噛み跡
うふふ、とからからと笑う。ただ虚空を見つめて、嬉しそうに笑っている。十二、三歳だというその少女は、確かにどこか様子がおかしかった。
「毎日、ずっと、この調子なんです」
「この状態になってから、どれくらい経ちますか?」
「ひと月です。恐らく、今日でちょうど」
「ひと月で……」
少女の両親が、悲痛な面持ちで娘を見つめている。母親が娘に近づき、頬に触れる。
「ベス、ママよ。聞こえる?」
涙を浮かべた母親に対して、娘は虚空を見つめたまま、にこりと微笑んでいた。不気味な印象を抱かせるが、シャーロットにはどこか心に引っかかるものがあった。
「とりあえず、詳しくお話を聞かせてください」
イーシャーに促されて、みなが部屋を出ていく。
病に罹ったとき、なにかおかしなことはなかったか。尋ねても、これといった答えは得られなかった。
「ただ、この状態になる前、娘の……態度、というのでしょうか、少しおかしかったんです」
「態度が?」
「ええ、意味もなく笑うというか。今みたいな様子じゃなくて、本当に正気の状態で。どうしたのかと訊くと『なんでもなーい』とはぐらかされてしまって」
それが病に関係あるのかどうかはわからない。けれど、娘の姿を間近で見ている母親が言うのだから、それは小さな変化だったのだろう。
「好きな人でもできたのかと、そう思って微笑ましかったのに……なのに、どうして、どうしてうちの子が……」
次に訪ねた家でも、十代前半と思われる少女は、寝台の上で青白い顔に笑みを浮かべていた。時折、うふふと笑って、家族の言葉には耳も傾けない。
「よく喋る、いい子だったんですよ。楽しい子で、友達もたくさんいて……」と、母親は言葉を詰まらせる。
「あんなに、明るかったのに……」
そう言って、母親が泣き出した。そばで彼女の夫が、そっと抱き寄せて、同じように悲しそうな顔を浮かべた。
「こうなる前、娘さんになにか変わったことはありませんでしたか?」
思わず、問いかけていた。問われた家族は、しばし逡巡する。
「いえ、特には……あ、待って。この子、急に大人びたことを言い出すようになったんです。子供はどうやったらできるのだとか、私が結婚したら寂しいかと夫に尋ねたり。ませたことを言うようになったなと思っていたんですが、思えばそれから、あの子は徐々に顔色が悪くなって、おかしくなって……」
現状を思い出したのか、母親はまた言葉が続かなくなる。夫がまた宥めて、イーシャーがとりあえず居間に戻るよう促す。
「少女たちはみな、親に言えない秘密があるのか?」
隣でヨーランが呟き、それから自嘲した。
「まさかな。ただの偶然か」
そう言ってヨーランも部屋を出て行って、この場にはシャーロットと、くだんの少女だけとなった。
虚空に向かって笑みを浮かべている少女を見つめたまま、そっと近づく。寝台に腰かけ、頬に触れる。そうすると、少女が嬉しそうに笑むのだった。血の気のない顔に赤みが差す、その姿はまるで、恋する乙女のよう。
両頬を包んで、虚ろな双眸を覗き込む。そうすると、シャーロットを透かし見て、少女の瞳にわずかな光が灯った。
「うわっ」
気づいたら抱きつかれていた。引き剥がそうとすると、「行かないで!」と引き留められる。
「行かないで、レイモンドさま。早く、早くキスして。私、気持ちよくなりたい。レイモンドさま、好き、大好き」
少女の体を傷つけないよう、引き離す。思うところがあって、指で少女の唇にそっと触れる。そうすると少女は恍惚な笑みを浮かべる。そのまま、口を開けさせる。
舌のところに、小さな傷があった。右頬にも、同じような傷が。一見すると、少女がうっかり噛んでしまったものと思うだろう。けれど、どうしてもそうは思えなかった。その傷は、綺麗に二つずつあったからだ。
「早く欲しいの、噛みついてほしいの、レイモンドさま!」
「どうしたんです。今、エリザの声が」
娘の声を聞きつけて、なにごとかと家族が駆け込んでくる。
少女の首筋を確かめる。細く白い首筋は、綺麗だった。
毛布を剥いで、少女の太ももを確かめようとすると、母親が悲鳴を上げる。
