レイモンド
「なかなか似合うな」
イーシャーが感心するように言うと、相手が先輩騎士であるにもかかわらず、ヨーランは睨めつけた。
「冗談だよ」
イーシャーは笑うが、ヨーランの心情はそれどころではない。少女の寝間着を着せられて、女のふりをしなければならないのだから。
ただ、イーシャーの言うように、その姿ではすぐには男の子とは気づけない。化粧をしなくても美しい顔をしているのだから、世の女子が見れば悔しさと美麗さに昏倒してしまうだろう。
ヨーランはこれから、宿の窓辺で愁いを帯びた顔をして佇んでいればいい。客人を警戒して、なかなか襲いにこないかもしれないが、少女趣味のある吸血鬼のことだ。いずれは、女の格好をしたヨーランに興味を示すことだろう。
四日ほどが経った頃、そろそろこんなことは無意味なのではとヨーランが思い始めた。しかし、なんとか宥めすかして、窓辺で月明かりに当たってもらい、女の格好のまま、眠りに就いてもらった。
正直、イーシャーも言い出しっぺのシャーロットも、吸血鬼の存在を疑わざるを得なかった。この村に本当にいるのか、いたとしても客人を疑って襲ってこないのか。そうこうしているうちに、村の娘たちにまた被害が及んでいるかもしれない。
吸血鬼の腹具合もわからない。今は満腹なのか、それとも空腹なのか。人間のように、一日に何度も食事を摂るのか。人々が寝静まった今が、彼らの食事時だ。
「なかなか、来ませんね」
部屋の中のクローゼットの中に、イーシャーと隠れている。彼は体格がいいから、二人してクローゼットの中にいると窮屈に感じる。
闇夜の中、月明かりだけが頼りで、窓辺から差し込む光がクローゼットの隙間にも入り込む。どのときよりもイーシャーを近くに感じて、緊張せずにはいられない。
(女だとばれませんように……)
ヨーランに比べて、どこか勘の鋭いところのある男だから、密室でへまをしないようにしなくては。
「女にしか見えないな」
思わず顔を上げてしまうと、イーシャーの視線はクローゼットの外、ヨーランが女装して眠る寝台に向けられていた。
「それに、大して寝心地もよくないだろうに、どこででも眠る」
苦笑を浮かべるイーシャーに、苦笑を返す。
「寝そべったら、すぐに寝るんですよ。そのくせ、寝起きは悪いものだから、毎朝起こすのが大変です」
「苦労してるな、お前も。初日に遅刻したのはあいつが原因か」
「まだ、覚えてましたか……」
褐色の肌のイーシャーは、暗がりにいると空のような青い瞳だけが目立っていて、吸い込まれそうだった。その双眸が、こちらを優しげに見つめていた。
「俺の、初めての盾持ちたちだからな。従騎士から、正騎士に叙任されて、初めての」
「イーシャー先輩も、盾持ちだったんですよね。どんな方に仕えていらっしゃったんですか」
何気なしに問うと、心なしか、青年の碧眼が翳った気がした。
「……いい方だったよ、とてもな。俺もこんな騎士になりたいと、思うほどに」
瞑目して、そう囁くように言うイーシャーからは、なにも感じられなかった。愛おしさだとか、悲しさや怒りだとか。どんな人だったのか、あまりわからなかったけれど、今はそこまで踏み込んではいけないような気がした。
「チャールズ、ずっと気になっていたんだが……」
言いかけたところで、口を閉ざす。窓辺で、物音がしたのだ。隙間から、様子を窺う。窓には鍵をかけていたはずだが、どういうわけか開いている。黒い影のようなものが、すっと中に入り込んできて、ちょうど、ヨーランが横たわっている辺りに歩いていく。
吸血鬼は、人ならざる動きをするという。ここで飛び出しては、窓から逃げられてしまうかもしれない。もしくは、誰かが怪我をするかも。
じっと堪えて、影が寝台に上るのを見つめる。どこか色気のある動きに、魅入られる。影とヨーランの顔が近くなったところで、ヨーランがかっと目を開いて、影を蹴り上げる。
しかし、上手く蹴り上げたと思ったのは束の間で、毛布が邪魔をしたのか、はたまたその身体能力のなせる業なのか、跳躍するように避けられてしまった。
(このままじゃ逃げられる……!)
