ディアーヌ
部屋を出ようとした瞬間、ヨーランが呻き声を上げた。
「も……無、理だ……」
瞬間、どんと外に突き飛ばされ、たたらを踏む。
「ヨーラ……」
「少し、だけ……待っ……すぐ、出る……」
赤い顔をしたまま、上手く回らない口で、それだけ告げられる。すぐに目の前で、先ほどまでいた部屋の扉を閉められる。
我に返って開けようとすると、扉が動かない。扉の前に、ヨーランが座り込んでいるのだ。
扉越しでも、わずかな衣擦れの音が聞こえてきて、思わず数歩後ずさる。目を瞑って、鼻から息を吐き出す。
(さすがに、かわいそうだ……)
離れたところまで移動して、少しだけ待ってみる。あまり長くかかるようだったら、申しわけないけれど、強制的に連れ出すしかない。魔力を総動員させたら、戦闘民族であるヨーランにも勝てないことはないと思う。
瀟洒な屋敷を見回すが、暗くてよく見えない。部屋の扉はいっぱいあったが、中を確かめても、なんの変哲もない部屋だらけだった。
かつて、この村を統治していた領主の家だろうか。どこか古臭くて、年代物の家具がたくさんあった。
(いい隠れ家を見つけたってことか)
少なくとも、バソリー村からこの屋敷は見えなかった。木々に隠れているのか。高台に建っているとも思えなかった。
きい、と扉が軋む音を立てたかと思うと、中からヨーランが出てくる。ガス灯のような炎を浮かべているので、すぐにこちらに気づく。
興奮した様子は治まっていたが、どこか気まずそうにしているので、「少しはすっきりできた?」と訊いたら、「お前は本当に……恥じらいというものがないのか!」と怒鳴られた。どうも、言葉の選択を間違えるのが悪い癖のようだ、と反省する。
「さあ、とりあえずこの屋敷から出よう」
「どうせなら吸血鬼を仕留めたほうが楽なんじゃないか」
「確かに、それは言えてるけど。でも、二人きりで挑むのは危険だよ。現に、こうして捕まってるんだから。吸血鬼も、一人だけとはかぎらない。まずは、イーシャー先輩と合流するために、目印になるものを打ち上げて、ここの場所を伝えないと」
同意した様子のヨーランとともに、広い屋敷を歩き回る。まだ毒が抜けていないヨーランは苦しそうだったが、頭は回るようだった。
「それにしても、歩きにくそうだね……」
少女の寝間着姿のままだった。さぞ、歩きにくいだろう。それに、結うものも持ってきていないので、白銀の長い髪が背中に広がっている。見た目は完全に女の子だ。
よく見ると、裾の部分が破かれている。少しでも動きやすくなるように、工夫したのだろう。
「制服を交換しようか?」
苦笑を浮かべて提案すると、苦虫を噛み潰したような顔をされる。
「……いい。こんなことには慣れてるからな」
「えっ?」
ヨーランが、しまったというような顔をした。だから、それ以上尋ねることはできなかった。こんなこと、がどんなことなのかは予想がつかないけれど、訊かれたくないことは訊くべきじゃない。
ヨーランのことを、まだまだなにも知らないんだと思うと、少し物悲しくなってしまうけれど。
(……いつか、そういうときが訪れるさ)
そうして、少し気まずくなった空間で、階下への階段を見つけた。下は暗く、なにも見えない。降りようとすると、ヨーランが待てと言うように手で制してきた。
「先に見てくる。お前はここにいろ」
「えっ、でも」
「ここに、いろ」
有無を言わせない言葉に、思わず頷いた。明かりがなくては大変だろうからと、炎をもう一つ浮かべて、ヨーランに追従するように命じた。
「……俺も、魔法が使えたらな」
聞こえるか聞こえないかの声で、少年はそう呟いた。類まれなる身体能力を持つイェオリの民は、魔法に通じている者が少ないのだという。けれど、その力こそが、魔法のようだと思う。ヨーランが気負いする理由など、一つもない。そう告げると、白銀の少年は翠玉の瞳を見開いて、微苦笑を浮かべた。
「お前は……変わっている」
こちらも微苦笑を返すと、ヨーランは階下へと降りていった。
