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さなぎと猫

作者: ヌー

 窓ガラスに打ち付けられる雨音で目が覚めた。

 テレビの砂嵐みたいな音が朦朧とした頭に響いている。


 重い瞼を何とか押し上げて枕元に置いてあるプラスチックの目覚まし時計を見る。7時40分。


 ああ、今日も遅刻ぎりぎりか。

 時計のアラームが使えたらいいんだけれど、隣の布団でお母さんが寝ているから駄目だ。

 だから私はまだこの時計がどんな音を立てるのか知らない。

 どうせ嫌な音なんだろうけど。


 7時41分。デジタル上で数字が0からの1へ変わるのを待ってから、私はそっと体を起こした。



 雨脚は思ったよりも激しい。

 窓の外を見ているだけで湿ったコンクリートのにおいがこちらまで漂ってきそう。


 私は急いで着替えを済ませ、水垢で汚れた洗面台へと向かう。

 冷水で顔をジャバジャバ洗って前を向くと鏡に映った自分と目が合う。

 この顔が私の一部だなんて未だに信じたくない。

 悪趣味なつめたい仮面のよう。

 外せたらとっくに外してる。


 おまけに、強情な髪の毛が幾重にもアーチを描いてひどい寝癖ができていた。

 パサパサの髪を何度も櫛でとかす。

 今日は一段と手ごわい。

 クラスの誰かが言っていた、「タワシみたい」ってのはなかなか的を得ていると思う。

 水で濡らして押さえつけてもペコっと元通りになる。

 もう、いいや。

 半ばやけくそになって、このまま学校へ向かおうとしたけれど、握りしめた櫛は手放せなかった。

 今日も遅刻だ。



 寝癖と格闘していると後ろのほうでチンッ、と軽快な音が鳴る。

 セットしておいた食パンが焼けたみたいだ。


 毎朝毎朝、あの甲高い音が鳴るたびに心臓がちくっと痛む。 

 お願いだからお母さんが目を覚ましませんように、って祈らなければいけない。


 だから前夜に機嫌が悪かった日は、食パンは食べない。

 リスクが大きすぎるから。

 そういう日はいちごジャムを1口だけ食べていく。


 今日は時間がないのでジャムは付けずにそのままパンに齧りついた。


 少し焦げ目のついた食パンは、2、3回使った雑巾みたいな味がする。

 水で無理やり流し込んでから、重たい学生かばんを背負う。

 いつも通りの陰鬱な朝だった。




 軋む玄関ドアをゆっくり押して開くと、湿った雨のにおいが風に混ざってふわっと漂ってきた。


 嫌いじゃない匂いだ。

 降りしきる雨も全然嫌じゃない。

 むしろ雨の中にいると包まれているような安心感があって落ち着ける。

 私は中棒の錆びた傘を持ち、行ってきます、と誰に聞こえるわけでもないのに呟いて外に出た。




 ぐちゃ、ぐちゃと運動靴が音を立てる。

 頭の上ではビニール傘が水滴をはじいてパラパラ鳴っている。


 靴の側面はすでに泥にまみれて、白い靴下にも点々と飛び散っていた。

 気を付けて歩いたつもりだったんだけどなあ。帰りに公園の水道に寄らないとダメそうだ。



「こんな道通るからいけないんだよ」と、彼女は言った。

 そう、私は舗装された道じゃなくてぬかるんだあぜ道をわざわざ歩いている。

 両脇に広がる田園の稲穂は、雨のせいでいつもよりも黒ずみ、重たげな穂を抱えてうずくまっている。


「だって通らないと遅刻しちゃうじゃん」

 私は歩きながら言い返した。学校までは2キロほどあって、この道を使うと5分くらい早く着く。


「それはそうだけど汚い靴下見られるほうが嫌じゃない?」

 確かに。靴下の替えを持ってくればよかったといまさら後悔した。


「でも、いいんだぁ。私、この道嫌いじゃないもん」

「ふーん、ならいいけど」

冷たい口調で彼女はそう言ったけれど、本当は彼女もこの道が好きなことを知っているから全然嫌な気持ちにはならなかった。


 一人でいるときはちょくちょくこんな具合に頭の中で一人二役を演じる。

 演じるというと語弊があるかもしれない。

 どちらかというと無意識のうちに会話している。

 幼少期からの癖みたいなもので最近まで他の人も当たり前のようにやっているとばかり思っていた。

 きっと他の人には話し相手がいたからこんなことする必要がないんだと思う。


 最近、時々考える。

 私が演じる「彼女」がいなくなってしまったらすごくすごくつらいだろうな、って。

 そんな孤独は耐えられない気がする。

 それくらい切っても切れない関係だ。

 だって私たちはずっと一緒だったもんね。

 それこそ家族なんかよりも、ずっとずっと。


 ……嫌だなあ。ちょっと涙が滲んできた。

 こんなんじゃ、また彼女に笑われてしまう。



