王子の反抗期かと思いきや、どうやら溺愛の前触れだったようです。
金色の刺繍が施された深紅のカーテンが、夜風に吹かれ微かに動く。豪華絢爛な寝室の中で、私は物語の最後の一文を紡ぎ出した。
「――こうして、王子様は平民だった彼女を娶り、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
話し終えた私は、ベッドに横たわるグレン様に向き直る。
かつては幼さの残る顔立ちだった彼は、今や鋭い知性を湛えた美しい青色の瞳で、まっすぐに私を見つめていた。
その眼差しには、眠気どころか、なぜか今にも怒鳴り出しそうな怒りの色が浮かんでいるように思える。
「……グレン様? このお話はお気に召しませんでしたか? それとも子守歌をうたいましょうか?」
「アイラ、君は……私を何歳だと思っているんだ」
グレン様の声には、いつもの優しさの下に潜む苛立ちが感じられた。私は、あえて軽やかな調子で返す。
「えーと、たしか10歳でしたよね、グレン様」
私が笑ってそう言うと、グレン様は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。その表情に、思わず本心が漏れる。
「ふふっ……そんな怖い顔をなさらないでください。先日18歳になられましたね、グレン様。あんな小さかったグレン様が成人ですものね。アイラは誠に嬉しく思います」
グレン様に仕えてもう十年。彼は麗しい青年へと成長し、一方の私は誰とも結婚をせず、28歳のアラサーと呼ばれる年齢になってしまった。
ふと、ベッドの横の椅子から立ち上がる。部屋の隅に置かれた大きな鏡に映る自分を見つめた。
前世は日本のどこにでもいるような普通の女子高生だった。けれど、不運な事故であっという間に人生が終わってしまい、気づいたらこの世界に赤ん坊として生まれていた。ラッキーだったのはそこそこ名のある貴族の娘だったことだ。
王宮では、小説家になりたかった私のオタク知識と物語の才能が評価され、当時不眠症だった第5王子であるグレン様の『おとぎ話係』として仕えることになった。
毎晩、私はグレンに様々なおとぎ話を聞かせた。『シンデレラ』『眠れる森の美女』『アラジン』……現代日本のオタク知識を総動員して紡ぎ出す物語に、グレン様は目を輝かせて聞き入ってくれた。
――ぼく、アイラが話してくれるお話がだいすき。アイラがいてくれるおかげで、ぐっすり眠れるようになったんだよ。
幼いグレン様の声が、記憶の中で響く。懐かしさに目を細めると同時に、胸をズキリと突き刺す小さなトゲ。
年月と共に大きくなっていく想いと、越えられない身分の壁。
私は今日も、そんな痛みも知らないフリをして、ぱっと笑顔になってグレン様のほうを振り向いた。
「グレン様、覚えておられますか? いつだったか、私がお妃様のご旅行にご一緒して、この城を留守にしたことがありましたよね?」
遠い日の記憶が蘇り、私は思わずくすくすと微笑んだ。
「グレン様ったら、『アイラのお話を聞かなければ寝られない!』とおっしゃって、大泣きしていたとか。三日三晩泣き通して、目を真っ赤に腫らしたグレン様を見た時、私の胸は押し潰されるかと思いましたよ」
グレン様の表情が一瞬こわばるのを見逃さなかった。
「……忘れろ」
その低い声に、かすかな動揺を覚える。
「あら、忘れられませんよ。いつかグレン様がご成婚されたら、可愛らしいグレン様の様子を奥様にお伝えしなければなりませんもの」
突然、グレン様が思わぬ質問を投げかけてきた。
「君は結婚しないのか、アイラ」
心臓が一瞬止まったような気がした。私は平静を装って言葉を返した
「しません。グレン様がなさるまでは」
その言葉を口にした瞬間、胸に鋭い痛みが走った。グレン様が誰かと結婚する姿を想像すると、心臓がズキズキと疼く。
