泉
温かい。どこか落ち着くような、落ち着かないような、奇妙な心地良さを感じる。ずっとこのまま目を閉じていたい。
こんな感情に相反するように、頭のどこかで警鐘が鳴る。ここにいてはいけない。
(……大樹に招かれた時みたいだ)
あの時はただひたすらに惹かれていたが、今はきちんと自分の意思で動くことができる。さっきまでの誘惑を振り払って、目を開けた。
そこに広がっていたのは、なにもない、透明な空間だった。
下を見ると、どこまでも深い、底の見えない水。その上に、天は立っていた。
それどころか、見渡す限り水が広がっている。息をする度に、気泡が浮かぶ。
上を見れば、十メートル程先の水面が光に当たって輝くのが見えた。ということは、そこまで深くにいるわけでは無さそうだ。
天はそう当たりをつけて、一度ジャンプをしてみた。水中にいるのなら、と少し期待したが、結果は地上にいる時と変わらなかった。
水が纏わりつく感じもなく、ただ水の中に立っているだけのようだ。
上へ出られないのなら、出口を探さなくては。
天が一歩踏み出すと、足元で水飛沫が飛んだ。水中なのにも関わらず、だ。
(本当に不思議な場所ですね)
代わり映えの無い景色をひたすら眺めながら歩き続ける。少しの変化も見逃さないように、と気を張ってはいるが、本当になにもないのでだんだん飽きてくる。
ここにリアがいたら。思わずそう考えてしまった。もし彼女がここを見たら、何にもないね、なんて笑うだろうか。こんな場所を知っていて、出口までつれていってくれるかもしれない。一緒に悩んで、なんなら無理やりここから脱出するかも。
(……なんて、こんなことを考えていても無意味なんですがね)
自嘲気味に笑って、また意識を景色に戻す。こんな下らない想像で、少しは気も晴れた。
ただひたすらに透明。どこまでも見える筈なのに、ある程度まで行くと何も見えなくなる。
時折、笑い声が聞こえることがある。奇妙に反響して耳に届くせいで、何処から聞こえているのかが分からない。
「誰か、居るんですか」
問いかけても、それに言葉を返すものはなかった。その代わり、小さな貝殻が敷き詰められた道が天の目の前に現れた。
真っ白の中、ところどころに桜色や緑色が混ざっている。先は見えなかったが、なぜだかこの道を行けば辿り着く、という確信があった。
一体どこへ辿り着くというのか。何も分からなかったが、取り敢えずその道の上を歩いてみることにした。
踏む度にキシキシと音が鳴る。幅一メートルもないほどの細い道から外れないように、慎重に足を進めた。
真っ直ぐ延びているようで、少しずつ曲がりながら下へ繋がっている。
真っ白な地面だけを見て歩いていた天が、ふと顔を上げた。
いつの間にか、透明だった空間は真っ暗に変わっている。奥の方に、微かに景色が揺らめいた。
知っているような、知らないような、知りたいような、知りたくないような。そんな奇妙な感覚に取りつかれ、天は足を止めていた。
目が離せない。あちら側に行きたくて、思わず道を踏み外しそうになる。
途端、足元で敷き詰められていた貝殻ががらりと崩れるのを見て、ぞっとした。
すぐに踏み出しかけた足を引っ込める。
頭を振って、前を向いて歩くのを再開した。
なるべく周りを見ないようにするが、あの一瞬で焼き付いた景色はなかなか離れてくれなかった。
そのうち、景色がどんどん近付いてくる。それに伴って、ぼんやりと見えたものがはっきり、鮮明になっていった。
それは森であったり、花畑であったり、あるいは荒野であったりした。
光の届かない深海、廃墟郡、明るい大都市……あらゆる景色が目に飛び込んできて、頭が痛くなる。
見てはいけない、と思うのに視線が固定されてしまって、外せない。
目に何かが入る度に頭痛が増す。だんだんと視界がチカチカしてきた。
笑い声が聞こえた。直ぐ近くのような気もするし、遠い場所から聞こえるような気もする。
頭痛のせいで何も考えられない。少しずつ笑い声が大きくなっていく。
逃げなくては。そう思っていても、まるで縫い付けられたように体が動かない。
焦っていると、ふと天の体が傾いた。直後に感じる浮遊感。
その時に彼の目が捉えたのは、崩れゆく白い道と、強い光。
落ちている、と気付いた時にはもう闇の中に沈んでいた。




