カラスの鳴く村
「おーい、ヨーランさん」
呼びかけると、寝台の上の蓑虫が「ううん……」と呻く。
先の悪夢はさすがにかわいそうだったので、同期たちに寝起きの悪い奴を起こす方法はないかと訊いて回った。
「うちのも寝起きが悪いから、そこらで虫を捕まえて寝間着の中に入れてやったらすぐに飛び起きたよ」とパトリックが言うので、頭の中でそっと書き留めた。
何度起こしてもすーすーと寝息を立てているヨーランの前で、指を鳴らす。少年の体の下から黒い物体が何匹か這い出してきて、寝間着の中へと入っていく。
すぐに変な感触がしたのだろう。ぼんやりとまぶたを開いたヨーランは、体中を這いずり回っている感覚に驚いて悲鳴を上げた。
「うわああ!」
飛び起きて体を払うが、手で払うと黒い物体は霧散していく。
「おはよう」
声をかけると、ぱちくりとしたヨーランが固まってこちらを見やった。
「……お前か?」
「なにが?」
素知らぬ顔をしたが、ヨーランは眉根を寄せて顔をしかめている。
「でも、今までで一番すっと起きたね」
「やっぱりお前か!」
朝っぱらからわあわあと喚く元気があるヨーランを見ていると、これまでの苦労が嘘のように幸せな心地になる。
(努力がやっと報われたようだよ)
うんうんと満足げに頷いていると、喚いていたヨーランが急に静かになった。
どうしたのかと声をかけようとすると、途端にかっと顔を赤らめて寝台に戻ってしまう。毛布の中に丸まり、再び蓑虫状態となった少年に驚く。
「えっ、どうしたの?」
「見るな、馬鹿」
本当に怒っているような口調だったので、無理に毛布を剥いだらしばらく口を利いてくれないかもしれないなと察する。
しばらく考えて、ふと思い至る。
「ヨーラン、男の子の生理現象なんだから、しょうがないよ」
こちらは理解しているから、恥ずかしがらなくてもいいよというつもりで言ったのに、気づいたら顔面に枕をぶつけられていた。
「気が触れた村人?」
イーシャーの私室で、初めての任務内容を聞かされている。
「ああ。十代前半の少女たちが、不意に笑ったり、話しかけても反応しないなど、軒並み気が触れたようになってしまったらしい」
一体なぜ、と訊きかけて、口を閉じる。それを、これから調査しに行くのだろう。
「場所はロシュフォールとの国境付近にある、バソリーという村だ。初任務だが、遠出になる。必要最低限の荷物を持って、二日後に出発するぞ」
すぐに荷造りを開始した。トランクに荷物を詰めながら、ヨーランに声をかける。
「初めての任務だけど、大変なことになりそうだね……」
ヨーランは、静かな面持ちで「ああ……」と頷いた。
彼も若干緊張はしているらしい。
二日後、厩舎でそれぞれの相棒に別れの挨拶を済ませる。騎士団から外に出るのは久しぶりで、気持ちが昂る。伝わったのか、白馬のマリアンヌも興奮しているようだった。
三人で辻馬車に乗り込み、駅へと向かう。領地は田舎だったものだから、久しぶりの都会は騒がしく、目新しい。
辻馬車を降り、駅の階段を上っていると、肩にどんと衝撃が来た。
「あっ、ごめんなさい」
イーシャーのような褐色の肌をした長身の男にぶつかり、謝罪する。男はこくりと頷いただけで、そのまま立ち去ってしまう。背中に、男の背丈ほどもある大剣を担いでいた。
(あの服……)
男の着ていた黒い服は、騎士団の制服のようにも見えた。
シャーロットの所属するライオネル騎士団だけでなく、フローレンス王国のあちこちに騎士団が存在するのだ。別の騎士団員と遭遇しても、おかしくはないだろう。
「……あれは黒薔薇だな」
背後から声をかけられて振り返る。イーシャーが、立ち去る男の背をまじまじと見つめてそう告げた。
「黒薔薇?」
「騎士団の呼び名だ。各国の主要騎士団を、制服の色から薔薇で例えるんだ。うちも白薔薇と呼ばれている」
「へえ、そうなんですね」
