第一話 東方から来た少女
「……怖がることはないのよ。最初はちょっと慣れないかもしれないけれど。調査結果によると、あなたの魔力は平均値以上だし、これは十分、自信を持って良いことなのよ」
「あ……はい……」
遠慮がちに答えていると、北から乾いた風が吹いてきて、一ノ瀬七緒は二つにまとめたお下げを、あわてて両手で押さえた。渡り廊下に吹きこむ強い風が、七緒の髪を無遠慮にかき回していく。思わず顔をしかめてしまったけれど、すぐに建物の中へと入ることができたので、髪はそれ以上、乱れずにすんだ。
密かに、ほっと息をつく。七緒の髪は真っ直ぐなのだけれど、伸ばすとふんわり膨らむので、扱いが少々やっかいなのだ。風で乱れると、なかなか元に戻すのが難しい。それでも、その長くてふんわりしたお下げは、七緒にとって無くてはならない大事なものだ。
そう――このお下げは、七緒の大事な『避難場所』なのだから。
(すごい……大きな建物……)
七緒は右手ですばやく乱れた髪を整えると、目の前にあらわれた荘厳な石造りの天井を見上げた。幾重にも連なって幾何学模様を描くアーチ。規則的に並べられた真っ白な円柱。縦長の窓には色とりどりのガラスがはめ込まれており、どうやらステンドグラスと言うらしい。
ここの建物はどれも天井が高い。木造の平屋で過ごすことが多かった七緒には、高すぎて落ち着かないくらいだ。分厚くて高い壁 や巨大な柱に囲まれているせいか、建物の中はどこも薄暗い。大きな半円の窓から光が差しこむようになっているけれど、壁のほうが圧倒的に面積が広いから、日光が十分に入らないのだろう。
おまけに見渡す限り、壁も天井も柱も床も、すべてが石でできており、木で囲まれて育った七緒には、少しだけ息苦しく感じてしまう。木造家屋は風通しが良かったけれど、石造りの建物には風が無く、空気が沈殿しているように感じられるばかりだ。
(でも……これがデュシス大陸の文化なんだもの。はやく慣れなければ)
そうしなければと頭では分かっていても、違和感はそう簡単には抜けてくれない。七緒は生まれて初めて体験するカルチャーショックに、ひどく戸惑っていた。
居心地悪く感じるのは、建物の中だけではない。
窓の外に目を転じると、他にも石造りの巨大な建物が立ち並び、その向こうにはうっそうとした森が延々と広がっている。木々が密集しているためか黒々として、とても不気味だ。見つめていると、何となく背筋が寒くなってくる。
あの森はいったい何なのだろう。目の前を歩く女性に聞いてみたかったけれど、結局、七緒が疑問を口にすることはなかった。余計なことを口にしてはならない。故郷ではそう厳しく躾けられてきたので、習慣となってしまっているのだ。
七緒を引率しているのは二十代後半ほどの女性で、名前はレティシアというらしい。濃灰色の制服に身を包んでいて、きりっとしているけれど、その眼差しはとても優しそうに見える。時に厳しく、時に優しく見守ってくれる先生。そんな印象だ。レティシアは七緒の前を歩きながら説明を続ける。
「――このオラシオンは、魔女侵攻を阻止するための重要な防衛拠点なの。私たちは残されたデュシスの地を守るため、絶対に魔女の侵攻を食い止めなければならない。あなたは魔女と戦うための黒猫に選ばれたの。そして私はあなたたち黒猫を導くレイヴン……分かるかしら?」
「は、はい……いえ……その」
七緒はしどろもどろになってしまうけれど、レティシアは七緒を責めることもなく、微笑を浮かべる。
「まあ、すぐに飲みこむのは無理よね。オラシオンの生活にも慣れなければならないでしょうし、焦らずにゆっくりやっていきましょう」
七緒のやって来たオラシオンは、デュシス大陸における北部戦線の防衛拠点だ。古い城塞を転用したもので、中央に荘厳な三つの尖塔と時計塔を冠する城があり、その周囲をいくつもの建物がぐるりと取り囲んでいる。
オラシオンの北端にはトイコスと呼ばれる長大な壁が東西に築かれており、その北にはスィスィアの森と呼ばれる黒い森が広がっている。そこはもう《虚海》という世界だ。
