プロポーズ
どちらからともなく目を覚ますと、もう朝と呼べる時間を過ぎていた。
「おはよう」と、爽子はベッドの中で大きな伸びをしながら、恥ずかしそうに声を上げた。
「わー、体中べとべと、汗臭―い」と自分の二の腕の匂いを嗅ぐしぐさが、なんともかわいい。
ベッドから降りて洗面台に向かおうとした彼女がその場にへたり込んだ。
「やーん、足ががくがくするし、もう全身筋肉痛だわ」
「お風呂、入ろう」
爽子の腕を取ると、僕らは全裸のまま浴室に向かった。シャワーを使ってお互いの身体を洗いあいながら、身体のいたるところにある、昨晩の痕跡を見つけては笑いあった。
円形の大きな浴槽にお湯をためて二人で身体を浸した。爽子の女性の部分に触れようと手を伸ばすと、
「駄目、もう、すごくヒリヒリしてて絶対無理」と体をよじった。それは僕の方も同様だった。
「これでもう何も思い残すことは無いわ。今まで本当にありがとう」
爽子は、僕の肩に腕を回すと、長い、長いキスをした。
身支度をして外に出ると、もう太陽は高く上っていた。爽子は、つないでいた手をすっと離すと、無言で駅に向かって歩き始めた。
どうやら昨夜彼女が言った「最後に一度だけ」っていうのは、本気のようだ。
どうしたらいいのか考えがまとまらない。そうしている間に、彼女の利用する私鉄の駅はもう目の前だ。信号が青に変わると、彼女は僕の方を少しも顧みることなく、信号を渡った。
なまじっかな言葉では、もう彼女を引き留められないかもしれない。
僕は爽子を愛している。昨晩、九年前のことを不問にすることを決めて、爽子を抱いた。身体の相性が良いこともこうして確認できた。
男子が一生の決断をするのに、もうそれで充分じゃないか。ああ、畜生!恋する男の思考回路ってやつは、なんでこんなに単純で短絡的なのだろう。
「爽子!」
改札に向かうエスカレーターに乗ろうとする彼女を、僕は大きな声で呼び止めた。
「僕と結婚してください!」
五メートルくらい先で、彼女は振り返り、僕を見つめている。日曜日の昼さがりの新宿は行きかう人も多く、何事?と僕たちの周りに人が集まり始めた。
「結婚してください!」と僕は繰り返し、頭を下げ手を伸ばすした。
しばしの沈黙の後、恐る恐る顔を上げると、彼女の唇が「いいの?」と動いた。
爽子は、大きく頷く僕に歩み寄ると、目にいっぱい涙をためながら、僕の手を取った。
「ありがとう、うれしい、こちらこそよろしくお願いします」
周囲を支配していた緊張がふっと解け、パラパラと拍手が沸き起こった。
いつの間にか、僕たちの周りには二十人ほどの人が集まっていた。三人組の女性グループから「おめでとう」と声を掛けられ、男子大学生のグループとはハイタッチを交わした。
爽子の手を取りながら、周囲の人に「お騒がせしました」と頭を下げると再び拍手がわきおこった。
僕に顔を寄せた爽子が目に涙を貯めながら、うれしさと恥ずかしさと困惑がないまぜになった複雑な表情で僕にささやいた。
「これ、どう収拾つけるのよ。こういうことは、二人きりの時に言ってくれないかな」