第七話 すれ違う手のひら
魔女討伐をはじめて目にしたその翌日から、七緒のオラシオンでの生活が本格的に始まった。
朝は七時ごろに起きて、寮の食堂で朝食を取った後、九時に学校に向かい、それから授業が始まる。科目は語学に数学、科学や歴史など。といっても歴史はデュシスが中心で、和国の歴史など教科書には少ししか載っていないし、語学もデュシスの言葉が中心だから、和国で学んだことがほとんど通用しない。そのため七緒は、最初は授業について行くだけでも大変だった。
ちなみに黒猫の指揮官であるレイヴンは、昼間は教師をしている。レティシアの他にも何人かレイヴンがいて、みなそれぞれ授業を受け持っているらしい。
七緒のレイヴンであるレティシアが、数学の授業を担当してるのは幸運だった。七緒は数学が苦手なので、分からないところがあっても気楽に質問できる。おかげで七緒は授業が終わった後、しばらくレティシアの元へと通い詰めることになった。
小一時間の昼休憩の後にも授業はあるけれど、午後の授業は普通の学校より少し早く、三時には終わってしまう。そこから毎日二時間ほど、授業のかわりに魔法の講義と実技があるのがオラシオンの特徴だろう。要するに魔女討伐に備えるための戦闘訓練が行われるのだ。そこで黒猫たちは魔法の使い方を練習したり、魔女討伐を想定したフォーメーションを確認したりする。
訓練が終わると、六時には寮に戻る。ほかの黒猫とともに食堂で夕食を取ると、八時から十一時までは自由時間だ。そして、午前零時にはアルクスで魔女討伐がはじまる。魔女の強さによって討伐時間は変わってくるけれど、だいたい二時には終わるらしい。ただし、戦闘が長引いた場合などは、翌日の授業が休講になることもある。あくまで黒猫たちにとって魔女討伐が優先で、学校は二の次なのだろう。
魔女も毎晩現われるわけではなく、魔女の活動は月の満ち欠けと関係しているらしく、出現する日があらかじめ決まっているそうだ。
不可解なことは、まだある。北側の窓からはスィスィアの森が見えるけれど、昼間に見る森はいつも“同じ”なのだ。魔女が出現すると戦闘の余波で木々は倒され、黒い森は目も当てられないほど破壊されるのに、翌日にはいつの間にか元に戻っている。もっとも、それを不思議だと思うのは七緒だけらしい。オラシオンではみな、そういうものだと受け入れてしまっているのだろう。
七緒は授業や午後の訓練に参加しつつ、最初の三日間を送った。訓練といっても七緒はまだ新入りだし、剣であるヴェロニカもいない。ヴェロニカは魔女討伐で負傷してから医院に入院したまま、授業もずっと休んでいる。だから七緒はレイヴンであるレティシアの指示に従って、走り込みや筋力トレーニングといった体力づくりを一人で続けていた。
その訓練の間も、授業中も、休憩時間の廊下ですら、七緒は誰にも話しかけないし、誰に話しかけられることもなかった。気恥ずかしいとか、人が怖いとか、そういった理由ではなく、七緒にとって一人が当たり前だったからだ。
故郷の高校に通っていた時も、七緒はいつも一人だった。実家の一ノ瀬家は地元の人々から崇められ、恐れられている大きな神社で、七緒は巫女の血を引く神聖な存在だったから、無闇に友達を作ってはいけなかったし、喋ったり笑ったりして明るく振舞ってもいけなかった。すべて一ノ瀬神社の威厳を保つために。七緒は学校でも、いてもいなくても変わらない、孤独な存在だった。
デュシスに来たからといって、長年の習慣がすぐに変わるわけではない。七緒は誰とも話さず、話しかけられることもなく、それを寂しいとさえ思わずに三日間を過ごした。
四日目。その日も午後の授業を終えて、一人で学校の教室を出たちょうどその時。廊下を行き交う黒猫たちの向こうに、蜂蜜色の髪がかすかに揺れているのが目に入った七緒はどきりとしてしまう。
(あれは……ヴェロニカ!)
