第八話 すれ違う手のひら②
反発するばかりのヴェロニカと、塞ぎこむ七緒を前にして、レティシアは額に手を当ててため息をつく。
「仕方ないわね。気長にいきましょう。あなたたち二人とも、魔法の数値は問題ないのだから、コツさえつかめば上手くいくはずよ。でも、接続を成功させなければ魔女討伐はおろか、訓練さえ参加させられない。それだけは覚えておいて」
それを聞いたヴェロニカは、悔しそうに表情を歪める。彼女は七緒との接続を嫌がっているけれど、魔女討伐には出撃したがっている節がある。だから魔女討伐を盾に接続しなさいと命令されれば、嫌とは言えないのだろう。
「接続を成功させるためには、常日頃から互いにコミュニケーションをよく取り、信頼し合うこと。二人ともまだ出会って間もないのだから、特に意識して話し合うようにしなきゃね」
「……」
七緒は隣に立つヴェロニカの様子を横目でちらりと窺った。彼女とコミュニケーションなんて、どうやって取ればいいのか分からない。故郷では、ほとんど人と会話をしてこなかった。声を発するのを許されていたのは、必要最低限の事務的な連絡をする時だけだったのだから。
おまけにヴェロニカは七緒を嫌っているらしく、何と言って話しかければいいのか、七緒にはまるで分からない。
「……そろそろ三十分経つわね。あなたたち二人は、みんなと別メニューよ。戦闘訓練には参加せずに、ここで接続の練習をすること。いいわね?」
レティシアはそう言い残すと、七緒とヴェロニカの元を離れ、ランニングを終えた黒猫たちのところへ向かった。そしてフォーメーション=セプテムの指導を始めると、黒猫たちはレティシアの指示に従って二人一組に分かれて、次々と接続して空中に飛び立っていく。
自分が訓練に参加できないのが納得いかないのか、ヴェロニカは宙を舞う黒猫たちを睨むように見つめていた。ヴェロニカの全身から言いようのない悔しさと歯痒さが伝わってきて、そんな彼女にどう接していいのか分からない七緒は、ただぽつんと立ち尽くしていた。
七緒とヴェロニカは互いに無言だった。空は快晴で、訓練場には瑞々しい南風が吹き込んでくる。風があまりにもお下げを揺らすので、七緒は慌てて髪を抑えた。こんなところでふんわり髪が爆発してしまったら、目も当てられない。ヴェロニカが見ているのに。
ヴェロニカが傍にいると思うだけで、七緒の心臓はどきどきした。どうして、こんなに胸が騒ぐのだろう。ヴェロニカは七緒にちっとも優しくないし、心を開かない。それどころか髪を乱暴に引っ張るような存在なのに。
もしヴェロニカと接続できたら、七緒も空を飛び回れるのだろうか。大空を舞う鳥たちのように、自由に生きることができるのだろうか。そんな想像をしてみるだけで胸が高鳴って、心臓が駆け出しはじめる。もしそうなったら、このお下げに顔を埋めることもなく、俯かなくても済むだろうか。
七緒がぼんやりとそんなことを考えていると、突然、ヴェロニカが声をかけてきた。
「お前……東の国から来たんだってな」
「え……うん……」
七緒の心臓は大きく跳ね上がった。ヴェロニカのほうから声をかけて来るなんて、初めてのことだ。けれど、ヴェロニカは七緒の緊張にはまるで気づかないように話を続ける。
「お前の国では、それが普通なのか?」
「え……?」
「何も主張せず、感情を殺し、自分を殺し、死んだみたいになって生きているのが普通なのかと聞いているんだ」
「あ、あの……」
気のせいではない。ヴェロニカの声には明らかな悪意が潜んでいる。どうして――七緒は困惑した顔を浮かべたけれど、それでもヴェロニカが言葉を紡ぐことをやめようとはしない。
「魔法はそれを宿す人間のことを、雄弁に物語る。情熱的な奴の魔法は燃え盛る炎のように熱いし、フランクな人間の魔法は、人懐っこくてサーカスの道化師のように飛び跳ねるんだ。でも……お前の魔法からは何も感じない。まるで死んだ魚みたいだ」
「わ……私……」
