第十七話 接続【リンク】②
すると、司令塔の内部にいたもう一人の男性が口を開いた。サーパントのクレイヴだ。ライオネルと同じ白い制服を着ているが、きっちり制服を着こんだライオネルとは違い、クレイヴはわずかに着崩している。
緑がかった焦げ茶色の髪もぼさぼさだし、あまり身なりに構わない性格らしい。瞼は腫れぼったく、そのせいか、いつも眠そうにして見える。クレイヴは部屋の隅で石壁に背をもたれたまま、気だるげに口を開いた。
「……いいんじゃねえか?」
「何ですって⁉」
レティシアは眦を吊り上げた。何て無責任なことを言ってのける男だろう。このまま二人が死んでしまっても構わないと言うのだろうか。だが、クレイヴは鋭いレティシアの視線を浴びても、まったく動じる様子が無い。
「こういうのは時間を重ねれば上手くいくようになるってもんでもねえ。要は相性の問題だからな。一か八かで上手くいかなきゃ、永遠に成功しない。そういうもんだ」
クレイヴの言うことは正論かもしれないが、リスクはできるだけ減らすべき、というのがレティシアの考えだ。一か八かに賭けて、もし上手くいかなければ、七緒もヴェロニカも二度と帰って来なくなるかもしれない。指揮官として、そんな無謀な選択を認めるわけにはいかない。
「貴官はサーパントだ。黒猫の指揮は我々レイヴンの仕事……口を出さないでもらおうか!」
第一部隊のレイヴン、アーデルハイトが不快感も露わにそう吐き捨てた。レティシアに加勢してくれたというよりは、レイヴンとしてサーパントには職務に口を出されたくないと思っているのだろう。
するとクレイヴは軽く肩を竦めて、「そいつは失敬」と答える。ただし、その慇懃無礼な態度を見れば、それがクレイヴの本心でないことは明らかだ。
にらみ合うレイヴンとサーパントを見下ろしつつ、ライオネルは大レイヴンの耳元へ顔を寄せ、小さく囁いた。
「……どうしますか、大レイヴン?」
「あれは新しい黒猫だな? それなら多少、様子を見てもいいだろう。この件はレイヴン・レティシアに任せる」
大レイヴンは個々の黒猫に特別な思い入れはない。彼女の元で黒猫を指揮してきたレティシアは、それを嫌というほど良く知っている。七緒とヴェロニカが大人しく従い、役に立つうちは、大レイヴンが『処分』という判断を下すことはないだろう。
大レイヴンにとってすべての黒猫は良くも悪くも『駒』に過ぎない。だからこそ、ここは七緒とヴェロニカを戻すべきだ。あの二人は接続すら一度だって成功させていないのだから。
それは自らは魔法を持たず、司令室で命令を下すことしかできないレティシアが唯一、黒猫たちにしてやれることだった。
一方、アルクスでは、その場に居合わせた黒猫たちが全員、固唾を呑んで七緒を見つめていた。ひと晩で別人のように様変わりした少女に誰もが圧倒され、呆気に取られている。みなの視線を集める中、七緒は怖気づくことなく、まっすぐにヴェロニカに歩み寄った。
思いも寄らない七緒の登場に、ヴェロニカは戸惑いつつも尋ねる。
「お前……その髪はどうしたんだ?」
「切ったの。私にはもう、いらないものだから」
七緒は下を向いて生きるのはやめたのだ。もう二度と顔を隠したりしない。二度とうつむいたりしない。だから『避難場所』だったお下げは、もう必要ない。
けれど七緒は弱いから、何かあったらやっぱりお下げの間に顔を埋めてしまうかもしれない。だから、自分でお下げを切り落としたのだ。
顔を埋めたくても、二度とうつむくことができないように。
ヴェロニカは七緒の変化にひどく驚いたようだった。彼女の大きく見開かれた瞳は、澄んだ大粒のサファイヤのようだ。そこには七緒の姿がくっきりと映り込んでいる。
――ようやく私を見てくれた。ヴェロニカの瞳に映りこむ自分の姿を目にして、七緒は静かにそう思った。本当に不思議だ。どうにかしてこちらに振り向いて欲しいと願っていた時は、胸を掻きむしりたくなるほど苦しく切なかったのに、今は自分でも奇妙に思うほど心が静かなのだから。
「ごめんなさい、ヴェロニカ。私、あなたにひどいことを言ったわ。あなたに……あなたのサラを一途に想う心に嫉妬をしてしまった。本当にごめんなさい」
七緒は開口一番にそう謝った。今、何よりもヴェロニカに伝えたい言葉だったから。
それを聞いたヴェロニカは七緒に何か言おうと口を開いたけれど、すぐに唇を噛みしめると、七緒から顔を背けてしまった。
「……。オレは……オレはもう聖杯は選ばない。そう決めたんだ」
ヴェロニカがそういった反応を返すことは、七緒も覚悟していた。彼女の想いはサラと共に在る。七緒がどれだけ変化しても、どれだけ見違えようとも、ヴェロニカの気持ちが変わることは無いのだろう。
それでも七緒はヴェロニカの聖杯になることを諦めきれなかった。我がままかもしれない。自己中心的なのかもしれない。でももうこれ以上、自分を押し殺し続けるなんて、とても耐えられなかった。
気付いてしまったら、もう自分の気持ちに嘘はつけない。ヴェロニカを好きだという気持ちに蓋をして封じ込め、無かったことにするなんて、七緒にはもうできなかった。