七緒は思わず立ち止まって息を潜めながら、廊下を移動していくヴェロニカの後姿を見つめた。ヴェロニカは松葉杖を突きながらも気丈に歩いているけれど、学校の制服から覗く手足には包帯が幾重にも巻かれている。
最初に出会った時も包帯をしていたけれど、その時よりも格段に面積が増えている。額に巻かれた包帯も、前には無かったものだ。魔女討伐で負った深刻な傷は、まだ完治していないのだろう。あれほどひどい怪我だったのだから当然だ。あんな風に起き上がって歩いているけれど、大丈夫なのだろうか。四日前の魔女討伐のことを思い出して、七緒は不意に胸が苦しくなった。
(何だろう……胸がモヤモヤする……)
七緒は、ぎこちなく松葉杖をつくヴェロニカから目が離せなかった。気になるのに、気になって仕方がないのに、どうしたらいいのか分からない。声をかけてみたいけれど、ヴェロニカは七緒に声をかけられても喜ばないだろう。むしろ、迷惑そうにされるかもしれない。だからと言って、何も見なかった事にして、無視することもできない。
七緒があれこれと迷っているうちに、ヴェロニカは階段のほうに姿を消してしまった。ほっという安堵が半分、がっかりという落胆が半分。そんな感情が胸に湧き上がり、七緒はひどく戸惑ってしまう。どうして自分がそんな感情を覚えるのか、まるで分からなかった。
ヴェロニカはあまり七緒にいい感情を持っていないようだし、髪を乱暴に引っ張られて、ひどい言葉まで投げつけられた。それなのに、どうしてヴェロニカの存在がこんなにも気になるのだろう。七緒は自分でも不思議でたまらなかった。
(はやく……ヴェロニカの怪我が治りますように……)
廊下にポツンと立ちすくんだまま、七緒は心からそう願った。話しかけるのは迷惑かもしれないけれど、祈るくらいなら許されるだろうと。
七緒が午後の訓練中に、ほかの黒猫たちと一緒に訓練場に集まるよう指示を受けたのは、ヴェロニカが復帰してさらに二日後のことだった。
訓練場は学校の一角にある、いわゆる運動場のことで、かなりの広さがある。訓練場は他にもいくつかあるけれど、七緒を含めて、この訓練場に集まっているのは第ニ部隊の黒猫だけだ。
オラシオンには黒猫で構成された部隊が三つあって、最も実力のある黒猫が集められているのが第一部隊で、その次が第二部隊、第三部隊がそれに続く。七緒のいる第二部隊はちょうど真ん中だ。
訓練の際は、黒猫たちはみな指定の訓練着を着ているけれど、七緒はまだ訓練着が用意されていないので、故郷の学校の体操着をそのまま着用しているのだった。だから周囲はみな白と灰色の訓練着なのに、七緒だけ鮮やかな浅葱色の体操服だ。
そのせいではないけれど、七緒はここでも浮いていて、誰とも話さないまま集団の中で一人ぽつんとしていた。訓練場の端にはヴェロニカの姿も見えるけれど、彼女はまだ松葉杖をついている。ヴェロニカは七緒のことなんて興味が無いのか、こちらを見向きもしない。まるで話しかけるなと拒絶されているようで、七緒はヴェロニカに近づくこともできなかった。
レイヴンであるレティシアを待っている間、第二部隊の黒猫たちのおしゃべりが、聞くともなしに七緒の耳に入ってくる。
「あれ、ヴェロニカじゃん」
「ホントだー! 怪我治ったのかなぁー?」
「治ってるわけないだろ。松葉杖、ついているんだぞ」
「心配だね。早く治ったらいいけど……」
「そうだよね。ヴェロニカまでいなくなったら……僕たちも寂しくなるし」
「どちらでも結構ですけれど、中途半端な状態で訓練に復帰するなんて、かえって逆効果なんじゃなくって? また単独行動をとったあげく、足を引っ張られでもしたら迷惑ですわ!」
「そのあたりはレイヴンの判断に任せるしかないよ。私たちはレイヴンの指示に従うだけなんだからさ」
黒猫たちがそんな会話を囁きあっていると、ようやくレティシアが訓練場にあらわれた。彼女は第二部隊を率いる指揮官――レイヴンであり、黒猫たちの訓練の指導も彼女が行っている。レティシアがあらわれた途端、訓練場に漂っていた弛緩した空気が一気に引き締まった。
「さあ、みんな集まって!」
その声を合図に、ヴェロニカや七緒を含めた第二部隊の黒猫たちはみな、レティシアの前に集合する。レティシアは点呼を取りつつ、全員がその場にいることを確認すると、さっそく口を開いた。
「昨日の魔女討伐は、お疲れさまでした。新しいフォーメーションもうまくいっていたわ。でも、魔女を追い詰めるところまでは良かったけれど、心臓を破壊するまで、まだ時間がかかり過ぎるわね。止めを刺される前の魔女は死に物狂いよ。だから、いかに迅速に心臓を破壊するかが、任務の成功率を上げる鍵でもある……分かるわね?」
「はい!」
黒猫たちの返事が、とてもはきはきとした大きな声だったので、七緒は少しだけびくりとしてしまった。
「今日はもう一度、フォーメーション=セプテムを頭に叩き込むわよ。まずはランニングにいつもの筋力トレーニング。三十分後にもう一度ここに集合ね。始め!」
