第二十話 ランチタイム
教官室を出た七緒は、ヴェロニカと共に学校の階段を下りる途中、ずっとそわそわしていた。今はちょうど昼休憩の時間になる。もしヴェロニカがまだお昼を食べていないなら、一緒に誘ってみたらどうだろうと思ったのだ。
デュシスでは仲の良い人と食事することはよくあるというし、食堂でも中庭でも二人で一緒に昼食を摂る黒猫たちをたびたび目にしていた。これまで誰かと楽しく食事することが無かった七緒にとって、ちょっとした憧れだ。
ヴェロニカと楽しいひと時を過ごすことができたら、どんなに良いだろう。
ところが七緒はなかなか昼食の誘いを言い出せずにいるのだった。
(どうしよう、恥ずかしくて言い出せない……!)
考えてみれば、七緒はこれまでの人生で自分から誰かを食事に誘ったことは一度もなかった。そのせいかひどく胸がドキドキするし、頬も真っ赤なる始末だ。ただ食事に誘うだけのことが、こんなにも勇気がいるだなんて知らなかった。
(私のバカ……臆病者! 恥ずかしがってばかりでは何も進まないのに……!)
愚図愚図していると、ヴェロニカは一人で食堂に行ってしまうかもしれない。とにかく思い切ってヴェロニカに声をかけてみなければ。そう決意した七緒が口を開きかけたまさにその時。ヴェロニカがくるりとこちらを振り返った。
「……ナナオ」
「えっ⁉ あの……何?」
「お昼がまだなら、一緒に食堂で食べないか?」
「……」
思いもよらぬ事態にぽかんとしている七緒を、ヴェロニカは不思議そうに見つめ返す。
「どうした?」
その声にはっと我に返った七緒は、慌ててぶんぶんと頭を振った。つい呆然としてしまったことに若干の気恥ずかしさを覚えつつも、ヴェロニカに微笑み返した。
「……ううん、私も同じことをヴェロニカに言おうと思っていたの。一緒にお昼を食べようって」
「何だ、そうだったのか!」
ヴェロニカは嬉しそうに笑った。どことなく、ほっとしたように見えるのは気のせいだろうか。もしかしたらヴェロニカも七緒に声をかけようとして、少し緊張していたのかもしれない。
(ヴェロニカもきっと……私と同じなんだ)
おそらくヴェロニカも、七緒との距離を手探りで模索しているのだろう。こうして食事に誘ってくれたのも、きっとヴェロニカも七緒とうまくやっていきたいと思っているからだ。七緒のことをもっと知りたいと思ってくれている。そう考えると七緒はじわじわと喜びがこみ上げてきて、何だかちょっとだけ背中がこそばゆい。
七緒とヴェロニカはさっそく二人して食堂へと向かった。レティシアに呼び出されたこともあり、遅い時間帯に出向いたのが幸いしてか、食堂は混雑のピークが過ぎ、人もまばらになり始めていた。
七緒とヴェロニカはまず食堂の入口近くにあるカウンターへと向かった。そこにはガラス張りのショーケースがあり、中には大皿に盛られた料理がいくつも並んでいる。カウンター越しに注文をすると、奥にいる食堂のおばさんがトレイに料理を盛り付けてくれるのだ。
メニューは日替わりだけれど、だいたいパスタや肉料理、ジャガイモ料理、サラダやマリネなどが並んでおり、シチューやスープは注文したらスープ皿に盛ってくれる。
カウンターの奥には厨房があり、料理はいずれも出来立てだ。いつでも温かい料理が食べられるところが、食堂が黒猫たちに人気がある理由のひとつだ。パンも焼きたてで、堅いものから柔らかいもの、小麦だけのパンからライ麦パンや雑穀パンまで、さまざまな種類のパンが籠に入って並べられている。
ただ、七緒にとって食堂は一つだけ問題がある。確かにメニューが豊富なのは有難いのだが、デュシスにやって来たばかりの七緒は、どれを選んだら良いか分からない。中には味がまったく想像できないような料理まである。
おまけに食堂には七緒の好きな米料理がほとんどない。そもそもデュシスでは米食が一般的ではないらしい。七緒が食堂を避けてきたのは、そういった理由もあった。
何を注文しようかとショーケースの向こうを睨みながら迷っていると、ヴェロニカが七緒に声をかけてきた。
「ナナオ、どうかしたのか?」
「あ、うん。どれにしようか迷っちゃって……何を選んだら良いか分からないの」
七緒がそう答えつつヴェロニカの手元を見ると、彼女は料理の盛られたトレイを手にしていた。すでにメニューを注文し終えたらしく、ヴェロニカのトレイには切り分けられたローストポークにペンネのトマトソース炒め、サラダなどが盛られている。