この感情の正体から目を逸らし始めて、もう何年たつのだろう。
沈黙を破るように、私は明るい声で言葉を続けた。
「それに相手もいませんし! 私ほどの高嶺の花はなかなか手が出せないものなんですよ! もういやですね、あっはっは!」
グレン様はただ一言、「……そうか」と呟いた。その声には、何か言いたげな印象を覚える。けれど、彼の本心を探るのはどこか怖かった。
「では灯りを消しますね、グレン様。お眠りになるまで、私はここにおりますので」
夜の仕度を始めようとすると、予想外な返事がグレン様の口から放たれる。
「……いや、かまわない。もう出てってくれ」
「で、でも――」
「おやすみ、アイラ」
グレン様の声は、これ以上の議論を許さない強さを帯びていた。
私は、グレン様の美しく、しかし冷たい横顔を見つめた。長い睫毛が影を落とす瞳は固く閉じられ、その姿は近寄りがたいほどに完璧だった。
いつからか、グレン様は変わってしまった。私の知っていた、あの幼い日の温かな少年の面影は、もうそこにはなかった。
「おやすみなさいませ、グレン様」
できるだけ静かに扉を閉めた。この閉ざされた扉の向こうで、グレン様はいったい何を思っているのだろう。
私の心は言葉にできない感情の海に沈んでいくようだった。
◇
翌日、王宮の壮麗な廊下に陽光が差し込んでいた。黄金の装飾が施された柱が並ぶ中、私はグレン様の姿を見つけ、心臓が高鳴るのを感じながら声をかけた。
「グレン様、今日の議会はいかがでしたか?」
私の声に振り向いたグレン様の瞳は、昨夜の冷たさをそのままに凍てついていた。その視線に、思わず息を呑む。
「……別に。いつも通りだ」
そっけない一言と共に、グレン様は私の前から立ち去ってしまった。その背中は逞しく、かつて私が知っていた幼い少年の面影はもはやどこにも見当たらなかった。廊下に響く彼の足音が、私との距離を刻一刻と広げていく。
私は、遠ざかっていくグレン様の姿を見つめながら、彼の日々の様子を思い返していた。
公務に励み、勉学も剣の稽古も欠かさない。誰もが彼を尊敬し、彼からの寵愛を求めている。そんな彼の姿は、まさに理想の王子そのものだ。
(……18歳だものね)
私は心の中でつぶやいた。
(遅れてきた反抗期ってやつなのかな。成長の証じゃない、アイラ。……喜ばなければ――)
複雑な思いが胸の内で渦巻いている。それでも、私は苦笑いをこぼさずにはいられなかった。グレン様の奥底に秘められた優しさを、私は知っている。たとえ今は、その優しさを私に向けてくれなくなったとしても。
陽光に照らされた廊下に一人佇みながら、私は深い溜息をついた。
グレン様との距離は、日に日に広がっているように感じる。
それでも、私の心の中で彼への想いは日々大きくなっているのだ。その矛盾に苦しみながらも、私は自分の立場を思い出し、感情を抑え込んだ。
(私は、グレン様の側近であり、世話係に過ぎない)
(だけど、グレン様の幸せを思う気持ちだけは、この世の誰にも負けない)
そう自分に言い聞かせながら、しゃんと背筋を伸ばした。
彼への思いがあるからこそ、一秒一秒大切に生きると誓ったのだ。
◇
月光が銀色に輝く、静かな夜。
城の豪奢なテラスに、私とグレン様の姿があった。大理石の手すりに月の光が煌めき、遠くに広がる王国の夜景が、まるで宝石をちりばめたように輝いていた。
先ほど、グレン様に呼び出されたのだ。
「アイラ、君に大事な話がある」
グレン様の声が、夜の静けさを破った。その瞳には、いつもの冷たさではなく、何か激しい感情が渦巻いているように見えた。
私の心臓が早鐘を打ち始める。
(ついにこの時が来たのだ)
「もう、私にはアイラの寝かしつけは必要ない」そう言われるのを心のどこかで恐れ、そしてずっと待っていた。グレン様は立派な大人になった。私から卒業し、もっと広い世界を見なければならない。