騎士団のそういった事情は、初めて聞く。
「あれはロシュフォールのローラン騎士団だな。こちらまで赴く大事な用があるらしい」
去っていった男の姿は、もう見えない。異国の地から、フローレンスまで赴くほどの任務とはなんなのだろう。
考えたところで仕方ない。踵を返そうとすると、イーシャーはまだ、男が去っていったほうを見つめていた。
「先輩?」
「ああ、悪い。行こうか」
一等車の扉を開けて、中に乗り込む。トランクを荷物棚に置き、三人が着席してしばらくすると、汽笛が鳴る。
これから、長い旅が待っている。
正面に座るイーシャーは、なにやら考え深げに車窓の景色を眺めていた。
「少女たちは、医者に診せてもわからなかったんですよね」
声をかけると、ああ、と返事がある。
「顔も青白いことから月のものからくる病だと思われていたが、鉄を含んだワインを与えても効果がない。そうこうしているうちに少女たちは衰弱死していく。原因不明の病で、医者もお手上げだ」
月のもので少女たちのような症状を起こすことは多々ある。けれど鉄を与えても意味がなく、医者も匙を投げるほどならば、まったく違う原因が考えられる。
「正直、お前たちの初任務にしては荷が重い。患者は少女たちだけだが、これは伝染病かもしれない。充分注意しておいてくれ」
「はい」
ヨーランと二人、思わず、声が固くなる。
汽車は都会からのどかな田園風景へと移行し、流れる雲と同じ方向に走っていく。
気づけばうとうととしていたのか、はっと目を覚ました。疲れているのか、イーシャーも腕を組んで眠っている。
隣のヨーランを見やると、不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。
「あれ、ヨーランは起きてたのか」
伸びをしながら告げると、ヨーランは声変わりを迎えたばかりのかすれた声で「おい」と脅すように言った。
「お前が俺の肩に頭を乗っけていたから眠れなかったんだ」
「えっ、それはごめん」
「……お前は油断しすぎだ」
呟くように言われた言葉に首を傾げていると、しがらみがなくなったからか、少年はふうと息をついて眠りに落ちていった。
汽車を降り、馬車を乗り継いでいく。
ロシュフォールとの国境が近づいてくると馬車さえもなくなり、最終的には村の住民が荷車を引いて迎えに来てくれた。
「すみません、遠いとこから。わざわざありがとうございます」
ロシュフォール訛りの壮年の男が、深々と頭を下げる。
「いえ、旅は楽しかったので。それより、村の状況はどうなっていますか。患者さんたちの様子が気がかりです」
イーシャーが促し、荷車に荷物を乗せてもらいながら、村人から話を聞く。
「ここには大きな病院もないから、隔離もできないんです。それぞれの家で、おかしくなっちまった娘っ子たちを閉じ込めてるんですけど、よその家でまた他の娘っ子がおかしくなっちまうんです」
「隔離しても意味がないってことですか」
「そうです。幸い、俺たちにも、その上の年寄り連中にもおかしくなった奴はいねえんで、娘っ子だけ病に罹らないように気を配ってるとこなんですが、一向に病がなくならねえで。娘っ子だけに罹るようなんです」
「十代前半の娘さんたち、ですよね」
「ええ。それより上は滅多に罹りませんね」
「滅多に、とは」
「最近、二十路や三十路を超えた女たちもおかしなことを口走るときがあるんです。ただ、そのままおかしくなっちまう娘っ子たちと違って、一日で正気に戻るんですが」
そうこうしているうちに、カラスの鳴き声が聞こえてくる。
「ここです」
村に着いたようだった。
どことなくどんよりとした空気が漂っていて、フィッツジェラルド家が統治している領地と比べると、陰鬱な印象を抱かせる。そこら中にカラスが飛び回っていて、獲物を待っているかのようだった。
シャーロットたちは、くだんのバソリー村へと足を踏み入れた。