人間は足を踏み入れることのできない、恐ろしい《魔女》の世界。
魔女は人間を襲い、魂を奪うと伝えられている、人々にとって不吉で忌々しい存在だ。だから人間は魔女を闘って退け、徹底的に排除しなければならない――――らしい。
しかも嘆かわしいことに魔女の森ーーー《虚海》は年々、拡大の一途をたどっており、今やデュシス大陸の北部のほとんどは《虚海》に覆われてしまっている。もし最後の砦であるオラシオンが魔女に突破されてしまったら、デュシス大陸はあっという間に《虚海》に飲みこまれ、人間の住めない大地になり果ててしまう。
オラシオンの堅牢な城は、人間の世界が魔女によって脅かされているという事実を、如実に物語っていた。
だから魔女とたたかい、《虚海》が広がるのを阻止し、人間の世界を守ることが、黒猫の使命なのだ。
そして魔女とたたかう黒猫たちを率いる指揮官が、レイヴンなのである。
――けれど。
「あの……黒猫、って……何なんですか……?」
あなたは黒猫なのだと言われても、七緒にはどうしても実感が湧いてこない。魔女の姿すらも、この目で直接見たことがないのだ。すべて又聞きで教えられているだけなので、何もイメージすることができない。
余計なことは言ってはならないけれど、必要な質問くらいはいいだろう。そう思って七緒が尋ねると、レティシアは前を歩いたまま、すぐに答えてくれた。
「黒猫というのは、魔女と戦う魔法部隊のことよ。つまりマギアを持った少女のことを『黒猫』と呼んでいるの。ここ――学校にはたくさんの少女たちがいるでしょう? 彼女たちもみな黒猫なの。同時にオラシオンの生徒でもあるわね」
七緒たちがいま歩いている建物は、どこか学校のような雰囲気を漂わせていた。廊下には扉が等間隔に並んでおり、中を覗くと同じくらいの大きさの部屋がいくつも広がっている。整然とならんだ講義机と椅子、真ん中に鎮座する教壇は、まさに教室そのものだ。
廊下を歩くレティシアと七緒の横を、七緒と同じくらいの十代の少女たちが通り過ぎていく。少女たちはみな、揃って灰色の上品な制服を着用している。お揃いの黒いソックスに、黒のローファー。その光景も学校を感じさせる一端なのだろう。みな、ちらちらと七緒に好奇心を湛えた視線を向けるけれど、前を歩くレティシアの存在に気づくと、追い立てられた羊のように去っていってしまう。
「さようなら、レイヴン」、「……失礼します」と、レティシアに向かって丁寧に頭を下げながら。
ちらほらと人影は見えるものの、みな灰色の制服を着た同世代の少女ばかりだ。ちなみに七緒も制服を着ているけれど、少女たちの着ているものとはデザインが違い、色も臙脂色だった。
七緒のデュシス留学は突然決まったため、すぐに制服を用意することができなかったのだ。だから七緒は故郷で着ていた制服を、そのまま着用していた。
「女の子ばっかり……?」
黒猫は魔女とたたかわなければならないというのに、少女ばかりで成り立つのだろうか。七緒が首を傾げていると、レティシアは再び淡く微笑んだ。
「魔法の力は……マギアは少女にしかあらわれない力なのよ。魔女と戦うにはマギアが絶対に必要なの。魔女を打ち倒すことができるのは、マギアの力だけ。だから選ばれる黒猫は必然的に少女が中心となるのよ。けれど、彼女たちの多くは未成年で、普通であれば教育を受けなければならない年代でしょう? それを満たすために、オラシオンは昼間、学校に近い体制を取っているの。あなたも黒猫としての義務さえ果たせば、教育を受ける権利が認められるわ」
七緒はスカートの裾をひるがえし、楽しそうに走り去っていく少女たちを見つめる。
「きれい……私とは、ぜんぜん違う……」
金色や茶色の明るい色をした髪に、アメジストやアンバー、エメラルドといった宝石みたいな瞳。中には褐色肌の少女もいる。デュシスの南には別の大陸があり、そこで生きる人々は茶褐色や濃い褐色の肌が普通なのだと聞いたことがある。南の大陸からも黒猫として、少女が送り込まれているのだろう。