確かにヴェロニカの言う通り、七緒は己を殺して生きてきた。七緒の立場では、そういう生き方しか許されなかったのだ。それでも、故郷の皆がそうだったわけではない。巫女の家系に生まれ、ある意味では特別扱いされて育った七緒は、いつも一人ぼっちだったし、誰にも自分の苦しさを理解してもらえなかった。それをヴェロニカにどう説明したら良いのだろう。
途方に暮れた七緒は、お下げに顔を埋めるしかなかった。嫌なことや苦しいことは、うつむいてやり過ごす。七緒はそれ以外の生き方を知らなかった。どれだけ軽蔑されても、他の解決法など持ち合わせていないのだから。
何も答えず下を向いてしまった七緒を見たヴェロニカは、蜂蜜色の髪をかき上げると、うんざりしたようにため息をつく。
「お前は……恵まれた環境で生きてきたんだな」
「えっ……」
七緒は一瞬、耳を疑った。私が恵まれている? いったい自分のどこが恵まれているというのだろう。驚いて顔を上げるけれど、どうやらヴェロニカは本心から口にしているようだ。
「お前が自己主張をしないのは、そうする必要のない環境にいたからだ。自分を主張しなくても、十分、生きられる場所にいたからだ。お前は恵まれている。でも、あまりにも恵まれすぎていて、その事に気づいていない。ぬくぬくとした温室の外では、生きられない体質になっているんだろう」
「……」
「だから……お前は自分の元いた場所に戻ったほうがいい。ここはお前のような奴が来るところじゃない。魔法さえあれば黒猫になれるわけじゃないんだ。……ここにいたら、お前は間違いなく死ぬ。そうなる前に、温かい自分の家に帰れ」
「ち、違う……私……私は!」
帰る場所なんかない。温かい家なんて七緒には無いのだ。一ノ瀬の実家は七緒を切り捨てたのだから。七緒がそう告げる前にヴェロニが先に口を開く。
「ここで、お前は必要とされていない。無駄死にする前に賢明な判断をするんだな」
「……‼」
それは七緒の最も恐れていた言葉だった。どんなに真実であろうとも、絶対に聞きたくなかった言葉。それをヴェロニカは容赦なく七緒に突きつけてくる。
何かを言わなければ。何かヴェロニカに言葉を返さなくては。七緒は必死で思考を巡らせるけれど、こんな時に何と言えばいいのか分からない。七緒はショックのあまり、ぽかんと口を開いているばかりだった。
そんな七緒に失望したのか、もとより何も期待していなかったのか。ヴェロニカは最後に七緒へと冷ややかな一瞥を向けると、踵を返した。松葉杖をつきながら訓練場を去っていくヴェロニカを、七緒は茫然としたまま見送るしかなかった。
(私は、ここでも必要とされていない……一ノ瀬の家にいた時と同じ……。世界のどこにも、私のいていい場所は無いの……?)
少し考えればわかることだ。七緒は一ノ瀬家で不必要な存在だった。一ノ瀬の家にとって双子の姉である二葉さえいれば、それで良かったのだ。二葉はいずれ大祖母の後を継いで大巫女となるだろう。跡継ぎに選ばれなかった七緒は、邪魔な存在でしかなかった。
オラシオンでも、それは同じなのだろう。黒猫の代わりはいくらでもいる。七緒より優秀な者、性格の強い者、生き残る力のある者は大勢いるのだから、七緒がオラシオンで必要とされるはずがない。
一ノ瀬家で大巫女の後継者に選ばれなかったように、オラシオンでも七緒が必要とされることはない。世界はどこまでも冷淡で、どこまで行っても決して変わりはしないのだと、嫌というほど思い知らされるのだった。
(私……消えてしまいたい……)
七緒はうつむき、両のお下げに顔を埋めた。自分が情けなくて、いたたまれなくて、すぐにでも消えてしまいたかった。誰の迷惑にもならないように、煙みたいに消え去ってしまいたい。けれど、そんな願いが叶うはずも無くて、七緒は惨めに立ち尽くすしかなかった。
その時、風の音に交じって何かが聞こえてきた。
――おいで、おいで。こちらにおいで、と。
南から吹く風に逆らうようにして、北の方からさざめくようにかすかな声が聞こえてくる。恐ろしくて密やかで、底冷えをするような、けれどどこか甘美な響きを伴った不思議な声が。
(誰かが呼んでいる……こっちに来いって、呼んでる……?)