 上を向くとビニール傘を透かして粘土のようにどんよりとした暗雲がぎっちりと空を覆っているのが見えた。

 幾ばくか背が縮んでしまったような気がする。


「田舎育ちの私にはコンクリートの道よりこっちのほうがいい。なんか…歩いているって気がする」と、私が言うと


「なにそれ」と彼女は笑った。


「それにこの道なら人と会わなくて済むから……」

 風に吹かれてさわさわと稲穂が揺れる。

 夏だというのに今日はちょっと寒い。


「あのね、いつか…いつか裸足で泥の中を駆け回りたいんだぁ。思いっきり走って走って転んで転んで、何も考えないで自由になりたい」

「いいじゃん」

彼女はそう言った後、いたずらっぽく「今やっちゃう?」と聞いてきた。


「バカじゃないの。やるわけないでしょ」

「なんだ、残念」

でも、いつかきっとやってみせるよ、と私は心の中でつぶやいた。




 あぜ道から抜け、普通の歩道を歩く。

 所々にできた水たまりで靴に付着した泥をできるだけ落とそうとしたけれど、おかげで靴下がひどく濡れる羽目になった。

 歩くたびに靴下が呼吸するように水を吸ったり吐いたりしていて、ぐちゅぐちゅと不快な感触がする。

 ひき肉を踏んだらきっとこんな感じだ。


 ふと顔を上げると前方に、クラスメイトの志保が歩いているのが見えた。

 傘の中からロングの黒髪が垂れている。


 中学二年になったとき、クラス替えが行われそこで一人も友達がいなかったのは志保と私だけだった。

 だから自然と一緒にいることが多い。

 けれど、正直言ってお互いがお互いの孤独を紛らわせるための単なる道具に思えてならない。

 「志保さんは友達ですか?」って聞かれたら素直に、「はい、そうです」って言える自信がなかった。


 笑った顔が浮かばない。

 以前にふと気が付いたことだ。

 その日から志保が笑った回数を数えている。

 今のとこ0回だ。

 本当の笑顔を見れたのは。


 志保が振り向かないよう祈りながら、バレない距離になるまで歩を緩めた。

 もうすぐ私の学校が見えてくる。



 校門前の交差点には蜂の巣みたいにカラフルな傘が所狭しと並んでいる。


 どうしてかわからないけど、祖父の葬式を思い出していた。


 あの日もこんな雨降りだった。

 車から傘をさして降りてくる知らない大人たちの口元のシワや土色のシミを思い浮かべていた。

 男子が来ている制服が喪服と重なって見えたからかもしれない。

 そんな取り留めのないことを考えていたら既に信号が青へと変わっていた。


 2年生の下駄箱からは使い古した雑巾のようなにおいがする。

 私はぐっしょりと濡れた靴下のまま上履きに足を入れる。

 廊下を歩いていると、今日も学校に着いてしまった、そんな実感がじわじわと沸いてきた。




 教室の中は、お世辞にも暖かいとは言えず、がっかりした。

 心なしかクラスがいつもより静かだ。

 蛍光灯には既に明かりが灯っている。

 それでも暗い。

 魚が死んで何も蠢くことのない濁った水槽。そんなイメージが頭をよぎった。


 水流ができないように気を付けて、窓際の自分の席へと歩み寄り、腰を下ろす。


 粗雑な木製の椅子は、私を拒むようにひんやりと冷たく、無性に帰りたくなった。

 でも、どこへ行ったらいいのだろう。

 家には帰りたくない。

 かといって学校にもいたくない。

 帰りたくなるどこかが私にはない。




 チャイムが鳴って授業が始まる。

 こんな朝っぱらから道徳の授業だなんて、やってらんない。


 先生がおもむろに「10年後の自分へ」と黒板に書いて、私たちの方へと向き直る。


「はい、今日は10年後の自分へ宛てた手紙を書いてもらいます。10年後って言ったらみんなは23歳ぐらいかな。だよね? えー、社会人になっている人も、大学生の人もいると思います。そんな未来の自分を想像して、書いてみましょう」

 にわかに騒々しくなった教室の中で、私は気だるくて頭の消しゴムが取れたシャーペンを持つ気にもならなかった。

 そういえば、このシャーペン、志保に買い替えなよって先週言われたんだっけ。

 消しゴムがないせいでシャー芯1本しか入れられないし、結構使ってきたから汚れてる。

 でも、いいや。どうせ誰も気にしないし。


 私が消しゴムを親指で擦って消しカスを量産している間に、手紙を書き終えた生徒がちらほらでてきた。

 対して、こちらは名前すら書いていない白紙。

 名文でも染み出てこないかなぁと白紙を凝視しながらぼんやり思う。

 しょうがない。

 宿題にはしたくないからしぶしぶシャーペンを握る。


 えーっと。拝啓、10年後の私へ。

 お元気ですか。

 私は元気です。

 学校生活はまあまあです。

 憧れの一人暮らしは大変ですか? 

