三十一話 隠し事
次の日、午前の講義を終えた七緒は、いつものようにヴェロニカと合流してから食堂へと向かった。昨日は数学の補習があったから昼食を別々に取ることになったけれど、そういった用事がなければヴェロニカとお昼を一緒に過ごすのが、最近の七緒の日課となっていた。カウンターに並んでガラスケースの中にずらりと並ぶ料理の数々を見つめながら、七緒はふとティナやリーラのことを考えた。
(ティナは今日も白猫のリーラへご飯をあげに行くのかな? 私も何か手伝えたらいいんだけど、どうすれば……そうだ!)
ティナはリーラにパンくずをあげていた。おそらくリーラは食べる物に困っているのだろう。だったら、七緒もリーラにご飯をあげるくらいならできるのではないか。
そう思いついて、七緒はいつもより多めにメニューを注文する。そんな七緒の様子に気づいたヴェロニカは驚いて目を瞠った。
「ナナオ、今日はやけにたくさん食べるんだな。いつもはもっと小食なのに……どうしたんだ?」
ヴェロニカが驚くのも無理はない。普段の七緒はヴェロニカが心配するほど小食なのだ。
「あ、ううん……さすがに全部を食べるつもりじゃないよ。持ち帰りのフードボックスに入れて、後で食べるつもりなの」
食堂ではランチボックスとは別にフードボックスも置いてあり、注文した料理を全部食べ切れなかった時などに、フードボックスに料理を詰めれば持って帰ることができる。七緒はフードボックスに料理を詰めて、白猫のリーラの元に持って行こうと思いついたのだ。
(でも……猫って何を食べるのかな? 玉ねぎやニラは絶対に食べさせては駄目だと聞いたことがあるけれど……ほかに何が駄目で何が好きなのかよく分からない。和国の猫は魚を好んでいたけれど、デュシスの猫が同じように魚を好むとは限らないし……)
何だかあれもこれも駄目なような気がしてきて、七緒はすっかり困ってしまった。猫の食べ物を手軽に調べられたらいいのに、オラシオンにはそんな手段も無い。頭を悩ませる七緒を目にしたヴェロニカが再び声をかけてくる。
「どうしたんだ、ナナオ? 何をそんなに悩んでいるんだ?」
「それがね……」
ついリーラのことを口にしかけた七緒は、はっとして口を閉じる。
(そういえばティナに口止めされているんだった。リーラのことはヴェロニカにも黙っててほしいって……!)
――リーラのことは絶対に誰にも……ベッキーやヴェロニカにも内緒だからな。
懇願するように真剣な表情で頼みこむティナの姿が、七緒の脳裏に蘇る。他の黒猫ならともかく、ベッキーにまで秘密にするのは何だか警戒しすぎのような気もするけれど、それがティナの意志であるなら七緒も尊重したかった。ティナは勇気を出して秘密を打ち明けてくれたのだ。その気持ちを裏切るようなことはしたくない。
急に黙り込んでしまった七緒に、ヴェロニカは訝しげな表情をする。それに気づいた七緒は慌てて口を開いた。
「えっと……ううん、何でも無いの! どれにしようか迷っちゃって……本当にただそれだけ!」
「……そうなのか? それじゃ俺は先に席に座ってるぞ」
「う……うん、ごめんね」
すでに料理を選び終えているヴェロニカを待たせてしまったのが申し訳なくて、七緒は曖昧に笑って立ち去るヴェロニカを見送った。けれど、ヴェロニカの揺れる美しい蜂蜜色の髪を見つめていると、不意に胸にちくりとした痛みが走る。
(ティナと約束したから仕方がないけれど、ヴェロニカに隠し事をするなんて……何だか嫌だな。もし私がヴェロニカから隠し事をされたら、どんな内容であろうとすごく嫌だもの……ヴェロニカはどう思うんだろう? 私が隠し事をしていたら嫌? それとも平気?)