「そうだな……チキンかポークをメインで、ジャガイモかパスタ、それにサラダ……最後にパンをつけるのが基本だな」
ヴェロニカがアドバイスしてくれたので、七緒はそれに従ってみることにした。よく分からない料理もあるけれど、味が想像できるものもあるから、その中から自分なりに美味しそうなメニューを選んでみた。
「えっと……それじゃあ、チキンとパプリカの香草焼きと、チーズ入りのマッシュポテト、それから……七種の野菜サラダをお願いします」
「はいよ!」
七緒が注文をすると食堂のおばさんはニカッと豪快に笑い、手早くトレイに料理を盛り付けてくれた。七緒がトレイを受け取ると、おばさんはパチンとウインクをする。
「パンはクロワッサンがおすすめだよ。あそこにくるくる巻いたパンがあるだろ? ウチの食堂じゃ、一番の人気なんだ」
「そうなんですか……美味しそうですね」
そこで七緒はおすすめされたクロワッサンをトングに取ってトレイに乗せた。ヴェロニカが選んだのはハート形のパンで、プレッツェルという名前らしい。
料理を選んだ後、七緒とヴェロニカは窓側のテーブル席に行き、二人で向かい合って座った。窓の向こうの中庭では、すでに食事を終えた少女たちが集まっておしゃべりをしたり、球技に夢中になっている姿も見える。
それからヴェロニカと七緒は両手の指を組み合わせると食前の祈りを捧げた。
『女神ファートゥムよ、今日もこうして食事ができますことを、あなたに感謝します』
『……感謝します』
ファートゥムは歴史上に実在した人物で、デュシス大陸を魔女の支配から解き放ち、現在の王朝を築いた始祖となる女性であるらしい。今では神格化されて、デュシスでは広く信仰の対象となっている。
特にオラシオンでは個人で信仰する宗教が何であれ、それとは別に女神ファートゥムを崇拝するように指導されている。それはオラシオンが女神ファートゥムと縁の深い地であるからだ。
ファートゥムが魔女と戦い、虚海に退けた際、その拠点として作られた砦がオラシオンだったという伝説が残されている。つまりファートゥムがいなければオラシオンも存在しなかった。その為、黒猫には食前や寝る前に女神ファートゥムに祈りを捧げることを義務付けられている。
巫女の家に生まれた七緒はこういった祭事には慣れているので、それほど抵抗はない。もちろん一ノ瀬神社の神はファートゥムとはまったく違うから、突然、新しい神様を敬うことに多少の違和感はあったけれど、それがデュシスでの礼儀作法の一つなのだと七緒は納得していた。
女神ファートゥムへの祈りが済んだら、ようやく食事になる。選んだ料理はどれも癖のないあっさりした味付けで、七緒の口にもよくあった。時おり、びっくりするくらいハーブや香辛料を効かせてある料理や、慣れない味にぎょっとすることもあるけれど、今日のメニューはどれも『当たり』だ。
一方のヴェロニカは見るからに香辛料の効いた、辛そうなペンネを口に運んでいる。
「ちょうど席が空いてて良かったな。昼間はひどく混雑するから待たされることも多いんだ」
「う……うん、そうだね……」
突然話しかけられて、七緒はぎこちなく答えた。するとヴェロニカは少し驚いた顔をして七緒を見返す。
「どうした? 口に合わないか?」
料理がおいしくないのかと、ヴェロニカにいらぬ心配をさせてしまったようだ。七緒は慌てて小さく首を横に振ると、口の中のパンをのみこんだ。
「あ、ううん。そうじゃないの。その……私の実家では食事中に会話をしてはいけなかったから、こういうの、まだ慣れてなくて」
するとヴェロニカはますます訝しげな表情になってしまった。
「会話をしてはいけない……? 食事中に? 和国ではそれが普通なのか?」
「そうじゃないの、私……特別だったから」
「特別……?」
ますますわけが分からないといった顔をするヴェロニカに、七緒は事情を打ち明ける。
「私ね、和国では巫女だったの」
「巫女って……シャーマンみたいなものか?」
厳密には違うのかもしれないが、およその認識は合っているだろうと七緒は思う。神の魂を時に鎮め、祀り、穢れを祓う。この世で最も清く、神聖でなければならない存在だ。
「たぶん、そうだと思う。神様に仕える身だったから、たくさんのしきたりや、守らなきゃいけないルールがあって……自由はほとんどなかったの」
楽しく会話を交わしながら食事をする。それすらも七緒にとっては不慣れで難しいことだ。そもそも食べることも話すことも口を使う。どのタイミングで料理を食べ、どのタイミングで話せばいいのだろう。周囲の少女たちは当然のように食事と会話を両立させているけれど、七緒にとってはなかなかに難しい芸当だ。