 あなたに会うのはちょっと怖いけれど、もし会えたならいろんなことを話したいです。

 最後に、夢を叶えて幸せになっていたらうれしいです。


 だめだめ、こんなイタイ文章は書かない。なに夢って。そんなもん、ないじゃん。

 でもさ、10年後の自分が今の私のことをはるか彼方に忘れ去って、平気で笑っていたら私は私を許せない気がしてる。

 だから、最後の文を書き直してっと。


 最後に、大人になっても憂鬱のぬくもりと今の私のことをどうか忘れずに、そして健康に生き抜いていてください。


 よし、終わり。でも、これはこれでイタイ文になってしまった。

 残り時間で適当に私は書き直して、適当な文を作る。

 私の顔のような文章を作る。


 授業はあと30分。時計の針はいつ見ても重たげです。敬具。



 三時間目は大嫌いな体育だ。

 雨は止んだけれど、巨大な水たまりが校庭に幾つもできていたから、予定されてたソフトボールはバスケに変更された。

 わかっていたことだけど、いざ先生の口から告げられるとひどくがっかりした。

 運動は得意じゃない。あまり動かずに済むソフトボールのほうがまだ…マシだった。



 ああ、観戦だけしていたい。けれどそういうわけにはいかない。仮病を装うほど私の肝は据わってない。

 仕方なく、汗臭い赤色のビブスを被る。


 スポーツの最中でもクラスの権力は健在だ。

 ことに女子においてはより顕著かもしれない。

 だからできるだけ目立つことは控えたかった。それなのに……。



 試合中、回っていたボールを抱え、さながら老婆のようにぎこちなくドリブルする。

 やばい。目の前に相手が現れて足が止まった。

 これ以上動いたらトラベリングだ。

 慌てて辺りを見渡すと、絶好の位置に仲間を見つけた。

 ボブヘアの女の子。

 ボブは女子の中ではボス猿だ。


 何とかパスを出したいけど、目の前の相手は運動部で容易にそれを許してくれない。

 やばい。長いことボールを持ちすぎている気がする。


 早くボールを離したい、その一心で無理やりパスした。

 ボールはボブには届かず、ラインを割って壁に当たって転がった。

 そのとき、侮蔑のこもった冷ややかな視線がこちらに飛んできたような気がした。


 いや、絶対私のこと睨んでた。

 ボブはすぐに守備へと切り替えていたけれど、私はそれだけで気力がごっそりと削られてしまってボールを追う気にはとてもなれなかった。


 たったそれだけのこと。

 それだけのことで私は動けなくなってしまう。

 私ってこんなに弱かったんだ。

 今になって、思い出した。



 試合が終わってチームが入れ替わる。


 私は体育館の片隅で次の試合を待った。

 ボールが床を打つたびにお尻に振動が伝わってくる。

 体育館シューズが擦れる音と甲高い掛け声が忙しなく飛び交っている。


 試合に臨んでいる人達は熱中という言葉がいかにも似合った。

 むんむんとした熱気がこちらまで届いてくる。

