第四十一話 勉強会
それは魔女討伐があった翌日の晩のこと。時刻は二十時を回った頃、七緒は自室の中をソワソワと歩き回っていた。
以前、七緒はヴェロニカと部屋で一緒に勉強をしようと約束をしていた。話自体が持ち上がったのは何日も前のことだけど、ティナとベッキーのごたごたもあって、ずっと先送りになっていたのだ。いよいよ今晩、その時がやってきたのだ。待ち焦がれていた七緒は胸を弾ませつつも落ち着かない。
あともう少しでこの部屋にヴェロニカがやって来る――そう思うとドキドキして、とてもじっとしてはいられない。幾度となく繰り返した部屋のチェックを、ついもう一度、指差しながら確認してしまうのだった。
「……掃除よし、ベッドメーキングよし、机の上よし! うう、緊張する……ヴェロニカが私の部屋を気に入ってくれたらいいけど。そういえば……この市松人形、どうしよう? あったらあったで不気味かもしれなけど、無かったら無かったで部屋に飾り気がなさすぎるし……。髪を結んでみるとか、どうかな? ツインテールとか、あと巻き毛にしてみるとか……いや、ダメダメ! そんな時間なんて無い、もうすぐヴェロニカが部屋に来るのに……!」
くよくよ頭を悩ませたり、わたわたと慌てたり、もはや完全にひとり相撲だ。代わり映えのしない部屋だけど、ヴェロニカにはできるだけ良く見せたいと思ってしまうのだから仕方ない。
やがてその時が来た。不意に部屋のドアをコンコンと遠慮がちにノックする音が聞こえてくる。
「ひゃいっ⁉」
驚きのあまり七緒は飛び上がり、おまけに声まで妙な感じに裏返ってしまった。それに驚いたのだろうか。扉の向こうからどこか窺うようなヴェロニカの声が聞こえてくる。
「……ナナオ? 驚かせてしまったか? オレだ、ヴェロニカだ。中に入ってもいいか?」
「あ、はい! どうぞ!」
七緒は手櫛で髪をさっと整えると、慌てて扉を開ける。すると、勉強道具を入れた鞄を提げたヴェロニカが扉の前に立っていた。サファイア色の瞳と視線が交わると少しくすぐったくて、思わず笑顔になってしまう。
七緒に迎え入れられて、ヴェロニカは「……それじゃ、お邪魔するぞ」と言いつつ部屋に入ると、物珍しげに周囲を見回した。
「へえ……これがナナオの部屋か。何て言うか……デュシスでは見ない感じだな。ベッドカバーやカーテンの色、模様……すごくエキゾチックで新鮮だ」
「ごめんね、何か散らかってて……」
「どこが? 全然、散らかってないぞ! オレの部屋のほうがとっ散らかっているくらいだ。落ち着いていてすごく寛げる……いい部屋だ」
「本当⁉」
「オレは好きだな」
ヴェロニカはベッド脇の棚に飾ってある市松人形にも気づいた。棚の上には他にも和国から持ち込んだ扇子や絵葉書を飾っていたり、オラシオンの中庭で摘んだネモフィラの花を花瓶に差していた。中でも市松人形はよほど物珍しかったのだろう。ヴェロニカは興味をかき立てられたらしく、市松人形へ顔を近づけると、着物の柄や小物などをじっくり眺めている。
「……この人形、和国のものか?」
「うん、実家から持ってきたの。部屋に飾るにはちょっと不気味かなって思ったんだけど……」
「そんな事ない。とても可愛いぞ! 雰囲気がナナオによく似ている」
「えっ……そ、そう?」
その市松人形は、七緒がまだ幼い頃に誕生日に父と母から贈られたプレゼントだった。七緒は和国にいた時から市松人形を大切にしてきたけれど、故郷では市松人形の独特な雰囲気が怖いという人もいる。そんな、ある意味でいわくつきの人形に似ている言われて、七緒は少し複雑な気持ちになってしまう。
けれど、ヴェロニカは市松人形に悪い印象を抱いてないようだ。好意で発してくれたに違いないヴェロニカの言葉に、七緒は胸が温かくなるのだった。
ほかにも七緒の部屋には和国から持ち込んだ物がいくつかあるけれど、全てがヴェロニカには珍しいようだ。ひとしきり異文化交流に花を咲かせたあと、七緒とヴェロニカは机にふたり並んで古典の勉強に取り組むことにした。
