第三十二話 ベッキーとティナの過去
一緒にランチを過ごした後、ヴェロニカは早急に提出を求められている課題があると言って、午後の訓練まで別行動することになった。罰が厳しいことで有名なレイヴン・アーデルハイトの講義で出された課題らしく、絶対に締め切りを破るわけにはいかないと戦々恐々としていた。あのヴェロニカにも怖いものがあるのかと思うと、七緒は少しだけ可笑しかった。
七緒は食堂の料理をフードボックスに詰めると、それを提げて学校の西棟の裏手に回り、奥にある医院のそばを通り抜け、白い花を浮かび上がらせるようにして咲かせているモクレンの木をまっすぐに目指した。そこには予想していた通り、ティナが先にやって来て白猫のリーラにご飯を上げていた。七緒はさっそくティナへ声をかける。
「ティナ!」
「ナナオ……今日も来てくれたのか?」
嬉しそうに七緒を見上げるティナに、七緒はフードボックスを掲げて見せる。
「うん、リーラの様子が気になって。私も食堂からご飯を持ってきたんだけど……どれをあげていいか分からないの」
「うーん……私もそんなに詳しいわけじゃないしな。図書館に行けば調べることもできるけど……」
「図書館 ……? オラシオンには図書館もあるの?」
オラシオンには様々な施設や塔があるから、ここへ来てまだ日の浅い七緒はすべてを把握しているわけではなくて、図書館があるなんて初耳だ。驚いて聞き返す七緒にティナは頷く。
「あるぞ。すごく大きい建物で本もいっぱい置いてある。ただ……出入りは厳しくてレイヴンの許可が必要なんだ。図書館で何をしたか、どういう本を閲覧したか事細かに報告しなくちゃいけなくて、嘘をついたら罰が課される。でも、リーラのことをレイヴンに知られるわけにはいかないから……」
「そっか……それじゃ、図書館で調べるわけにもいかないね。どうしよう……私、余計なことをしたかな?」
「そんなことない。……そうだ! こうなったらリーラに直接選んでもらおう!」
「リーラに?」
「ああ! 私はリーラと話せるから、リーラにどれなら食べれるか教えてもらうんだ!」
七緒はしゃがみ込んでフードボックスを開け、リーラの目の前でその中身を広げてみる。リーラは紫の瞳でティナを見つめながら「みゃう、みゃう。みゃあぁ!」と嬉しそうに鳴くと、ティナがそれを翻訳してくれた。
「ええと……ブロッコリーとトマトを食べたいって言ってるぞ。あと鶏肉を蒸したのもだ」
「分かった。これとこれね?」
七緒はフードボックスの蓋を切り取って皿にすると、その上にブロッコリーやトマト、蒸し鶏を取り出して並べた。蓋の皿を差し出すとリーラは「にゃあん!」と鳴いて、さっそくおいしそうに食べ始める。ティナと七緒は互いに顔を見合わせて笑った。
「ナナオ、リーラはおいしいって言ってるぞ」
「本当? 良かった!」
「リーラが言うには、オラシオンにはネズミがいるけど、あいつらは怖いから手が出せないんだって。だからリーラは食べるものが無くて、いつもお腹を空かせているんだ」
「ネズミが怖い……? 猫なのに?」
何となく猫はネズミを食べるものというイメージがあるせいか、猫がネズミを怖がるなんて、七緒はいまいちぴんと来ない。
「よく分からないけど……オラシオンのネズミは凶暴なのかもしれないな。私もネズミの姿は何度か見たことがあるけど、話したことはない。何て言うか……不愛想で冷淡な奴らなんだ。ネズミはお調子者でおしゃべり好きな奴が多いんだけど……」
「ふうん……動物の世界にもいろいろあるんだね」
「だから、ナナオがご飯を持ってきてくれて、すごく助かるって言ってる」
「そう言ってくれて嬉しい。いっぱい食べて早く良くなるといいね」
「うん、そうだな!」
リーラの背中を優しく撫でるティナの隣で、七緒も見よう見まねでリーラの頭をそっと手で触れてみたけれど、真っ白な毛は見た目通り、とてもふわふわで柔らかい。
七緒は思い切ってここへ来て良かったと心から思った。偶然とはいえティナの秘密を暴いてしまって、本当は煙たがられているのではないかという気持ちもあったし、余計な事をしているのではないかと不安もあったけど、ティナは七緒の手助けを純粋に喜んでいるみたいだし、リーラも体を触らせてくれるほど七緒に心を許している。
ところがティナは不意に悲しげな表情をしてつぶやく。
「でも……リーラが元気になったら、お別れしなくちゃだな」
「えっ……どうして?」
「オラシオンでは猫が飼えないし、この辺りには猫が住めそうな場所も無いから、リーラは足の怪我が治ったらオラシオンから去っていくと思う」
「スィスィアの森は? ああ……でも、魔女が出没するからとても危険だよね……」
「それもあるけど……スィスィアの森には動物がほとんど生息していないんだ。樹木はいっぱい生えているけど、シカやウサギ、ネズミといった小動物が全然いなくて、だから小動物を食べるフクロウやオオカミもいない。理由はよく分からないけど……」