考えれば考えるほど心苦しくてたまらなくなる。胸のあたりがずしりと重苦しくて、心臓がきゅっと縮み、呼吸まで止まってしまいそうだ。
七緒だったら、ヴェロニカに隠し事されるなんて絶対に嫌だ。もし隠し事をされたら居ても立ってもいられないし、ショックのあまり寝込んでしまうかもしれない。大袈裟に聞こえるけれど、それくらい動揺してしまうような気がする。もちろん、七緒としてもヴェロニカに包み隠さず何でも打ち明けるつもりだ。それなのにヴェロニカに隠し事をしなければならない状況に陥ってしまうなんて。
(私は聖杯でヴェロニカは剣。本当は何でも話し合って打ち明けたい。だけどティナと約束した以上、破るわけにもいかないし……)
モヤモヤしたまま取り敢えず昼食のメニューを選ぶと、七緒はヴェロニカの元へ向かった。
見るからに意気消沈し、肩を落とした七緒がとぼとぼとやって来るのを見て、ヴェロニカは心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫か、ナナオ? どこか具合が悪いのか? 医院へ行くなら付き添うぞ?」
七緒はぎくりとして慌てて首を振った。
「だ、だだ大丈夫! 全然平気だから!」
「……本当か? さっきから様子が変だけど……熱でもあるんじゃないのか? ほら、じっとして」
真向いにいるヴェロニカは椅子からわずかに腰を浮かせると、七緒の額にそっと右の手の平を重ねる。熱があるかどうか、七緒の体温を測っているのだろう。その動作があまりにも自然な流れだったから、七緒は完全に不意を突かれて真っ赤になってしまう。ヴェロニカの手の平の冷やりとした感覚が直に伝わってきて、頬が余計に赤みを帯びる。
「な、何でもないの! 本当の本当に何でも……だから心配しないで‼」
慌てて両手を振りながら身を引く七緒に、ヴェロニカはさらに身を乗り出してくる。
「いやでも、ナナオ……どう考えてもちょっとヘンだぞ? 本当に大丈夫なのか?」
(あ、あわわわ……! ど……どうしよう……‼)
七緒はパニック状態に陥ってしまった。何か言わなければと思うものの、上手く言葉が出てこない。ゆでダコのように耳まで赤くなって、縮こまるばかりだ。
ヴェロニカに嘘はつきたくないし、本当の事を話したい。けれどティナとの約束を破るわけにもいかない。
この場だけでも切り抜けようと誤魔化してみたけれど、どうにも焦ってしまって、逆にヴェロニカを心配させてしまう。本当は七緒に何かあったのに、言いたくても言い出せないのではないかと。
少し前なら、こうしてヴェロニカが七緒に関心を寄せることもなかった。最初のただただ険悪だった頃にくらべると、七緒とヴェロニカの関係は明らかに好転している。それが分かっているからこそ、七緒はもどかしくてたまらないのだった。
ヴェロニカが心配してくれているのに、自分は彼女に嘘をついている。本当の事を打ち明ける勇気が持てずに、誤魔化すことばかり考えている。
(これで良いのかな……私のしてることは『正しい』んだろうか)
ヴェロニカの聖杯になると決めたのに。胸を張って彼女の隣に並び立てるようになりたいと願ったのに。その決心を欺いているような気がしてならない。
かと言ってティナを裏切ることもできない。ティナはリーラのことを剣であるベッキーにも内緒にしているのに、「七緒なら」と大事な秘密を明かしてくれた。七緒ならきっと約束を守り、リーラのことを内緒にしてくれると信じて。それなのにティナの信頼に背くようなことはできない。
ヴェロニカに秘密を作るのは心苦しくてたまらないけれど、ティナを裏切るのも同じくらい辛い。いったいどうしたらいいのだろう。
とにかく何か言わなければ。ヴェロニカを安心させて、それでいて偽らずに済む言葉を。けれど、そう簡単に妙案が出てくるはずもなく、だんだんヴェロニカの目を直視できなくなって、七緒は小さくうつむいてしまう。
何だか自分がとてつもなく情けなくなって――気づけば七緒の瞳には涙が浮かんでいた。
「ナナオ……」
「あ、あれ? こんなことで泣くなんて変だよね。ご……ごめん、ヴェロニカ……私……!」
