第三話 冷たい記憶
『ねえねえ、知ってる? ついに追い出されることになったらしいよ、妹の方!』
『あー、大巫女さま、妹の七緒さまのこと嫌ってたもんねー』
『まあでも、こっちもせいせいするじゃん? なんかあの子、辛気臭いし、不気味だし』
『鬼の子なんでしょ? 気持ち悪い……まさか祟ったりしないよね?』
『デュシスに送り込まれるそうじゃない。あんなの役に立つのかしら?』
『あ、でもさ、ストレス発散する道具がいなくなるのはちょっと困るなー。あいつ、絶対に反抗しないし、周りに味方もいないし、気晴らしするにはちょうど良かったのに』
『あんた……そんなことしてたの? 本当に祟られたらどうするのよ!』
『ないない、あいつにそんな根性、あるわけないじゃん!』
七緒がはじめて自分のデュシス留学を知ったのは、神社の手伝いに来ていた娘たちの、そんな心無い会話をこっそり立ち聞きしてしまったことからだった。
七緒の実家である一ノ瀬家は、地元一帯を仕切る大きな神社だ。代々、男は宮司として、女は巫女として、社が祀る神々に仕えてきた。一ノ瀬の血を引く者はみな、強い巫力を持って生まれてくる。デュシスで言うところの魔法だ。だから一ノ瀬家は古くから地元の人々に恐れられ、崇められて信仰の対象となっていた。そこで生まれた七緒もまた、一ノ瀬家で生まれた女として巫女になるはずだった。父や母もそうだったように。
けれど、七緒が一ノ瀬の家に受け入れられることはなかった。その理由は、七緒が双子の片割れとして生まれてきたからだ。
七緒には、一ノ瀬二葉という双子の姉がいる。七緒が言うのもおかしな話だけれど、おそろしく大人しくて従順な性格だった。双子として生まれた七緒と二葉は、顏も性格も見分けがつかないほどよく似ていた。
けれど、一ノ瀬神社において最高位の大巫女である祖母は、なぜか二葉をたいそう可愛がり、反対に七緒のことはひどく毛嫌いしていた。そして祖母の愛情の差は、はっきりとした形となって表れていた。部屋の広さや与えられる服の量、物事の順番。いつも七緒より二葉のほうが優先されていた。神社の行事も二葉は出て良いのに、七緒は留守番を言いつけられるといった具合だ。二葉は巫女となる教育を手厚く施され、七緒のことはいつも二の次、三の次だった。
でも、それはまだ耐えられた。七緒にとって一番辛かったのは、祖母や周囲の人の態度だ。二葉は愛されているのに、七緒は憎まれている。二葉は可愛がられているのに、七緒は冷たくされる。それが何より悲しかった。
おまけに大巫女である祖母の態度は、下々の者たちにも伝わってしまう。一ノ瀬家では七緒はいつも軽く扱われ、蔑まれていた。七緒に関われば祖母に目をつけられ、厳しく叱責される。だから七緒に優しくしてくれる人がいても、すぐに神社を辞めさせられ、いなくなってしまった。周囲は七緒に対して常に冷ややかで、辛辣だった。そういう人しか身近に残らなかったのだ。七緒はその度にうつむくしかなかった。うつむいて、お下げの中に顔を埋め、辛い現実から逃れることしかできなかった。
徐々に七緒は一ノ瀬家で、空気のような存在にされていった。あからさまに苛められることこそ無いものの、話しかけても無視をされ、家族からは距離を置かれる。存在そのものが、いないのと同じなのだ。たまに構う者があると思えば、日頃の鬱憤を晴らすためのサンドバックにされるばかり。七緒にとって一ノ瀬の家はあまりにも冷たく、人の温もりをほとんど感じることの無い、まさに氷室の中のような世界だった。
家の中に居場所が無いのなら、外で居場所を作ればいい。普通の家の娘なら、そういった選択枝もあっただろうけれど、七緒には許されないことだった。七緒の故郷では巫女は神聖な存在であり、俗世の者と軽々しく口をきいてはならなかったからだ。
七緒は巫女教育を受けていなかったけれど、巫女の血を引く者として、同じくらい神聖な存在でなければならなかった。だから外で友達を作ることもできなかったし、七緒に近づこうという者もいなかった。ただでさえ閉鎖した環境の中で、七緒は家の中でも外でも孤立していた。
それでも七緒がひどく苛められたり、暴力を振るわれたことは一度もない。曲がりなりにも巫女の血を引いていたから、それ相応の扱いを受けていたのだ。
ただし、例外もいた。大巫女である祖母だ。祖母は七緒の顔を見るたび、憎しみのこもった罵声を浴びせてくるのだった。