ヨーランが立ち上がるのと、クローゼットから飛び出すのは同時だった。吸血鬼の姿は逆光でよく見えなかったが、逃げる様子はなかった。ならば三人いれば、捕らえることができるかもしれない。
そう思って吸血鬼に近づこうとすると、立ち上がったはずのヨーランが貧血を起こしたかのようにふらついて、そのまま倒れ込んでしまった。
「ヨーラン!?」
その瞬間、吸血鬼が窓の外に向かって飛び出していき、イーシャーがそのあとを追った。
「チャールズ、お前はヨーランを頼む!」
「わかりました!」
慌ただしく部屋から出ていくイーシャーに返答して、倒れ込んだヨーランに駆け寄る。体に力が入らないのか、荒い息をついていた。体をまさぐって、脚に引っ掻かれたような傷があることに気づく。
(吸血鬼の牙だ……)
牙が、ヨーランの体をかすめたのだろう。ぐっと奥歯を噛みしめると、ヨーランからかすかな囁きが聞こえる。
「……ット……ろ……」
「なに、ヨーラン?」
ぞわっと怖気立ち、振り返ろうとした瞬間。首筋に、犬に噛みつかれたときのような、鋭い痛みが走った。
目の前が、真っ暗になった。
体が重苦しかった。ぼうっと目を開けると、見慣れない天井が見える。フィッツジェラルド家の屋敷にいたときのように、天蓋つきの寝台に横たわっているのだとわかった。
なにが起こったのか、思い出せない。身を起こした途端、部屋の扉が開く音が聞こえて、咄嗟に身構える。靴音が絨毯に吸収されていく。その音だけが、近づいてくる。
「やあ、お目覚めかな」
金髪を七三にわけた正装の男が、茶器を揃えたトレイを持って、寝台に腰かけた。
「眠気覚ましに、濃い目のミルクティーにしてみたが、君のお口に合うだろうか」
「えっ……?」
戸惑っていると、貴族然とした男は榛色の瞳を細めて笑った。
「アーリーモーニングティーは紳士の嗜みだろう」
まじまじと、男の顔を見つめてしまう。年齢はシャーロットより十ほど上、二十七歳ほどだろうか。ベージュのスーツを着こなした、清潔感のある容姿からは気品を感じる。整った顔立ちは世の女性が放っておかないであろう、妙な色気があった。
「……レイモンド?」
少女たちが、何度か呼んだ男の名を口にする。男はふっと優雅に笑うと、トレイの上のお茶菓子を摘まんで、上品に食べた。
「君のようなお嬢さんに知られているだなんて、光栄だよ」
やはり、この男がくだんの吸血鬼なのだ、と確信した途端、妙な違和感に気づいて、思わず毛布を引き寄せる。瞬間、男が笑った。
「君、失礼だぞ。僕は相手の同意なしには手を出さない。まあ、牙は出すけれど」
首筋に手をやる。噛まれた跡がずくずくと熱を帯びていた。
「女性の血は甘い。君がなぜ男のなりをしているのかは疑問だが、血は嘘をつかない。もちろん、君の血も甘美だ。けれど、もう少し若いほうがより甘さは増す」
「それで、村の少女たちを」
「言ったろう、合意の上だよ。お互い気持ちよくなって、互いの欲を満たせるんだ。君も、疼いてるだろう」
僕らの毒には催淫作用があるからね、と吸血鬼はのたまった。試すようにこちらを見つめて、面白そうに反応を窺っている。けれど、こちらが大した反応もないとわかると、榛色の双眸をわずかに見開いた。
「毒が効かないなんて初めてだ。なんだ、君は神の子か?」
「さあ。丈夫に生んでくれた母に訊いてくれ」
なにか、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。腰かけていた吸血鬼は、すぐに距離を取った。
「君は不可思議極まりないよ、お嬢さん。まるで狩人に遭遇したかのような感覚だ。血が滾るね」
「あながち、間違いじゃないよ。僕らはお前を狩りにきたんだから」
当然、腰に佩いた剣はなかったが、魔法を使えばやれないことはない。ふらつきは残っていたが、立ち上がって、吸血鬼に迫る。男は綺麗な顔に苦い笑みを浮かべていたが、さっと跳躍すると、長椅子の近くにしゃがみ込んだ。
「お嬢さんに狩られるのも悪くない。では僕も、最後の晩餐にあずかろう」
言って、吸血鬼が長椅子に横たわっているものに顔を近づけた。長い白銀の髪がさらりと流れ落ちて、白い首筋があらわになる。それがなにかに気づいた途端、思わず叫んでいた。
「ヨーラン……!」