うつむいていた七緒は顔を上げ、ふと風の声に耳を澄ました。
オラシオンに初めて来た時も、スィスィアの森から不思議な声が聞こえてきた。おいでおいでと、七緒に呼びかけるように。最初はひどく不気味に思ったけれど、芯から恐ろしいわけではなく、聞いているうちに何となく呼び声に誘われてみたくなる。
この故郷から遠く離れたデュシスの地で、七緒に呼びかける者が存在するのだろうか。七緒の存在を認め、あるいは求めてくれる人が、どこかにいるのだろうか。
(……まさか。私のことを呼ぶ人なんているわけない……)
七緒は頭をめぐらせて、もう一度、耳を澄ましてみたけれど、聞こえるのは風の音だけで、かすかな呼び声は聞こえなくなってしまった。やはり気のせいだったのだろう。
七緒は頭を小さく振って幻を振り払うと、再び背を丸めてうつむくのだった。
⬛︎◆◆⬛︎◆◆⬛︎◆◆⬛︎
学校の中庭を、ヴェロニカは早足で歩いていた。
松葉杖を突かなければならないから、その歩みはひどくぎこちなくて、遅々としていつもの半分のスピードも出ない。それでもヴェロニカは前進し続けた。
目的地なんて無かった。ただただ、|無性《むしょう】に腹立たしくてならない。あれほど訓練に参加する日を待ちわびていたのに、いまは一刻も早く訓練場から離れたくて仕方なかった。
(オレは……オレは、サラ以外の黒猫とは接続しない。そう決めていたのに……!)
それなのに七緒と接続してしまったのは、レティシアの命令があったせいだ。接続に成功しなければ魔女討伐には出撃させない。そう言われてしまったら、嫌々でも接続するしか無いではないか。
だが、冷静に考え直してみると接続なんてするべきじゃなかった。望まぬ相手と接続したところで、成功するわけがない。もし仮に接続に成功したとしても、サラの代わりが得られるわけではないのだから。どう転んでも失望しかしないのであれば、接続するだけ無駄なこと。
それは最初から分かりきっていたはずなのに、ヴェロニカは安易に妥協してしまった自分が腹立たしくてならなかった。
先ほど七緒という名の新しい黒猫と手のひらを重ね合わせた時、彼女の感情がヴェロニカの中に流れこんできた。接続には成功しなかったものの、わずかに魔法が流れてきたのだ。おずおずとドアの隙間からこちらを窺うような、けれど興味を隠しきれていない子どものような魔法。そこにはヴェロニカへの嫌悪や軽蔑といった感情が、不思議なほど混じっていなかった。
しかし、そんな七緒の魔法はヴェロニカにとって苦痛でしかなかった。否が応にもサラの魔法とくらべてしまうからだ。
(サラはあんなにおどおどしていなかった!サラはあんなに自己主張のない奴じゃなかった! サラは……サラは! あんな人形みたいな奴じゃなかった‼)
何よりヴェロニカの心を傷つけたのは、サラはもうどこにもいないという現実を、残酷なまでに突きつけられたことだ。
あの温かくて包み込んでくれるような、ヴェロニカの大好きだった魔法は、もうどこにもない。サラの魔法には、もう二度と触れることはできない。ほかの聖杯の魔法に触れるたび、サラがもうこの世にいないのだという事実を、嫌というほど思い知らされる。だからヴェロニカは新しい聖杯と触れたくなかったのだ。
それなのに。
「どうして、オレのそばにいるのがサラじゃないんだ……? どうしてオレと接続しているのがサラじゃないんだ‼ どうして……どうして……‼」
――どうしてサラは、オレを一人置いて死んでしまったんだ‼
だが、血を吐くような最後の言葉を、ヴェロニカは口にすることができなかった。口にしてしまったら最後、自分の心がバラバラに千切れて、元には戻らないような気がしたからだ。
いや、たとえ心が壊れたって構わない。サラがいないのなら、この世界に生きていても意味はないのだから。でもその前に、ヴェロニカにはしなければならないことがある。一体でも多く、あの黒い森の魔女を道連れにしてやるのだ。サラを奪ったあいつらを、決して許しはしない。それだけが今のヴェロニカを支えていた。
考えに夢中になるあまり、足元の注意がおろそかになっていたのだろう。松葉杖の先が中庭の小石につまづいた拍子に、ヴェロニカはそのままバランスを崩し、地面に倒れこんでしまう。
全身を地面に打ちつけて、包帯を巻いた傷口に激痛が走ったものの、ヴェロニカはどうにか悲鳴を押し殺す。そして松葉杖に寄りかかりながら無理やり体を引きずり起こすと、よろめくように歩きはじめるのだった。
こんなところで、ぐずぐずと立ち止まってはいられない。進まなければ。進んでいなければ、絶望と悲しみに押しつぶされて、身動きすら取れなくなってしまう。
その先に待ち受けているのが破滅だとしても――――その時のヴェロニカには、どうでも良いことだった。