彼女たちの放つ色彩はどれも、七緒の初めて見る色だった。オラシオンの少女たちはみな彩り鮮やかで、キラキラしているように見えて、七緒はつい目を奪われてしまう。灰色のシンプルな制服が、よけいに少女たちの輝きを引き立てているのだろう。
ひるがえって七緒は濡羽色の髪で、目も鳶色だ。自分でもつい、地味だなあ、などと思ってしまう。
「あなたの国は、ケントロン大陸の遠く東にある国なのでしょう?」
レティシアはそう尋ねる。ケントロン大陸は北半球では最大の大陸だ。デュシスはケントロン大陸の西に位置していて、地続きに連なっており、七緒の故郷はケントロン大陸の東の端にある。
「あ、はい。島国で……和国といいます」
「そうそう、ワコク、ね。ワコクでは、その髪は普通なの?」
「はい。ほとんどの人は髪が黒で、年を取ると白くなることもあります」
「ふうん……面白いわね。デュシスではあなたのような漆黒の髪を見つけるほうが珍しいわ。キャメル色やバーントアンバーは珍しくないけど……あなたの髪の色は、それとも違うようだし」
「……はい」
そう言うレティシアの髪の色も、赤みを帯びた明るい栗色だ。七緒にとっては十分、珍しいし、ちょっとだけうらやましい。レティシアの紫がかった灰色の瞳にも、よく似合っている。七緒が上目遣いでその栗色の髪を見つめていると、レティシアがこちらをふり返った。
「デュシスは和国とは反対側……ケントロン大陸の西に位置する大陸だから、あなたの国と真反対の場所にあることになるわね」
「そう……ですね」
「言葉や生活習慣、食文化、何もかもが違うと思うけど、あまり気負わずにね。何かあったら相談に乗るから、いつでも言ってちょうだい。それから……私はあなたの真っ黒い髪も、とても魅力的だと思うけど?」
「は……はい。ありがとう……ございます……」
レティシアはパチンと片目をつむって、ウインクをしながらそう言った。それがお世辞だと分かっていても、何だか気恥ずかしい。七緒は頬を赤らめると、いつもの習慣でうつむき、顔の脇に垂らした二つのゆるいお下げに顔を埋めた。
事あるごとに息を潜め、目立たぬように生きてきた七緒にとって、何かあると、お下げに顔を埋めるのが癖になっている。そうすれば相手に七緒の顔色を悟られずにすむし、守られているような安心感を得られて、気持ちが落ち着くからだ。
もっとも、人によっては七緒のそういった癖を快く思わない人もいる。彼らは何かあるとすぐに下を向く七緒を、卑屈で頼りないと感じるようだ。
それでも、どう思われようと簡単にはやめられない。それほど、お下げに顔を埋める仕草は七緒の中で習慣になってしまっている。
幸い、レティシアは七緒の癖には気づかなかったようだけれど。
かつかつと軽快な靴音を立てながら、颯爽と前を歩くレティシアは、ふと思い出したように七緒をふり返った。
「そうそう、最後に大事な話をしなきゃ。一ノ瀬七緒さん、オラシオンでは名前に関して、ひとつルールがあるの。それはね、ここではラストネームは使わないということなの」
「ラストネーム……苗字を、ですか?」
「そう。だから私は、ここではただのレティシア。あなたはただの七緒……ということになるわ」
「ただの……七緒……」
「抵抗ある?」
「いえ……ただの七緒でいいです」
「そう、良かった。名を変えられることは自分を否定されることだと言って、抵抗感を覚える娘も多いから、心配していたの。でも、あなたにはその心配はなさそうね」
七緒にとって、一ノ瀬という名字には特に愛着もなく、どちらかというと全身を縛る枷に近いものだった。七緒は一ノ瀬という家に生まれたせいで、少々特殊な環境で育ち、特殊な性格になってしまったからだ。
だが、七緒はもう一ノ瀬の人間ではない。七緒は一ノ瀬の家に捨てられて、このデュシスに送られてきたのだから、今さら苗字があろうとなかろうと、どちらでも良かった。もう二度と一ノ瀬の家には戻れないということに変わりはないのだから。