「ちょっと、なにをするんですか!」
「娘さんの太ももに噛み跡がないか確かめたいんです」
「噛み跡って……娘はなにかに噛まれたんですか?」
「それを今から確かめるんです。みなさん、部屋の外に出ていてください」
裾を上げようとすると、「おい」と背後からイーシャーの声がかかる。
「それはまずい」
なにがです、と問うと、呆れたような顔を浮かべられる。隣では、眉根を寄せていたヨーランが、あっ、というようにこちらを見た。
「なにって……男が無防備な少女にそんなことをするのは、さすがに紳士とは言いがたいんじゃないか、チャールズ」
あっ、と思わず言ってしまった。
(そうだった……私は今、『チャールズ』なんだった)
「すみません! そんなつもりはなくて……」
慌てて家族に謝罪して、噛み跡がないか、母親に調べてもらうことになった。
「でも、噛み跡って、一体なんの噛み跡なんですか……?」
不安げな母親に、断言するのは早いと思った。イーシャーの顔を見ると、意を汲み取って、「少し失礼します」とその場から引き離してくれた。
「なにかわかったのか、チャールズ?」
「まだ、確証はありませんが……恐らく、吸血鬼によるものだと思われます」
「……吸血鬼」
「首筋には噛み跡はありませんでした。太ももにも、恐らくないのかもしれません。ただ、少女の口内に噛んだような傷があったのです。吸血鬼の毒は、獲物に快楽を与えるといいます。少女は『レイモンド』と男の名を口にしていました。『気持ちよくなりたい』や『噛みついてほしい』とも」
イーシャーは顎に手を当てて、黙考している。
「必ずしも、吸血鬼の仕業とはかぎりません。少女の恋人なのかもしれませんし、口内の噛み跡は少女自身がつけた可能性もあります。だから、エリザ以外の少女の口内も確認したいのです。同じような傷が、あるのかどうか」
口内は外よりも治りが早いから、医者が診る頃には傷跡はなかったのかもしれない。仮にあったとしても、ただの噛み傷だと思うだろう。
先ほどのベスと、病に罹っている少女たちの元を訪れて、噛み跡がないかを確かめさせてもらった。どの少女にも、口内に小さな傷が二つあって、これにより吸血鬼の仕業である可能性を念頭に入れることとした。
「傷が新しいということは、吸血鬼はいまだに少女たちから血を啜っているというわけだ。何人も病に罹っているのは、食料を極力減らさないためか」
「もし、吸血鬼の仕業なら、そうなりますね」
ここで、ヨーランが気味悪げに顔をしかめた。
「少女ばかりを狙う吸血鬼の男か……気持ち悪い」
確かに、と心の中で苦笑を浮かべる。少なからず、獲物には吸血鬼の趣味が出ているようだった。
「辺境のこの村は、吸血鬼にとって絶好の食糧庫だ。けれど食らいすぎたな。二十を超えた女性たちも被害を受けていたようだから、衰弱死させないように一時的に標的を変えたんだろう」
「ああ、そういうことですか……」
病の原因がもし吸血鬼ならば、道は見えてくる。吸血鬼は群れないと聞くが、必ずしも一人とはかぎらない。どこに隠れているのかもわからない状態で、下手に動き回るのは危険だろう。
「おびき出したほうが早いな」
そのためにはどうすればいいか。考えを巡らせようとしたところで、イーシャーが声を上げる。
「少女のなりをすれば、引っかかるかもしれない。ちょうど、ここには十代前半というぴったりな生贄がいるしな」
冗談交じりに言われて、びくりと肩が震える。
(……まあ、少女のふりをするなら、私は適任だろうけど)
けれど、それでイーシャーに女だとばれやしないかとうんうんと唸っていると、褐色の青年はヨーランに声をかけた。
「ヨーラン、少女の服を借りて、すぐに着替えろ」
びっくりしたのはヨーランも同じだったようで、こちらを指差しながら「いや、ここに適任が……!」とうっかり声を上げる。
「チャールズは髪が短い。お前は髪が長いから、少女のふりをするには最適だ」
この世の終わりのような顔をしているヨーランに、シャーロットは心の中で謝罪したのだった。