 気持ちよさそうな汗が頬を伝って、床に落ちるのが見えた。


 羨ましい。


 実は私も一度、運動部に入ってみようと思ったことがある。

 一人では心細かったので、志保も誘ってみると「遠慮しとく。てか、ミサキってそういうタイプだっけ?」と断られてしまった。


――そういうタイプだっけ?

 嫌な言葉。今でも覚えている。そして結局、部活には入らずじまいだ。



 ポニーテールの女子が3ポイントシュートを決めた。

 仲のいい女子たちとハイタッチを交わしている。

 あの輪に入れたら笑えるだろうか、幸せだろうか。

 きっと答えはノー。

 ぎこちなく下を向いて笑う私しか想像できない。

 どこで間違いを犯したのだろう。

 待って、私が何か過ちを犯したの? 

 私が悪かったの? 

 彼女は答えてはくれない。



 またしてもさっきの子が華麗にレイアップシュートを決める。

 そうだった、彼女はバスケ部だった。

 どうりでうまいわけだ。


 リングのネットを揺らしたバスケットボールが床に着地してバウンドする。

 いち、に、さん。ショートヘアの女子がすばやく拾い上げ、ゲームが再開される。



 どうしたら幸せになれるのだろうか。

 自分から動かなければ現状を変えることはできないってことはわかってる。

 なら、どう動けばいい?

 私はどうしたい?

 私にもいつの日か笑える時が来るんだろうか。

 やっぱり彼女は答えてくれない。

 もうすぐスポーツタイマーの赤い数字が0になってしまう。

 このままずっと試合終了のブザーが鳴り響くことがなければいいのに。




 昼休みは大抵、志保と過ごす。

 取り留めのない話はすぐに途切れる。

 他人の笑い声ばかりが耳につく。


 何か共通の話題でも、と思ってはみるも一つも見つけられない。

 そもそも私の関心は一体何に惹かれるのか、自分でもわかっていないのだからしょうがない。

 この退屈な20分間をこうも毎日送るのは何とも歯がゆいものがあった。

 それに志保と一緒にいるところをあまり見られたくない。

 志保は私から見てもちょっときついところがある。


 「サイテイだね」

自分が抱いた思いの醜悪さに呆れる。

 私はすぐに自分自身へ弁解を試みた。

 誰かに見下されるのが怖かっただけなんだ、と。

 いつからだろうか、言い訳することが癖になっていたのは。だけどせずにはいられなかった。


「自分は見下しているくせに」

私を咎める彼女の声が大きくなった。

 彼女は時としてすごく厳しくなる。


 誰かに自分のカタチを決めつけられるのが怖かったから。


「へぇ、自分からは何も行動しないくせに」


 嫌われるのがどうしようもなく怖かったから。


「あんたってホントにヨワイね」


 違うよ。私は世の中の醜さを知っているから。

 散々、心に叩き込まれたから。

 骨の髄までしみ込んでしまったから。

 だから、だからしょうがないじゃん!