言われてみればその通りで、スィスィアの森はあれだけ緑が豊かなのに、いつも不気味なほどしんと静まり返っている。魔女討伐の時も同様だ。夜の森ではミミズクや蛙の鳴き声が聞こえるものだけど、そういった生き物の気配が恐ろしいほどしない。それも七緒がスィスィアの森に好感を抱けずにいる理由のひとつだ。
「……餌となるものがほとんど無いから、リーラがオラシオンで生きていくのは難しいと思う」
「そうなんだ……」
猫は雑食で比較的なんでも食べるとはいえ、食べるものが無ければさすがに生きてはいけない。リーラはこのままずっとオラシオンにいるより、足の怪我が治り次第、もっと安全で食べ物の豊富な場所へ行ったほうが幸せなのだろう。
「少し寂しいけど……しょうがないな。それよりはリーラに回復して欲しいし。早く元気になるんだぞ、リーラ」
「にゃあぉん!」
「ティナ……」
リーラを見つめるティナの瞳は優しいものの、一抹の悲しみも見て取れた。気丈に振舞っているけれど、やはり別れの寂しさは隠しきれないのだろう。七緒はそんなティナにどう声をかけていいのか分からなかった。ティナはリーラが元気になるよう甲斐甲斐しく怪我の手当てをし、食べ物の世話までしているのに、リーラの回復が早まるほどお別れも早まってしまうなんて。
(そんなの……ティナが可哀想)
けれどティナはそんな湿った空気を振り払うように明るい声で言う。
「何だかしんみりしちゃったな。……ああ、そうそう! 私が生まれた村にも野良猫がいたんだ。リンゴが大好きでよく食べていたから、ベッキーと一緒にポムって名前をつけた。ただ、ポムはすごい食いしん坊で、リンゴを食べ過ぎてお腹を壊すこともあったから、注意してあげなきゃだったけど」
「猫ってリンゴを食べるの?」
「うん。村の外には森があって、冬になると野生のリンゴが採れるんだ。ちょっと酸味が強いけど、ジャムにしたりソースにしたり……パイに入れたら酸味と甘みが絶妙に合わさって最高なんだ。冬になるとベッキーと二人で森へ行ってはよくリンゴを採ってた。それが村の子どもの仕事だったから……そのおすそ分けをポムにもあげてたんだ」
「ふふ、リンゴのパイかあ……おいしそうだね。ティナの故郷では定番のお菓子なの?」
すると、いつも眠たげなティナの顔に、意識しなければ見逃してしまいそうなほど小さな笑みが零れる。
「ああ、ママの作ってくれるアップルパイは私たちにとってご馳走だった。パイの生地がサクサクでシナモンがたっぷりきかせてあって……ベッキーも大好きだったな」
七緒の故郷である和国でもリンゴは採れるけれど、生で食べるのが普通だから、野生のリンゴを採ってきてジャムやソースを作るなんてちょっと珍しい風習だ。こうして異文化の生活を聞くのは自分の知らない世界を覗き見るようで楽しい。ティナの話に興味をかき立てられた七緒は、さらに質問を重ねる。
「ティナの故郷ってどんなところ?」
「故郷は……もうないんだ。内戦に巻き込まれて、焼けてしまったから」
そう小さくつぶやくと、ティナはうつむいてしまった。ふと訪れた静寂に、少し強い風が木立の間を吹き抜けて、白いモクレンの花びらを散らしてゆく。
「内戦……? デュシスには魔女の脅威はあっても戦争は無いって聞いていたけど……サンティ=ルクス王国の現王・ユースティティア十七世の時代になってからは平和そのものだって……」
ティナの話が信じられないわけでは無いけれど、あまりに衝撃的な話に七緒は声が擦れるのを抑えることができなかった。
「確かにデュシス全体を巻き込むほどの大きな戦争はないけど、辺境では貧しさから今でもしょっちゅう争いが起きている。疫病が流行ったり、作物が穫れなくて飢饉になったり……それが原因で暴動が起こって、ひどい時には内戦に発展することもあるんだ。ただ、あまり知られていないだけで……」
「それじゃ、ティナの家族も……?」
嫌な予感に押し潰されそうになりながらも、七緒は尋ねずにはいられなかった。
「……ママもパパも内戦に巻き込まれて死んでしまった。ベッキーの家族もそうだ。私たちは孤児になって、たった二人でデュシスをさまよい歩きながら生きてきたんだ」
「そうだったの……ごめんなさい、無神経なことを聞いてしまって」
悪いことを聞いてしまっただろうか。沈んだ声で謝る七緒にティナは小さく首を振る。
「いいんだ。ずっとベッキーと一緒だったから寂しくはなかったし」
ティナはそう明るく言って笑顔を見せるけれど、無理をしているのが丸分かりで、自分のことでもないのに七緒は胸が痛くなるようだった。それでもティナの過去を知らなければ良かったとは思わない。もう七緒は何も知らない鳥籠の中の鳥だった頃とは違う。自分の事も、ヴェロニカのことも、第二部隊の仲間のことも、もっと知りたいと願ったのだから。




