意味ありげな笑みを浮かべた。
「吸血鬼として生まれて、吸血鬼として育った。人のまねごとをして生きてみたけど、私には無理だった。傷つけるだけ。ならば、いっそのこと引きこもったほうが人のためになるだろうと考えたのさ」
黒猫をなでながら、昔話を聞かせるように話していたエミールが、ああ、そうだとディアーヌに目をやった。
「墓守は元気だったか? 長いこと外界と離れていると彼の様子を聞くこともできなくてね」
「お知り合い、ですか?」
思わず、シャーロットは口を開いていた。生気のない墓守は、とてもじゃないがこちら側の人間とは思えなかった。
「友人だよ。人のまねごとをしていたころのね。あの墓地で初めて埋められた人間が彼さ。同時期に飼っていた犬たちが死んだから、一人じゃさみしかろうと一緒に埋めてやったんだ」
では、あの墓守犬たちは、元はエミールの飼い犬だったのだ。緊張した面差しのディアーヌを見やって、胸にすとんと落ちるものがあった。墓守犬がなぜ、ディアーヌに心を許していたのかを。
「……あの子たちは、わたくしの中に流れるあなたの血を覚えていたのですね」
エミールは何も言わず、ただ小鹿のような王女を見つめていた。
「素直な、いい子たちです。あなたに会いたがっていましたわ」
「……うれしい言葉をありがとう、王女殿下」
黒曜石の瞳を細めて、そう感謝の言葉を述べる。けれど、決して「会いに行く」とは口にしなかった。会いに行けないのか、会いに行かないのかは分からなかった。
「エミール卿、われらはあなたにお願いをしにまいりました」
「どんなお願いかは分かっているよ、デュランダル卿。王女殿下の毒は癒やしてあげてもいい。けれど、こちらも君たちにお願いしたいことがある」
テーブルに片肘を突いて、こちらを面白そうに見つめるエミールの姿は年相応に見えた。
「……そちらの、望みは」
デュランダルの褐色の肌をすべるように、汗が浮き出て流れていった。