思いも寄らぬ七緒の過去に、ヴェロニカはひどく面食らっていたけれど、やがて何かを納得したように頷いた。
「そうなのか……確かにナナオは、ちょっと変わっているというか、浮世離れしているところがあると思っていた。最初はお嬢様なのかと思っていたが、そうか。巫女だったのか……」
「正確に言うと、巫女になり損なって和国から追い出されたの」
するとヴェロニカは、まるで自分の事のようにムッとする。
「……それはひどいな。巫女は大切な役目かもしれないが……なれないからと言って追い出されるのはおかしい」
「私も最初はそう思ってた。こんなの酷いって。でも……今は巫女になれなくて良かったと思っているの。だって私、和国にいたらずっと変わることができなかった。誰とも話さず、何かあるとすぐうつむいて……そういう生き方を捨てられなかった。だからデュシスに来たことは、私自身にとって良かったと思っているの」
それは七緒の本心だった。デュシスには実家には無かった自由がある。それは自分の事を自分で決めることができる自由だ。そこに不安や戸惑いが無いわけではないものの、和国にいたら絶対に手に入れることのできなかったものだ。
七緒が変わりたいと思ったのも、デュシスに来てヴェロニカに出会ったからだ。今ではデュシス留学を一方的に決めた大祖母に感謝しているくらいだ。
ヴェロニカは明るく笑う七緒を見て、眩しそうに微笑んだ。
「……そうか。ナナオは強いんだな」
「全然……そんなことないよ」
七緒は強くなんかない。ただ以前と違うのは、七緒は強くなりたいと思うようになった。自分は弱くて、駄目なところもあるけれど、それでも諦めず、変わっていきたい。そう思えるようになったのは、ヴェロニカに出会えたからだ。
ヴェロニカはローストポークを一切れ、口に運んで言った。
「オレは普通に村の子どもだったから、そういう生活は想像がつかないな」
「ヴェロニカの育った村って、どういうところ?」
ヴェロニカの事をもっと知りたい。七緒はその一心で尋ねたのだが、どうやらあまり良くない質問だったらしく、ヴェロニカはふと視線を伏せてしまった。
「貧しい村だったよ。オレはそこでの生活が嫌で嫌で……いつかは出て行きたいと思っていた。だから自分に魔法があるって分かった時、進んでオラシオンに来ることを志願したんだ」
はっきりとは口にしなかったが、ヴェロニカは故郷の村をあまり良く思っていないようだ。村の話をする時のヴェロニカはとても苦しそうだったし、その話を続けたくないように見えた。何か辛く哀しい思い出があるのかもしれない。
「ヴェロニカ……」
「すまないな、食事中にする話じゃなかった」
ヴェロニカは無理をしたように笑うと、食卓の重苦しい雰囲気を払い除けるかのように、自分のトレイの上に載っているプチトマトをフォークでつついた。
それを見つめていた七緒は、我知らずつぶやいていた。
「……私たち、一緒だね」
「え……?」
「私もね、たぶん……ずっと出たかったんだと思う。鳥籠みたいな世界から出たい。どこか遠くに行きたいって、ずっと思ってた。故郷ではそういう事を言ってはいけなかったから、漠然と感じていただけだったけど……。だからオラシオンに来て、ヴェロニカに出会えて……本当に良かった」
七緒の一ノ瀬家での記憶があまり良いものではないのと同様に、ヴェロニカも故郷で苦しい思いをしていたのかもしれない。けれど、それはもう過去の話だ。無かったことにはできないけれど、前を向いて歩き出すことはできる。
七緒が笑顔を見せると、ヴェロニカは虚を突かれたように目を見開いて、ゆっくりと淡く微笑む。窓から差し込む光が、見つめ合う七緒とヴェロニカを柔らかく包み込んだ。
「……うん、そうだな。オレもナナオと出会えて良かった」
ヴェロニカの中には、まだサラがいるのだろう。ヴェロニカは、七緒の前では絶対にサラの話をしない。七緒を新しい聖杯として認めているからこそ、前の聖杯の話は極力しないようにしているのだろう。七緒は何となくそういう気がするのだ。
それでも構わない。今はこうして自然に会話ができるだけで十分だ。七緒はヴェロニカことが知りたい。ヴェロニカもまた七緒のことを知りたいと思ってくれている。七緒にとっては、それが何よりも嬉しくて、ただそれだけで幸せなのだった。




