催淫作用
駆け出したのに、ふらっと膝から崩れ落ちそうになってしまって、ヨーランの白い首筋に吸血鬼の牙がめり込んでいく。つうっと赤い血が見えて、首筋を伝っていく。
「んん……!」
ヨーランが呻いて、抵抗するように暴れていたが、すぐに大人しくなる。
殺されてしまうかもと我に返った途端、腹の底から声を上げ、掌に炎を纏わせてレイモンドに突っ込んでいく。男はすぐに跳躍して、美味しそうに恍惚な笑みを浮かべていた。先ほどまで榛色だった瞳は、血のように赤く変色していた。
「うーん、男の血はあまり美味しくないのだが、どういうわけだか、彼は少女たちのように美味だ。美しい顔立ちをしているから、神も性別を間違えられたか」
「一体、なにを……!」
「安心したまえよ。これくらいで死にはしない。まあ、彼の地獄はこれからだが」
ふっと面白げに笑う男にいら立つ。隣ではヨーランが苦しげな息遣いをしていて、気が気でない。
「君の騎士は、僕の影を追っていったからね。果たしてここを見つけられるかどうか。せいぜい助けが来るまで、獣のような彼と一夜を過ごすといい。調度品は、好きに使ってくれて構わんよ」
途端、レイモンドがこちらに向かって飛びかかってきたので、炎を纏ったままの手で振り払った。肉体に触れた感触はなく、そのまま霧散していく。本体のほうは、部屋の入口で優雅に手を振っていた。赤い瞳とともに、笑みを浮かべたレイモンドが、扉の外に消えていく。無情にも、扉が閉まる音だけが、部屋に響き渡った。
扉に近づきノブを回すが、やはり鍵がかかっている。
――君の騎士は、僕の影を追っていったからね。果たしてここを見つけられるかどうか。
宿にいたとき、吸血鬼は確かに窓の外へと逃げていったように見えたが、どうやらあれはレイモンドが作り出した幻影のようだった。イーシャーは吸血鬼の影を追っている。本体とどれほど離れていられるのかさだかではないが、場合によってはイーシャーはいもしない吸血鬼を延々と追う羽目になる。
(先輩が、宿に引き返してくれたらいいのだけど……)
窓は日の光が入らないようにするためか板で覆われていて、ここが何階なのかもわからない。バソリー村は鬱蒼とした森に囲まれた土地だから、この屋敷は森の中にひっそりと佇んでいるのかもしれない。そうなれば、イーシャーでもここを見つけられる可能性は低い。
長椅子に横たわっていたヨーランが、苦しげな声で呻いたので、近づいて様子を窺う。
「ヨーラン……大丈夫?」
汗がひどく、拭おうとすると手を振り払われる。潤んだ翠玉の瞳がこちらを見つめたかと思うと、どんと肩を押される。
「ヨーラン……?」
「逃げろと……言ったのに……」
――……ット……ろ……。
あれは、自分を逃がそうとしてくれたのか。吸血鬼の毒で、呂律が上手く回らなかったようだ。
「ごめん。でも、私はぴんぴんしてるから。ここから抜け出そう、ヨーラン」
だが、どうやって抜け出すかだった。扉には鍵がかかっているし、窓は板で覆われている。たとえ窓を破れたとしても、大きな物音を立てればすぐにレイモンドに気づかれる。
ヨーランを抱えた状態で、それは危険すぎた。
「ん……ふう……」
ヨーランは苦しそうで、熱があるのかと触れようとすると手を払われてしまう。ならばせめて汗を拭おうと思うのに、こちらに背を向ける形で寝返りをうたれてしまう。
「ヨーラン、どうしたの。苦しいなら、触らないようにするけど」
そのとき、走馬灯のようにレイモンドの言葉がよぎった。
――僕らの毒には催淫作用があるからね。
――まあ、彼の地獄はこれからだが。
――せいぜい助けが来るまで、獣のような彼と一夜を過ごすといい。
なんてことだ、と目を覆う。吸血鬼の毒は、獲物に快楽を与えると知っていたのに。
ヨーランは今、必死にその欲望と闘っているのだ。抗っているのだ。ふう、ふう、と荒い呼吸を繰り返す背中を見て、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「ごめん、軽率だったよ、ヨーラン」
せめて噛まれなければ、こんなことにはなっていなかったかもしれないのに。
(私が、油断したばかりに……)
拳を握り、踵を返す。扉に近づき、ノブを回す。相変わらず鍵がかかっていたが、どうすれば扉を開けることができるか。
背後を振り返る。ヨーランは背を向けている。ノブを見つめて、意を決する。
ノブを握り、意識を集中させると、手の一部から軋みを上げて枝が伸びていく。扉と床の隙間から枝を這わせて、外側のノブに到達する。鍵穴の中に枝を進入させながら、鍵の形に変形させていく。鍵を回せるほどの硬さになるまで、枝を増やす。
枝の塊がぴったりと鍵穴に一致した瞬間、そっと回すと、軽やかな音を立てて、鍵が開いた。
静かに戸を開け、廊下を窺う。深みのあるベルベットのカーテンは閉められ、外を見ても、やはり板で打ちつけられていた。真っ暗だが、光を灯せば見えないことはない。
周囲を明るく照らす光を浮かべたところで、我に返る。
(だから……私は炎属性なんだってば)
一度光を消し、掌を上に向けると、鬼火のような炎が浮かび上がる。追従してくるのを確認したところで、ヨーランを迎えにいく。
「ヨーラン、出口が……」
言いかけて、言葉が詰まる。
女の子の寝間着のままで身悶えしている姿は、異様だった。喉仏が目立つほど頭をのけ反らせ、寝間着の裾を握りしめ、腰を揺らめかせる。その象徴的な場所は、少年がひどく苦しんでいるのがありありとわかる状態だった。
どうにかしてやりたいと思うが、自分にはどうすることもできなかった。
口を引き結び、意を決して、ヨーランを抱き起す。すぐに抵抗するように暴れたので、両手で少年の頬を包み込み、目と目を合わせる。
「ヨーラン! 頼むから、少しだけ我慢して。ここから逃げないと……!」
これ以上抵抗されるなら、地の力を借りて、ヨーランの体を枝で縛って脱出するしかない。しかし、少年は我に返ったようで、相変わらず息は荒かったが大人しく肩に腕を回してきた。
ヨーランの体を落とさないように、しっかりと腰に腕を回し、若干引きずるように移動する。
決して、ヨーランのことを軽んじているわけではない。彼は一人の男だ。見た目はまだ子供のようでも、子を成すための機能はすでに備わっている。
今、この状態で、女である自分に触れられたくはないだろう。恐らく、そばにいてほしくもないだろう。
(私が本当に、男だったなら……)
ヨーランが、こんなにも気を遣うことはなかったはずだ。本当に同性だったなら、同じ男だったなら、もっと気兼ねなく、頼ってくれていたはずだ。
(ごめん、ヨーラン……)
この村に来て、シャーロットは二度目の謝罪をしたのだった。