『この子は鬼の子だ! 忌み子だよ! 一ノ瀬の家に必ず災いをもたらす……一刻もはやく追い出さなきゃいけないんだ‼』
一ノ瀬の家には、古くからそういった言い伝えがあったらしい。双子は不吉で、家に災いをもたらすから、双子のうちどちらかは鬼の子として排除しなければならないのだという。
けれど、七緒が一ノ瀬の家に災いをもたらしたことは一度も無いし、もちろん七緒が原因で家に災いが降りかかったことも無い。それなのに七緒はいつも周囲から嫌われ、疎まれ、そうでない時は空気のように、いてもいなくても良い存在だった。
七緒はベッドの上で仰向けに寝転がりながら、小さくつぶやく。
「私の……何が悪かったのかな……? どうして、おばあ様は私をあんなに憎んだのだろう……?」
本当に双子は不吉だという言い伝えだけで、あれほど七緒を憎んだのだろうか。他に何か理由があったのではないか。けれど今となっては結局、真相は分からずじまいだ。
ひとつだけはっきりしているのは、選ばれたのは二葉であり、七緒ではなかったということだけ。二葉と七緒はそっくりな双子で、家族でも時おり間違えるほどだった。それなのに二葉は良くて、七緒は駄目だった理由は何だったのだろうか。
(私……心のどこかで期待していた。いつか、おばあ様が私を見直してくれるんじゃないか、いつか存在を認めてくれるんじゃないかって……)
けれど、祖母の七緒に対する憎悪は本物だ。なぜなら祖母の強い意向で、七緒はこのデュシスに送り込まれたのだから。魔女討伐の最前線であるデュシスには世界中から適性のある少女が集められ、七緒は和国の代表として派遣された。魔女と戦う黒猫はたびたび怪我を負うことも、時には死の危険があることも承知で。
父と母はずいぶん反対してくれたみたいだけど、一族の最高権力者である祖母には結局は逆らえなかったらしい。
大巫女である祖母は、和国を旅立つ直前、七緒にこう告げた。
『せめて世界の為に戦って大人しく死になさい。それが、お前がこの世に生まれてしまったことに対する、せめてもの償いです』――と。
あの冷酷無比な声音が、今でも七緒の耳にこびりついて離れない。祖母は本気だ。それが分かっているだけに、七緒はやるせない気持ちに襲われる。一ノ瀬家で過ごした冷たい日々のために、感情はすっかり擦り切れてしまい、こうして思い出に浸っていても涙すら出てこない。
ただ淡々と考えてしまう。もし自分が魔女討伐で死んでも、祖母は絶対に悲しまないだろうし、弔ってもくれないだろうと。父と母は涙を流してくれるかもしれないけれど、それでも結局、祖母の決定には逆らえない。七緒が死ねば、すべて祖母の目論見通りになるのだろう。
「誰も私が生きることを望んでない……私がいてもいい場所なんて、この世界のどこにもないんだ……‼」
それは一ノ瀬家でもデュシスでも、きっと変わらない。だから、あのヴェロニカという少女も、七緒にあれほどひどい仕打ちをしたのだろう。
(あの子……きれいだったな……)
はちみつ色の髪、人形のように整った容姿、自己主張できる強い性格。見るものすべてを引きつける魅力的な蒼い瞳。そして自分の意志を貫き通そうとする行動力まで持っている。そのどれもが、七緒には無いものばかりだ。
(羨ましい……あの子はきっと、私みたいな思いをしたことがないんだ。冷たくて……冷たくて、冷たくて……自分の力ではどうしようもなくて、自分の髪で顔を隠すしかなかった。そんな惨めな思いなんてしたことがないんだ……。あの子はきっと私と違って、恵まれた家庭で育ったんだろうな……)
ヴェロニカの強い光をたたえた蒼い瞳を思い出しながら、七緒はふと考えてしまう。人は生まれではないと言うけれど、どういった環境で生まれ育ったかは、間違いなく人格形成に影響をおよぼす。ヴェロニカは恵まれていて、自分はそうではなかっただけ。そう考えると、どうしようもなく自分が惨めでならなかった。
七緒は物憂げになって、ベッドの上で寝返りを打ったその時、ふと誰かに呼ばれたような気がした。
「……? 誰か……呼んでる……?」
レティシアやヴェロニカの声とは違う。いったい誰だろう。異国の地であるオラシオンに、七緒のことを知っている者などいない。誰かに呼ばれるはずがないのだけれど。七緒は気になってベッドから起き上がり、耳を澄ましてみたけれど、今度は何も聞こえてこない。
(……。気の、せい……?)