 帰り道で白い猫の死骸を見た。

 車に轢かれたんだろう、お腹の周りの体毛が赤黒く染まっていて、道路にまで侵食している。

 嫌なものを見てしまった。


 私はすぐそこの道を左に曲がって迂回することにした。近寄りたくなかった。


 曲がる直前、死骸の前で立ち止まっていた男子二人組が「すっげぇ」だとか「初めて見た」だとか少し興奮した声で話しているのが聞こえてきた。

 あいつらの前で死ぬのだけはごめんだ。




 家に帰り、公園で洗ってきた靴を干す。

 嫌いな制服を脱いで敷きっぱなしの布団に横たわる。


「おつかれさま」

手に持ったぬいぐるみを顔の前に持ってきて、腹話術人形みたいに動かす。


 お母さんは帰りが遅いから家には誰もいない。一日で一番落ち着ける時間だ。


 耳を澄ますと居間の時計が規則的に時を刻む音だけが聞こえる。

 あとは近所の公園で遊ぶ子供たちの楽しげな笑い声ぐらい。


 思いっきり、はああと息を吐きだして目をつぶる。

 誰もいないこの空間に私は溶け込んで湿っぽい空気の一部になる。

 体の各部位のスイッチを順番に切っていくイメージ。

 右足、左足、腕、胴体、そして頭。

 電気が消され、真っ暗になった頭の中は取り留めもなくいろんな物や場面がぼんやりと迫ってくる。


 虫かごの中のカマキリとか体育の時のボブの目つきとか壊れたシャーペンとか、次々に現れる。

 いずれ必ず消えるから私は流れに逆らわないでただぼーっと眺める。


 でも不思議なことに、私の姿が浮かび上がることはない。

 仮に私が今まで見てきたものが現れるのだとしたら、毎日鏡で見ている自分が出てきてもおかしくないはずなのに。

 そんなことを考えていたらいつの間にか眠りに落ちた。



 次の日の登校中に子猫を見つけた。

 田舎道に建てられた小さな資材置き場の屋根の下に座っていた。


 周りに母猫らしき姿はない。

 目をぎゅっとすぼめて口を開けて鳴こうとしていたが、声が出ないらしい。


 近づいてみると、子猫はやせ細り、汚れていたけれど、その下には真っ白い毛並みが美しく生えそろっている事がうかがえた。


 もしかすると……。

 昨日の下校中の光景がフラッシュバックした。

 道路に横たわっている白い猫。

 不自然な向きの後ろ足。

 閉じた瞼。

 雨と混じる濁った血。


 あの猫の子供なのかもしれない。

 私はしゃがみ込んで、その小さな体をそっと撫でた。

 思えば初めての経験だった。

 こうして温かいものに触れるのは。


 子猫の肌と骨格と温みが手のひらから伝わってきた時、私は同時に自分を感じた。

 それは閃光のように頭の中を駆け抜けていった。

 いつも人と接するときに現れる偽りのカタチではなく、私の純粋な心の形が垣間見れたような気がした。


 黒い眼が私を見つめている。その中に乏しい炎のような命の揺らぎが一瞬映る。

 そのとき私の頭に雨が降り注いできて、はっと我に返った。

 どうやら傘を手放してしまったらしい。

 私は急いで傘を拾い上げ、学校へと向かった。後ろは振り返らなかった。




「ミサキ、ミサキってば」

志保が私の二の腕を揺する。頭の中に描いていた子猫がサッと煙のように消える。

 気づけばクラス中の視線が私に注がれていた。


「この問題わかるかな?」

四角い眼鏡をかけた初老の数学教師がじっと私を見つめながら言った。

 気が動転していて頭にまったく内容が入ってこない。

「わ、わからないです」

「そっか、じゃあ…次はSさん」

「―です」

「正解。これは――」


 しばらく経った後でもまだ心臓がバクバクしている。

 こんな失態を犯すなんて初めてだ。

 止まらない冷や汗を拭うことでさえ手が震えて時間がかかった。

 こわい。こわいこわいこわい。

 どう思われただろうか。

 間抜けなやつというレッテルが貼られてしまっただろうか。

 もう忘れてくれただろうか。


 他人はさなぎみたいだ。

 どろどろとした得体のしれないモノがその皮の下で不気味に蠢いている。

 こわいよ。



 異様に長かった授業が終わり、やっと少しだけ肩の力が抜けた。