私は覚悟を決め、ぎゅっとドレスの端を握る。
「はい、グレン様」
精一杯の笑顔を浮かべて、私はグレン様を見つめた。せめて最後は、良い思い出として彼の記憶に残りたかった。
しかし、グレン様の表情は予想外なものだった。緊張した面持ちで、彼は私の目をまっすぐ見つめ返してきた。そして、思いもよらない言葉が紡がれた。
「……君が好きだ。幼い頃から、ずっと」
その言葉に、私の世界が揺らいだ。耳を疑い、思わず目を見開く。
「……グレン様にしてはずいぶんとおもしろくない冗談を、おっしゃいますね」
ぽかんとして言った私の言葉に、グレン様の顔が真剣さを増した。
「冗談ではない! 先に言っておくが、熱が出たのではない! 病気でもない! 私は本気だ、アイラ!」
グレン様の声には、これまで聞いたことのない切実さがあった。こんなに必死なグレン様を未だかつて見たことがない。
「君を見ていると、いつもうまく言葉にできないんだ……! 今まで、素っ気ない態度ばかりとって、本当にすまなかった」
(え? 反抗期じゃなかったの? 冷たい態度の理由が、まさかそんな……)
私の中で、これまでの疑問が一気に氷解していく。そして、グレン様の次の言葉が、私の心にとどめを刺しにくる。
「君が好きなんだ。私と結婚してくれ、アイラ」
頬が瞬く間に真っ赤に染まった。
月明かりの下、グレン様の真摯な眼差しに射抜かれ、心臓が激しく揺れ動いている。
長年抑え込んできた想いが、堰を切ったように溢れ出そうとしている。私は慌てて、言葉を発した。
「グ、グレン様、き、気持ちは嬉しいのですが、そのようなことは……私には分不相応です! おっ、お、おおお王子様と私では身分が違いすぎますし、それに――」
慌てて言い訳を並べる私に、グレン様は優しく微笑んだ。
「君が教えてくれた物語を忘れたのか?」
「……え!?」
「私がいくつ君から身分を越えた恋を教えてもらったと思う。そいつらがハッピーエンドを掴めて、私たちが掴めないはずがない」
グレン様はこんなに大人っぽい笑い方をするお方だっただろうか。ありえないほどの色気を彼から感じて、頭がクラクラする。
「今日は私が寝台の上で、君に愛の物語を聞かせるとしよう」
グレン様はいったいどうなさったのか。そんなわけがない。無理。え、マジで無理。
「十年間も蓄積された私と君の物語だ。一夜で終われるはずがないがな」
グレン様が一歩近づき、私の耳元でささやく。
「今から君を抱き寄せることを許してくれ」
「グ、グレン様……!?」
壊れ物を扱うようにそっと腰を引き寄せられ、私の心臓はもはや瀕死の状態だった。
もう訳がわからない。
「ああ、君の匂いだ。この匂いを寝室で嗅ぐたび、私の理性はいつも飛び立ってしまう寸前だった」
「……な、何をおっしゃって!? わ、私のかわいいグレン様はいったいどこにおられるのですか!? 私の話をおもしろいと聞いてくださった彼は、い、いったいどこに――!?」
「ばかなことを。……ここにいるだろう、アイラ。ずっとここにいる。……君も、そして君の紡ぐ物語も心から愛している」
「…………その言葉は、さすがにずるいくないですか、グレン様」
まるで息ができない。彼の幸せを願って身を引こうとする自分と、傲慢にも私も好きだと伝えてしまいたい気持ちがせめぎ合っている。
グレン様は何がおかしいのか、けらけらと笑って言った。
「君のその顔を見れば、どうやら脈がありそうだが、……アイラ、君からはっきりと答えを聞かせてくれないか」
グレン様は信じられないほど魅力的な笑みを浮かべて言った。指先が震える。こんなことがありえるなんて――。
私は唇を開き、彼の目を見つめた。どうやら、もう逃げ場はなさそうだ。
「君にひとつだけ忠告をする、アイラ。もしも私を断ったら、三日三晩泣き叫んで君を困らせるつもりだ」
おわり