ヴェロニカが碧玉の瞳を軽く見開いて驚いた顔をしたので、七緒も目元に浮かんだ涙に気づいた。小さな子どもみたいに泣きだしてしまうなんて、あまりにも恥ずかしい。
七緒は慌てて目元を拭った。こんな事でヴェロニカを困らせたくないのに。せっかく――ヴェロニカが歩み寄ってくれたのに。
黙って七緒を見つめていたヴェロニカは、小さく息をついて言った。
「……分かった、この話は無しにしよう」
「ヴェロニカ……?」
もしかして怒ってしまったのだろうか。うじうじしている七緒に愛想を尽かせてしまったのかもしれない。七緒がびくりとして顔を上げると、優しく微笑むヴェロニカの顔が目に入った。
「もうこれ以上は何も聞かない。せっかくの昼休憩なんだ、今は食事を楽しもう……な?」
決して七緒にあきれ果てたわけではなく、思いやりからくる言葉だと分かるくらい、ヴェロニカの瞳は温かい。ヴェロニカと視線が交差するだけで全身の緊張が解けて、まるで春の陽ざしを浴びた時のように温もりが体の奥まで染み込んでくる。
「……ありがとう、ヴェロニカ。……ごめんね」
「はは、七緒は大袈裟だな。ただ……本当に困っていることがあるなら遠慮なく相談してくれ。オレたちはパートナーなんだから」
「……うん」
ヴェロニカの優しさが何だかくすぐったくて、七緒は小さくはにかみながら頷く。
「ほら、しっかり食べておかないと午後の訓練がもたないぞ。そういえば……そろそろチーム戦が行われる季節だな。早ければ今日あたり、チーム分けが行われるかもしれない」
「チーム戦……ってなに?」
「ああ、ナナオはチーム戦、初めてだったな。黒猫は剣と聖杯の二対で一組と数えるだろう?」
「うん」
「まず第二部隊に属する黒猫の組を四つ、人数に換算すると八人ずつ集めて一つのチームを作る。するとだいたい六チームできるから、その六チームで対抗戦をするんだ」
「私たちはどの組とチームになるんだろう?」
「チーム分けはあらかじめ、くじを引いて決めるんだ。勝ち抜けるかどうかはそれぞれの組の実力はもちろん、チームになる組との相性も関係してくる。剣タイプの俺たちは近距離戦が得意だから、遠距離戦タイプの組と一緒になれたら有利だな。槍タイプのロビン=クロエ組 とか、弓タイプのベッキー・ティナ組と組めたら、かなり楽になる」
「そうなのね。もし同じ近距離型の組と一緒になってしまったら?」
「それはもう……運が悪かったと思って突っ込んでいくしか無いな」
「それじゃ……勝てるかどうかはクジ運次第ってことになるんじゃない?」
「レイヴン・レティシアによると、それも訓練なんだそうだ。どんな状況でも柔軟に戦えるように、対応力を鍛える意味もあるらしい。まあ、最後にものを言うのは根性ってことじゃないか?」
「ふふ、ヴェロニカらしいね」
「気合と根性だけは誰にも負けない自信があるからな。……頑張ろうな、ナナオ!」
「うん! 私もやるからには絶対に勝ちたい!」
ヴェロニカは勝気そうな蒼穹の瞳に力強い笑みを浮かべた。その笑顔につられるように、ようやく七緒にも笑みが零れた。ヴェロニカはあえて別の話題を盛り上げることで、七緒を励まそうとしてくれたのだろう。その気遣いに七緒は心から感謝した。
ヴェロニカの言葉の端々から彼女が聖杯である七緒を大事にしてくれるのが伝わってきて、それがたまらなく嬉しい。
そう、嬉しいはずなのに――心の隅からじわじわと寂しい気持ちがわき上がってくるのに七緒は気づいた。
(あれ……?)
この気持ちは何だろう。ヴェロニカの優しさが飛び上がるほど嬉しいはずなのに、何故こんなにも胸が締めけられるような寂しさを感じるのだろう。
(私……やっぱり変。ヴェロニカが私の気持ちを尊重してくれたんだと分かっているのに、何だかヴェロニカが遠く離れてしまったみたいで……寂しいだなんて)
相反する、この矛盾した感情は何なのだろう。七緒は心の中でぶつかり合う二つの感情にひどく戸惑ってしまう。
(ええと……私はヴェロニカに嘘をついてしまうのが嫌で、でもティナとの約束があるから本当の事は言えなくて、ヴェロニカはそんな私に無理に話さなくても良いと言ってくれた。私の気持ちを慮ってくれたヴェロニカに応えたいと思ったし、彼女に余計な心配をさせてはいけないと思っていたけれど……それは私の本心じゃない……?)