 気晴らしにノートに猫の絵を描いてみる。

 へんてこな顔をしたネコもどきができた。

 意外とかわいかったので消さずに残しておくことにする。


 雨は上がって少しだけ青空が顔を出している。

 結局、その日の授業は先ほどの光景が何度もフラッシュバックして手につかなかった。




 帰り道を歩いていると、朝と同じ場所にまだ子猫が座り込んでいた。

 ほっと胸をなでおろす。

 いなかったら子猫の影がシミのようにこの先も胸の中に残り続けたことだろう。

 ちょっと待っててね、と言って足早に帰宅した。



 すかすかの冷蔵庫から牛乳を取り出して一応賞味期限を確認する。

 よし、切れていない。

 青色のお皿に移し、電子レンジで軽く温める。

 それと、それと…そうだ。食パンも持っていこう。



 私が持ってきたミルクを子猫は必死で舐めた。

 手でちぎった食パンを牛乳に浸してあげると、鼻をヒクヒクさせてからおいしそうに食べ始めた。

 私も一緒に余ったパンを口に入れる。

 あんまりおいしくなかったけれど、うん…よかった。


 そんな子猫の姿を眺めていると、自分の身体の内側からじんわりと得体の知れないものが広がっていくのを感じた。

 自分でも気が付かないうちにぬるい涙が頬を伝っていた。

 長いこと探していたものをやっと見つけられたような気がした。


 夕陽が山の先端にかかり始めたころ、私は子猫を一度撫でて、空になったお皿を持ち上げ、家に向かった。

 気配を感じて立ち止まると、真っすぐに伸びた私の影の横にちょこんと小さな影がある。

 どうやらついてきているようだ。しばらく歩けばどこかへ立ち去ると思ったけれど、子猫はまったく私から離れようとしなかった。


 何度振り返っても後ろにはひょこひょこ歩く、小さな白い姿があった。

 子猫が時折にゃーと鳴く。そのたびに歩を緩める。

 そんな具合で進んでいたからもうとっくに陽が暮れていた。

 やばい、このまま連れて帰ったらきっとまずいことになる、そうわかっていたけれど家路についている間、私の頬はずっと緩みっぱなしだった。

 すれ違う人の視線がこの時ばかりは苦にならなかった。




 9時を回って母が帰宅した。

 居間に入るや否や、母の視線はちょこんと座る子猫に注がれた。


「なに連れてきてるの」

腫物を見るような目つきをしながら母は言った。耳が痛くなるような声だった。


「ついてきちゃって」

「どうせ餌でもやったんでしょ」

私は小さく頷いた。それが私にできる精いっぱいだった。


「頼むから面倒ごとは増やさないで」

私は俯いた姿勢のまま顔を上げることができないでいた。

 胸の痛みが鼓動のたびに増していく。

 当然、飼っていいかなんて聞けなかった。聞けるはずなかった。


 子猫を優しく抱き上げて仄暗い外に持っていく。

 腕の中から聞こえる弱弱しい鳴き声が私の胸をえぐってぎゅっと潰した。



 ドアを閉めた後も子猫はずっと玄関の前で懸命に鳴いていた。

 私は苦しくてたまらなくて、冷えた涙をぬぐいながらその場を離れた。


 嗚咽のような苦痛が波のように打ち寄せる。

 食事の時もお風呂の中にいても弱弱しい鳴き声が耳から離れてくれなかった。

 幻聴かもしれないし、本当に鳴き続けていたのかもしれない。

 耳を塞いでも聞こえてきたからおそらく前者だろう。

 …そうであってほしい。

 お願いだから私のことを一刻も早く忘れてほしい。



 布団に潜り込んだ私の耳にザァーという雨音が絶え間なく入り込んでくる。

 雨樋を流れる水がぼこぼこ鳴っている。

 さなぎのように縮こまった私の頭上はすぐ壁だ。だから外の音がよく聞こえた。


 ウトウトし始め、夢と現実を行き来していたそんな時、雨音に混じって小さな小さな鳴き声がした。

 刹那、ずぶ濡れの子猫の姿が私の脳裏をよぎって、火傷のように焦げ付き、いつまでもいつまでも離れなかった。



 朝起きて寝間着姿のまま家を出た時には既に雨は止んでいた。

 子猫の影はどこにも見当たらない。


 細い路地、家の影、昨日座っていた屋根の下、いくら目を凝らして探し回っても見つけられない。