古典といっても、もちろん和国の古典ではない。現在デュシスを支配しているサンティ=ルクス王国の古典だ。デュシスで信仰されている女神ファートゥムの建国記の神話で、現代のデュシス語とは違う古語で書かれている。そのため、古典は七緒が最も苦手とする科目だ。七緒にとって、ただでさえサンティ=ルクス王国の歴史に関する知識も浅いのに、古代デュシス語はさらに難解なので、いつも二重三重に苦労させられる。
でも今日はヴェロニカが難解なところを丁寧に解説してくれるので、とても助かった。たいてい複数の辞書を引いて、ようやく理解できるような事柄も、ヴェロニカが要点をかいつまんで分かりやすく説明してくれるし、七緒の知らない豆知識まで添えてくれるので、いつもの半分以下の作業で済んでしまう。
そうして二時間ほど一緒に勉強してから、ヴェロニカは大きく伸びをした。
「ふう……これで明日の予習は終わりだな」
「ヴェロニカの説明、すごく分かりやすかったよ。助かっちゃった。ありがとう!」
「礼を言うのはオレのほうだ。一人だとどうしても気が緩んで怠けがちになってしまう。補習が増えたら訓練にも影響が出るしな。ナナオが一緒だと集中できる。また一緒に勉強しよう!」
「! ……ねえ、今度は私がヴェロニカの部屋に行ってもいい?」
「もちろん! ただ……オレの部屋はナナオの部屋ほど落ち着いた感じじゃないから、そこは期待しないでくれ」
「それはそれで楽しみかも……!」
七緒がくすくす笑うと、ヴェロニカは一瞬、バツの悪そうな顔になった。どちらかと言うと明朗快活な性格のヴェロニカも、自分の部屋を見られることには恥ずかしさを覚えるらしい。
その反応があんまり新鮮で、しかも意外だったので、七緒はついヴェロニカが可愛いと思ってしまう。
勘弁してくれとばかりに困り顔になったヴェロニカだけど、すぐに何かを思い出したように両手をぽんと叩く。
「そうそう、そういえばナナオに手土産を持ってきたんだ!」
「手土産?」
そう言って、ヴェロニカは持ってきた鞄の中から小さな箱を取り出した。
「ナナオはこの間、クッキーをおいしそうに食べていただろう? だから食堂でもらって来たんだ。一緒に食べよう!」
「ありがとう!! あ、でも……夜に食べると太るってノエルが……」
「むむむ」と七緒が頭を悩ませていると、ヴェロニカは自信たっぷりに断言する。
「大丈夫だ。ナナオは細いから、そんなに太ったりはしない」
「そ……そうかな? 私、もう少し食べたほうがいい?」
「そういう訳じゃないけど……デュシスの食べ物が口に合わないんじゃないかと気になることはある」
ヴェロニカの指摘は当たっている。七緒にとってデュシスの料理はあまり馴染みがなくて、正直に言って口に合わない食べ物もある。しかも、自分にとって美味しいかどうかは、実際に食べてみないと分からないのが困りものだ。
でも、ヴェロニカが一緒にお昼を食べてくれるようになって、料理の食べ方や組み合わせなどを教えてくれるおかげで、だいぶ食べられるものが増えてきた。今では大好物になったメニューもあるくらいだ。
「勉強すると甘いものが欲しくなるし、少しくらいなら大丈夫さ!」
「そうだよね、少しくらいなら大丈夫だよね!」
小さな箱からは甘い匂いが漂ってきて、七緒の鼻腔をこれでもかとくすぐってくる。その誘惑には、さすがに抗えそうにない。ヴェロニカが箱を開けると、中にはクッキーが詰め込まれていた。
その中から七緒は、一番のお気に入りであるチョコチップ入りのクッキーを手に取った。ひと口齧ると、香ばしく焼きあがった生地がほろほろと崩れ、続いてチョコチップの甘みが口中に広がってゆく。
「おいしい……!」
七緒はため息とともに幸せな顔になる。それを見て、ヴェロニカはにっこりと笑う。そのヴェロニカが選んだのは、ナッツ入りのココアクッキーだ。