確かに窓の外から、誰かに呼ばれたような気がしたのだけれど。
ふと窓の外に視線を転じると、黒々とした森が目に入った。あの森を見るたび、胸の底がざわついて、不安でじっとしていられなくなる。七緒は森が目に入らないように、そっとカーテンを降ろすと、その光景を視界から塞いだのだった。
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太陽が地平線の向こうへと沈んでゆき、世界のすべてが鮮やかな赤に燃え上がる。オラシオンの城壁や学校、時計塔はもちろん、寮の建物や訓練場にいたるまで、目に映るものすべてが赤に染められ、濃く長い影を落としている。
学校の屋上に立つヴェロニカは、ただまっすぐにスィスィアの森をにらみつけていた。屋上を吹き抜ける風がヴェロニカの金色の髪や灰色の制服をもてあそぶけれど、そんな事は気にもならないのだろう。碧玉の瞳をきっと見開いたまま、まばたきもせずに黒い森へと視線を注いでいた。
すべてが赤に染まる黄昏時でさえ、スィスィアの森は闇をのみ込んだように黒々としてたたずんでいた。まるで、この世の存在ではないかのように。
この向こうに魔女がいる。今まで数多の黒猫の命を奪い、ヴェロニカの半身とも言うべき大切な存在まで奪っていった、あの忌むべき化け物たち。太陽が沈み、世界が闇に覆われる時、奴らはデュシスを喰らいつくそうと動き出すのだ。
魔女のことを想像するだけで、ヴェロニカの全身に強い衝動が駆けめぐる。人間を苦しめ、街を破壊し、魂を奪うことしかできない、哀れで醜い怪物たち。連中には思い知らせてやらなければならない。自らの犯した罪の大きさを。そしてこの世には、自分たちの思い通りにならない者が存在するのだと。
その黒い森に向かって突き出すように、ヴェロニカは左手をまっすぐに伸ばす。その細くて華奢な人差し指には、ビーズで編まれた指輪が、夕日に反射して光を放っていた。真ん中に蒼い石、ラピスラズリがあしらわれた美しい指輪だ。
(サラ、待っていてくれ。俺はきっと、お前の仇を討つ! そのためなら、たとえその先に死が待ち受けていようと怖くはない! もしオレがお前のそばへ行くことになったら……その時はまた笑って話をしよう。それまであと少しだ……!)
今はただ、そのことしか考えられない。レティシアから紹介された新しい聖杯のことなんて、ヴェロニカの意識の片隅にもなかった。ヴェロニカにはやらなければならないことがある。剣として、失った聖杯のために、成し遂げなければならない事があるのだ。ヴェロニカの聖杯は、今でもサラ一人と決まっているのだから。
ヴェロニカは指輪の光る左手を握りしめ、宝物を扱うように胸元へ引き寄せると、まるで祈りを捧げるかのように指輪ごと左手を包みこんだ。サラの声を、やわらかい笑顔を思い浮かべるたびに、肩が小さく震える。
―――――許さない。あの無垢な笑顔を……あたたかな瞳を奪った魔女を絶対に許さない。奪われた命を取り戻すことはできないけれど、そのかわり一匹でも多く魔女を道連れにしてやるのだ。
そうでなければ、あまりにもサラが可哀想すぎる。サラには何の罪も無いのに、無残にも魔女に殺されてしまうなんて。
サラのズタズタに引き裂かれた体を、どんどん冷たくなっていく最後の瞬間を思い出すたびに、ヴェロニカの心は軋むような悲鳴を上げる。
ただ一人残されたヴェロニカは、サラの葬儀が終わった今も、未だにサラの死を受け入れられないでいた。
かつてヴェロニカのそばには、当たり前のようにサラの姿があった。けれど、もう二度とサラに会うことも、触れることも、話すことすらできない。ヴェロニカは一人だった。どうしようもなく一人で、孤独だった。
「サラ……! どうしてお前は……‼」
まるで慟哭にも似た悲痛な響きを帯びた言葉は、最後まで言い終えることなく、血が滲んだような空に吸いこまれてしまう。
日が沈みきり、空に藍色が混じる頃、ヴェロニカの頬をひと筋の涙が、静かにこぼれ落ちていった。