 とぼとぼと家に戻ってきたとき、家の駐車場の一部分、ちょうど壁一枚を隔てて寝室があるところだけが不自然に乾いていたのが目に映った。

 沈んだ色のコンクリートの中に、そこだけ大海原に浮かぶ無人島のように濡れていない部分が浮き上がっている。

 それは間違いなくあの子猫が残した跡だった。



 私はそのまま駆け出した。

 恰好なんて気にせず駆け出した。

 子猫を見つけるためじゃない。

 私にはもう二度とあの子猫に会うことができないことがわかっていたから。


 どこに向かおうかなんて考えていない。

 とにかく人が少ないほうを目指した。

 学校のマラソン大会でもこんなに本気で走ったことはない。

 何度も息が切れ、足が止まりそうになったけれど、どんなに遅くとも私は進むことをやめなかった。


 途中で雨が降り出し、火照った私の体を冷やしてくれた。


 ここがどこなのか、もうわからない。

 大きく、つるつるとした真っ赤な鳥居を通り過ぎ、ぼろぼろの色褪せた選挙ポスターの横を進む。

 何時なのかもわからないし、頬を伝っているのは涙なのか雨なのかもわからない。

 すれ違う人もいない。

 ただ定期的に切り替わる、ぼやけた信号の灯りだけが見える。

 青色、黄色、赤色。青いろ、きいろ、あかいろ……。



 私は歩き続けている。

 もう走る気力は残っていないし、ぐるぐる回っているような気もする。

 でも、やっぱり足は止めない。


 やがて、登下校の時に歩く道に似た田園風景が見え始めた。

 似ているけれど、全然違う。

 この道の先はずっと奥まで続いていて、向こうにそびえる山の入り口に行きつく。

 雨は依然降ったままで水をたらふく含んだパジャマが肌に張り付いている。


 私はようやく歩みを止めて体が風船みたいに浮かび上がるくらい息を吸い込んだ。

 じっとりとしたどこか青臭い空気が私を満たす。


 おでこにぴったりと張り付いた前髪をかき分け、履いていた運動靴をそっと脱ぎ捨てる。

 靴下は履いていない。

 足の裏にぬちゃっとした泥の感触がゆっくり伝わってくる。

 思いのほか冷たい泥。

 幸い、あまり使われていない道らしく泥は柔らかい。


 私の青白い足はふやけて、小指の側面にできた白っぽいマメは潰れていた。

 下を向いたままじっとしていると目頭がだんだん熱を帯びてきた。

 ごまかすように足の指をグーパーグーパーして泥になじませた。

 指の間からところてんを押し出すときみたいに泥がせりあがってくる。

 心地いい。

 そのまま泥を蹴って、いちにのさんで駆ける。

 自分の皮膚が裂けるくらい前へ前へ進む。そしたらどこかへ行ける気がする。

 だけど、すぐに限界が来て泥の中へ仰向けに倒れ込んだ。


 あはは、泥まみれになっちゃった。


 潤んだ視界から見える灰色の空はいつもとちょっとだけ違う気がする。

 手を伸ばせば届きそうとまではいかないけど、近くにある気がする。


 今この瞬間の気持ち。

 誰もが抱えているけど、外に出すことはない馬鹿げたこの気持ち。

 子供っぽくて、浅はかで一見無意味に思える気持ち。

 思い返すと恥ずかしくなる、いじらしいこの気持ちを、心の膜で包んで大事に保管したい。

 思い返せばいつでも触れられる場所で厳重に。


 ふと大声で叫びたくなって大きく息を吸ったけれど、何も言葉が浮かんでこなくて半開きの口のまましばらく硬直していた。

 打ち付ける雨が口の中に入ってくる。


 緩慢に瞼を閉じて、家でやるときみたいに体の電気を消していく。

 ぱちっ、ぱちっと。足の指から。

 そうして、ようやく寒さをじんわりと感じ始める。


 私は深く思う。

 身もだえするくらい幼稚で、弱弱しくて、みんなの鼻つまみ者の私がイイ。

 泥にまみれた姿が似合う、自己憐憫に溺れる痛々しい私がイイって。

 ほら、笑いなよ。あなたがきっと正しいんだから。

 だからさ、10年後もきっと忘れないように。今は、そう、おもいっきり。


読んで頂きありがとうございます。

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