「ナナオはそのチョコチップ入りのクッキーが本当に好きだな」
「和国では食べ物が制限されていたの。だからかな? 巫女は神聖な存在だから、神聖なものしか食べてはいけないんだって。卵や魚は食べてもいいけど肉は駄目とか、外国のお菓子も食べては駄目とか……かなり細かいルールがあったんだ。子どもの時はあまり厳しくなかったけれど、成長すると巫女の仕事も増えるから、決まりごとも増えていくの」
「ふうん……何だかヘンだな。神聖な存在のはずなのに制限や禁止が多いなんて、何て言うか……いじめられているみたいだ」
「……和国にいた時はそれが当たり前だったから。デュシスに来て慣れない食べ物もたくさんあるけど、自分で好きなものを選んで食べることができるのは、すごく嬉しい」
「そうか……ナナオの故郷にもいろいろあるんだな」
そう言って七緒は笑ったけれど、ヴェロニカは神妙な面持ちになる。
「デュシスには他にもいろんな菓子があるぞ。パイにタルト、チーズケーキにマドレーヌ、フィナンシェ……そういった菓子は超がつくほどの高級品だ。王都に行けば別なんだろうけど。オラシオンは食べ物には恵まれてる。美味いものが腹いっぱいに食べられる点は感謝しないとなって、心から思うよ」
「……うん、そうだね」
その時、ふと七緒の視界にヴェロニカがいつも嵌めている指輪が飛びこんできた。小さな石を編みこんで精緻な模様を描いている、素朴ながらも美しい指輪。真ん中にはひと際大きい、目の覚めるような青いラピスラズリの石が配してあり、指輪全体のアクセントになっている。
七緒の心臓はどきりと跳ね上がった。今までその指輪について怖くて聞けなかったし、気づかない振りをしていたけれど、今夜は何故かその指輪が妙に心に引っかかった。躊躇う気持ちが無かったわけではないけれど、気づけば言葉が口からこぼれ落ちていた。
「そう言えば……ヴェロニカはいつも指輪をつけているのね。お気に入りなの?」
「ああ、これは……その……サラがオレにのために手作りして、プレゼントしてくれたものなんだ」
「サラ……ヴェロニカの聖杯だった……?」
(ああ……やっぱりそうだったんだ)
いや、そんな事は聞く前からうすうす分かっていたことだ。七緒は動揺のあまりスカートの裾をぎゅっと握りしめ、瞬きを繰り返してしまう。胸の奥がざわめいて、ひどく落ち着かなくなる。
(どうしよう、やっぱり聞かなければ良かった……)
何と言葉を返せばいいのか分からない七緒の胸中を察したのか、ヴェロニカは瞼を伏せると申し訳なさそうに口を開く。
「……すまない。前の聖杯のことをいつまでも引き摺ってるだなんて、ナナオはいい気がしないよな。でもこれは、あいつがオレに残してくれた唯一の|形見《なんだ。決してナナオを傷つけたいわけじゃないけど、どうしてもコレだけは……!」
指輪をした手をぎゅっと握りしめたまま、辛そうな顔をしているヴェロニカを見て、七緒は何て浅はかな言葉を発してしまったのだろうと後悔した。
サラを失って一番苦しんでいるのはヴェロニカなのに、迂闊な質問をしたあげく、謝罪までさせてしまった。ヴェロニカは何も悪くないのに。そんな悲しそうな顔をさせたかったわけじゃない。七緒は小さく首を振ると、ヴェロニカの握った手に、そっと自らの手を重ね合わせる。
「謝らないで、ヴェロニカ。剣と聖杯がどれだけ特別な関係か、私なりに理解しているつもり。サラはヴェロニカの聖杯だったんだもの。そう簡単に忘れられない気持ちは分かる気がする。だって、もし私がヴェロニカを失ってしまったら……今のヴェロニカと同じ気持ちになると思うから」
「ナナオ……」
「本当のことを言うとね、ヴェロニカには私だけを見ていて欲しいって気持ちもあるの。ヴェロニカを誰にも渡したくない、独り占めしたいって。でも、それは私の勝手なワガママだって自分でもよく分かってる。だから、ヴェロニカのことを大好きな自分と、ワガママな自分の間でいつも戦ってるの。……私ってヘンでしょ?」