思いがけない結論に七緒はどきりとする。
(もしかして私……ヴェロニカが心配してくれて嬉しかった? ヴェロニカが私のことだけを見つめてくれて……本当は痺れるほど嬉しかった……?)
心の奥底に眠る感情に触れて、七緒はしばらく愕然としていたけれど、自分でも驚くほど狼狽してしまった。普通は大切な人には迷惑をかけたくないと思うものだし、心配させて申し訳ないと思うものではないだろうか。それなのに七緒は、ヴェロニカが自分を案じてくれたことを心の中で喜んでしまった。
おまけにヴェロニカの視線を永遠に独り占めできたらいいのに――とすら思ってしまった。まさか自分の中に、こんな自己中心的な感情が存在していたなんて。
しかし、一度気づいてしまったからには、もう見なかったことにして誤魔化すなんてできない。
(……ヴェロニカに私だけを見ていて欲しい。それが私の偽りのない本音なんだ。……私、ヴェロニカのことになるとワガママになる。彼女のことを知れば知るほど、どんどん欲張りになってしまう……)
林檎のように真っ赤になったり、わけもなく泣き出してしまったり、七緒はヴェロニカを前にすると子どもじみた振る舞いをしてしまう。そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、もっと毅然としたいと思うのに、そんな自分を止められない。
こんなワガママ、一ノ瀬神社にいた時は絶対に許されなかった。一ノ瀬神社では神社を背負う巫女として常に己を厳しく律し、巫女として完璧に振舞うため日々、研鑽を積まねばならなかった。だから、たとえ家族であっても甘えたり過剰な愛情を求めたりしてはならなかった。七緒もそんな気持ちを抱くことはなければ、誰かの愛情を欲しがることも無かった。
でもヴェロニカを前にすると、そんな『一ノ瀬七緒』はどこかに吹き飛んでしまう。ヴェロニカの視線をもっと浴びたい。ヴェロニカを自分だけのものにしたい。その想いをどうしても抑えきれなくなる。ヴェロニカの前ではそんな素振りは見せないけれど、それが七緒のまごうことなき『真実』だ。
(自分にこんな一面があったなんて……なんだか不思議。まるで生まれ変わったみたいに、ヴェロニカと一緒にいると今まで知らなかった新しい私が見えてくる。ドキドキするし、ちょっと怖いけど……とてもワクワクする……! こんな感覚は初めて……‼)
小さい子供のような自分。ワガママで独占欲が強くて、欲しがりな自分。それが七緒という人間なのだと知りつつも、なぜか不快ではないのが不思議だ。新しい発見と驚きに満ちていて、目の前がさあっと晴れていくような爽快感すら覚える。
ヴェロニカはどうなのだろう。七緒はヴェロニカと会話しながら、ふと考えた。ヴェロニカは以前より七緒に関心を寄せてくれるし、パートナーとして、聖杯として大事に扱ってくれている。
けれど七緒は知っている。ヴェロニカの中で七緒は『一番』ではないことを。ヴェロニカは以前の聖杯――サラのことを忘れていない。彼女の右手の薬指には今も指輪がはめられている。小さなビーズを精緻に編み込み、中央に真っ青な石をはめ込んだ美しい指輪。ヴェロニカはその指輪をいかなる時も、魔女討伐の時にでさえ片時も離さず身に着けている。
七緒は何となく怖くて、その指輪が何なのかヴェロニカに尋ねられずにいた。あれほどヴェロニカが大事にしているのだから、サラの形見だろうと想像しているけれど、はっきりと確かめるだけの勇気がない。ヴェロニカの中からサラがいなくなることは無いと分かっていても、その事実を突きつけられるのは恐ろしかった。
ヴェロニカのことを好きになるほど、サラの存在の大きさに立ち竦んでしまいそうになる。もう一歩が踏み込めなくて、臆病になってしまう。だから七緒は、ただヴェロニカの指輪を見つめることしかできない。
指輪の蒼い煌めきが目に入るたび、七緒は心の奥にずきりとした痛みを感じるのだった。