姿が見えなくなるのを確認していると、脇からぎし、と音が鳴った。床が軋んだ音だった。慌てて振り向くと、こちらが浮かべたわずかな明かりに照らされて、人影が見えた。
太ももまである、波打つ亜麻色の髪。到底、村人の格好とは思えない黄緑色のドレスを着た、十四、五歳の少女だった。
少女は、明らかに動揺しているようで、その場を動けずにいる。けれど、口は小刻みに震えており、このあとどうなるのかすぐにわかった。
少女が息を吸い込む前に、駆ける。足の速さには自信があったので、すぐに少女の元へと到達する。抱きかかえるように腰に腕を回し、叫ぼうとしている彼女の口を押えて、しーっと囁く。
「大丈夫。なにも怖いことはしないから」
にこりと笑むと、追従してきた小さな炎に照らされる。それで、こちらの表情を見取ったのだろう。安堵からか、少女の体の力が抜けていく。慌てて腰を支えると、泣きそうな顔をされる。
「ごめんなさい、わたくし……人がいて、驚いて、それで……」
鈴のような声は、バソリーの村人よりもロシュフォール訛りが強かった。
「大丈夫、心配いらないよ。僕はチャールズ。君の名前は?」
「……ディアーヌ」
「もしかして、ロシュフォールの人?」
名前の響きがフローレンスとは違って、思わず訊き返す。まだこちらを訝しんでいる風のディアーヌは、不安げにこくりと頷いた。
まさかとは思うが、この屋敷はロシュフォールにあるのだろうか。しかし、いくら吸血鬼でも、二人を抱えて遠く離れた場所まで連れてきたとは思えない。イーシャーが吸血鬼の分身を追っていったとはいえ、追手がいることは知れただろうし。
「ディアーヌ、君はどうしてここに? 捕まってるの?」
「それは……」
話せば長くなるのだろう。けれど、こちらもあまり時間がない。
「詳しい話はあとで。二、三質問をするよ。いい?」
「ええ……」
「君がここにいる理由は?」
「連れて、こられたの。あの、レイモンドという、吸血鬼に」
「そうか、僕もだよ。怖かったね。吸血鬼は一人?」
「……わからない」
「じゃあ、最後の質問。君は自分の意思でここに留まってるの? それとも、ここから抜け出したい?」
ディアーヌの目に、ぶわっと涙が溜まって、両手で顔を覆う。それからこくこくと何度も頷いた。
「ディアーヌ、心配しなくていい。僕らが必ず守るから」
「僕ら……?」
自身の格好をよく見せる。白い制服を見た彼女は、それでやっと、目の前にいるのが騎士だと気づいたようだ。
「もう一人、仲間がいるんだ。僕と彼とで、君を外に連れ出すよ」
安堵したのか、玲瓏な少女はシャーロットの腕の中で徐々に震えなくなっていった。次に顔を上げたとき、彼女の琥珀色の瞳が、力強くこちらを見据えていた。
「……わたくし、気弱になっていましたわ。このお屋敷に来てから、ずっと一人で、心細くて。でも、あなたたちが来てくれましたもの。もう、泣くのはやめにしますわ」
鈴のように愛らしい声をしているのに、その口調は凛としていて、思わず圧倒される。間違いなく、彼女はただの村人なんかじゃない。生まれながらの貴人だ。
背後で足音がして振り返ると、階下の様子を確認していたヨーランが戻ってきて、こちらを驚いたように見つめていた。
「ヨーラン、どうだった?」
「人の気配はなかった。確認したかぎり、さしてなにかあるわけでもなさそうだったが……そいつはなんだ?」
ドレス姿の少女に顎をしゃくる。
「彼女はディアーヌ。どうやらレイモンドに連れてこられたみたいなんだ」
するとヨーランを黙って見ていたディアーヌが、綺麗な形の眉を寄せた。
「あなたは……女の子?」
見てくれは完全に女の子だから、無理もない。ディアーヌも悪気があったわけではないが、問われた本人は急速に冷え冷えとした態度を玲瓏な少女に向けた。
「えーっと……ディアーヌ、彼はヨーラン。諸事情でこんな格好をしているけど、決して怪しい者じゃないから。僕と同じ従騎士で、戦闘能力も保証する」
「まあ……こんなに綺麗な男の子が存在するんですのね」
純真な瞳で見据えられ、「服を交換しておけばよかった……」とヨーランがぽそりと呟いた。