「……」
「ただ……時々、不安になるの。ベッキーはティナが何を隠しているのか、ものすごく知りたがってたでしょ?……でも、ヴェロニカは全然、私のことを気にしてなかった。だから少し心配になっちゃった。ヴェロニカは私が隠し事をしても平気なのかな、それって私に興味が無いのかな、なんて……」
するとヴェロニカは驚いて身を乗り出した。
「それは違う! 本当の事を言うと、オレもナナオが何をしているのか気になった。後をつけてみようかと本気で考えたくらいだ!」
「そう……なの?」
「でも、それだと何て言うか……ナナオのことを束縛してしまうんじゃないかって。それが嫌だったんだ。うまく言えないけど……内緒でこっそり後をつけるとか、何だかナナオのことを疑っているみたいだろ? だから、オレはナナオを信じようって決めたんだ」
「ヴェロニカ……」
七緒はようやく「ああ、そうだったんだ」と腑に落ちた。ベッキーがティナが何をしていたのか根ほり葉ほり尋ねて知りたがったのとは対照的に、ヴェロニカは七緒を信頼して見守る選択をしたのだろう。
どちらが正しいとか、どちらが相手を大事にしているとか、単純にくらべることはできないけれど、二人とも自分の聖杯が大好きで、大切にしたい気持ちは同じなのだろう。ベッキーはベッキーのやり方で、ヴェロニカはヴェロニカのやり方で、パートナーと信頼関係を築こうとしているだけで。
だから決して、ヴェロニカが七緒に対して無関心なわけでも、興味が無いわけではない。七緒はヴェロニカの気持ちを試すような言葉を口にしてしまった自分を恥じた。ヴェロニカがサラを忘れることができないのは事実だけど、七緒に歩み寄ろうとしてくれているのもまた事実なのだから。
それなのに七緒は、ヴェロニカの心を独り占めにしたいばかりに、サラに対して嫉妬と恐れを抱いている。ヴェロニカは七緒を信じようと努力してくれているのに。
(私も……ヴェロニカを信じよう。ヴェロニカは私を信じようとしてくれているんだもの。私だってヴェロニカのことを信じたい。それがきっとパートナーになるってことなんだから……!)
七緒はヴェロニカへ語りかける。
「ねえ、ヴェロニカ。良かったら私にもサラのことを教えて。私も知りたいの。サラのこと……彼女がどんな聖杯だったのかを」
「ナナオ……でも……」
ヴェロニカはラピスラズリの指輪を小さく握りしめる。サラの記憶はヴェロニカにとって、いまだ思い出すのも辛いものなのかもしれない。それを現在の聖杯である七緒に上手く語って聞かせる自信がないのだろう。
「ヴェロニカがその気になった時でいいの。たくさんの人の記憶に残ることが、サラにとってもいい事だと思うから」
ヴェロニカは少し迷うような素振りを見せた後、小さく微笑む。
「……。ああ、そうかもしれないな。ありがとう、ナナオ」
七緒も微笑みながら頷きを返した。こうして見つめ合っていると、二人の距離は確実に縮まってきている。七緒とヴェロニカはきっと良い聖杯と剣になれるだろう。そう思うと、七緒の胸に確かな希望の灯がともるのだった。
それから七緒とヴェロニカはクッキーを楽しみながら、さまざまな話題に花を咲かせた。学校での授業の話、レイヴンやサーパントの話、そして第二部隊の黒猫たちの話。そして二十三時の消灯時間がやって来たので、勉強会はお開きになった。
「今日はありがとう、ヴェロニカ。気をつけて帰ってね」
「ああ、ナナオもしっかり休めよ」
そうして七緒はヴェロニカを廊下まで見送った。二人の仲睦まじい様子を、棚の上に飾ってある市松人形は何か物言いたげな瞳でじっと見つめていた。
ティナとベッキー編はこれで終わりです。楽しんで頂けたら幸いです。次話更新までしばらくお待ちください。