レティシアが手のひらを打ち合わせた音を合図に、黒猫たちはいっせいにランニングを始めた。これから準備運動として、訓練場の周りを何周か走るのだろう。七緒もランニングに加わろうと駆け出そうとしたところで、レティシアに呼び止められた。
「ナナオとヴェロニカは、ここに残って」
「あ……はい」
七緒はランニングの列から離れると、小走りでレティシアの元へと戻った。ヴェロニカも松葉杖をつきつつ、渋々といった風にレティシアの元へやって来る。レティシアは自分の目の前で、七緒とヴェロニカに向かい合って立つよう促した。
「あなたたちは別メニューよ。まずは魔法を通い合わせ、接続をするところから始めなければね」
「……はい」
「……」
七緒はすぐに頷いたけれど、ヴェロニカは黙ったまま返事をしなかった。レティシアの指示が不満なのだろう。どこか不貞腐れているようにも見える。
「ヴェロニカ、返事は?」
レティシアは穏やかに、けれど有無を言わせぬ強い口調でヴェロニカに返事をするよう求めると、ヴェロニカは不満を隠しもせずに、レティシアに反論した。
「オレには聖杯は必要ない。オレは一人で魔女と戦う!」
ヴェロニカはよほど七緒とパートナーを組むのが嫌なのか、あくまで単独で戦うことにこだわっているみたいだけど、レティシアは冷徹なまでにヴェロニカの主張を退ける。
「そんな怪我までして、単独で戦うことが許されると思っているの? あなたの失敗はあなただけの問題じゃない。ほかの黒猫の命にも関わることなのよ」
「それは……!」
口ごもるヴェロニカに対し、レティシアの態度は一貫していた。
「このまま意地を張るというのなら、あなたに出撃許可を出すことはできないわ。ナナオと接続しなさい」
「くっ……!」
「さあ、二人とも手を重ね合わせて。ナナオ、やり方は分かるわね?」
七緒は小さく頷くと、レティシアに言われた通り、おずおずと右手を差し出して、ヴェロニカに手のひらを掲げた。ヴェロニカはなおも渋っていたけれど、レティシアに睨まれて、いかにも嫌々と言わんばかりに左手を出す。
七緒はドキドキしながら左の手のひらを、ヴェロニカの右の手のひらと重ね合わせたけれど、拍子抜けするほど何も起きなかった。魔女討伐の際に、ほかの黒猫たちは魔法をまるで火花のように光の粉を散らして接続していたのに、七緒とヴェロニカが手を重ねても光の粉が弾けることもなければ、手のひらに光が灯ることもない。
見かねたレティシアが七緒にやさしく声をかける。
「ナナオ、もっと肩の力を抜いて。心を穏やかにするの」
「は、はい」
「そう……その調子よ」
レティシアに言われた通りにしてみるけれど、それでも何の変化も起きなかったし、接続する気配は欠片もない。するとレティシアは、次にヴェロニカに向かって話しかける。
「ヴェロニカ、あなたも心を開いて。ナナオの魔法を受け入れるのよ」
「オレはちゃんとやっている!」
「いいえ、それができていたら、とうに接続《リンク》できているはずよ」
ヴェロニカはひどく苛立たしそうだった。接続ができない七緒に対して苛立っているのだろうか。それともレティシアの言葉に従うことに対して不満を抱いているのだろうか。彼女が何に対してそれほど憤っているのか、七緒にはまるで分からない。
「七緒もヴェロニカも……いい? 接続は聖杯と剣がお互いを信頼し、魔法を通い合わせることで、初めて成功するの。二人とも、お互いを撥ねつけるんじゃなく、受け入れるのよ」
レティシアは根気強く七緒とヴェロニカを諭すけれど、それでも接続するような兆しはまるで見えない。どれだけ待っても魔法が反応する気配すら見えないまま、ニ十分が過ぎてしまった。さすがのレティシアも困惑と失望を浮かべて、ため息をつくのだった。
「やっぱり駄目……か」
「くそっ……こいつの魔法は分からないんだ……! 大人しくて、主張が無くて……掴みどころがない! お前はどうしたい? いったいどうなりたいんだ!」
ヴェロニカに苛々と怒鳴られた七緒は、びくりと身をすくませると、俯いてしまった。お下げに顔を埋めて逃避する癖が、ここでも顔を出したのだ。そんな七緒を目にしたヴェロニカは、さらに苛立ちをあらわにして怒鳴るのだった。
「そうやって、すぐに俯くな!」
「あ……、ご……ごめんなさい……!」
七緒は泣き出したい気分だった。七緒とて努力はしている。でも、どうしたらいいのか分からない。ましてや、どうなりたいかなんて考える余裕もなかった。七緒は今まで一度だって、接続をした経験が無いのだから。どんな感覚なのかさえ分からないのだ。
「ヴェロニカ、ナナオを責めないで。彼女は初めての接続なのよ?」
「……!」
レティシアは七緒をかばってくれたけれど、ヴェロニカはふいっと横を向くと、七緒の右手に重ねていた自分の左手を、乱暴に払い除けてしまう。
そんなヴェロニカに、七緒は戸惑うばかりだ。どうしてヴェロニカが怒っているのか、どうして接続が上手くいかないのか、七緒には分からないことだらけなのに。乱暴に払われた手を抱えながら、七緒は自分がひどく無力で惨めな存在に思えてきて、気分が落ち込んでしまうのだった。