だから七緒はヴェロニカの真正面に立った。
「ヴェロニカ、手を出して」
「何……?」
七緒は自分の右手を掲げると、再び口を開いた。
「……手を出して」
静かだけれど、有無を言わせぬ声音。ヴェロニカは七緒の妙な迫力に押されるように左手を差し出しかけた。それでもわずかに躊躇していたけれど、最後には七緒の右手に自らの左手をそっと重ねる。
これで何も起こらなければ、さすがに七緒も諦めるだろう。ヴェロニカの瞳には、そんな思惑が透けて見える。
ところが次の瞬間、光の粒が弾けた。七緒とヴェロニカ、二人の重ね合わせた右手と左手がうっすらと白光を放ったかと思うと、満天を彩る星々のような七色の光を煌かせた。その七色の光の粒たちが溢れんばかりにアルクスへと零れ落ちる。七緒は幻想的なまでに美しいその光景に、思わず息を呑んだ。
「接続が……」
「成功した……⁉」
ロビンとクロエ、そして他の黒猫たちも驚きを隠せないようだった。以前の七緒とヴェロニカの仲が、どれほど冷え切っていて険悪だったか。それを知っているからこそ、接続が成功したことが信じられないのだろう。
七緒とヴェロニカの重ね合わせた手のひらは、柔らかな光を灯す。互いの魔法が繋がり、光の奔流が体中を駆け巡る。七緒の中の何か―――右手を介してヴェロニカへと移動した魔法が、再び七緒の中に戻り、一体となって循環してゆく。集中していないと、その流れの激しさに意識を吹き飛ばされそうだ。
ヴェロニカは上擦った声で叫んだ。
「魔法が流れ込んでくる……これは本当に、お前の魔法なのか……⁉ あんなに主張がなかったのに……今はお前の思いが……願いが、こんなにもはっきりと伝わってくる……‼」
「お前じゃないわ。……私の名前は七緒。あなたの聖杯、七緒よ」
「ナナオ……」
ヴェロニカが初めて名前を呼んでくれた。七緒を決して見ようとはせず、名前すらろくに呼んでくれなかったヴェロニカが、ようやく七緒の名前を呼んでくれた。
七緒は喜びで溢れそうになる涙を必死で堪えた。
「あなたは死なない。私が死なせない。一人だけサラの元へ行こうだなんて、そんなの絶対に許さないから」
まさか七緒が、そんな事を言い出すとは思わなかったのだろう。ヴェロニカは仰天したかのように目を見開く。
最初はあんなにびくびくと怯え、うつむくばかりだったのに。七緒を見つめる鮮やかな青の瞳には、はっきりとした感嘆と戸惑いの色が浮かんでいる。
ヴェロニカには生きていて欲しい。七緒と共に、未来を生きる選択をして欲しい。それは七緒の嘘偽りのない本心だ。
しかし次の瞬間、ヴェロニカは苦しそうに表情を歪めた。
「お前もサラを忘れろというのか……? あいつのことを忘れ、すべて無かったことにしてお前と組めと、そう言うのか⁉」
それはまるで悲鳴のようだった。こちらが引き裂かれそうになるほどの、痛々しい絶叫。それを聞いた七緒は一瞬、返す言葉を失なってしまう。でもここで七緒が逃げてしまったら、ヴェロニカは絶対に一人で行ってしまうだろう。
「本当は……そうしてって言いたい。サラのことは忘れて、私の剣になってって言えたら、どんなにいいか。でも私はたぶん、あなたがサラのことを簡単には忘れない、温かくて強い人だから、こんなにも魅かれたのだと思う」
「オレが強い……? そんなの誤解だ。オレが本当に強いなら誰も死なせたりしなかった! サラが死んだのはオレが弱かったからだ!」
ヴェロニカは激しく首を振った。幼い子供がイヤイヤをするように。目の前のヴェロニカはひどく頼りなく、そして何より圧倒的な孤独に打ち震えているように見えた。
その時、初めて七緒は、どうしてこれほどヴェロニカに惹かれるのか、その理由に気づいた。ヴェロニカは七緒の憧れだ。でも、ただ憧れだけなら、これほど惹かれはしなかった。
ヴェロニカと七緒は同じなのだ。七緒と同じ、一人ぼっち。サラを失ったショックと悲しみから心を閉ざし、誰にもその苦しさを打ち開けることができなかったヴェロニカ。自分と同じ孤独な心を抱えていたから、七緒はこれほどまでヴェロニカに惹きつけられたのだろう。
それでも、七緒はヴェロニカは強い人だと思う。七緒は自分のことで精一杯だったけれど、ヴェロニカはずっと失ったサラのことを想い続けていたから。それこそ破滅しようと構わないと思えるほどに。
七緒はヴェロニカの左手を握りしめたまま、自分の顔をヴェロニカの顔に近づけた。互いの額が今にもくっつきそうな距離で、そのサファイアの瞳を真正面から見つめると、優しく包み込むように微笑みかけた。
「……ねえ、ヴェロニカ。あなたが一人残されたこの世界は冷たくて……冷たくて、どこにも居場所はないと思ってしまうかもしれない。私も同じだったからよく分かるよ。でも……それでも諦めないで。自分からすべてを捨て去ってしまわないで。冷たい氷のような孤独は、いつかきっと溶ける。だって私たちはこうして出会ったのだから……!」
今まで七緒とヴェロニカは互いに目の前にいても、何も見ていなかった。七緒もヴェロニカもそれぞれの事情から心を閉ざし、世界のすべてを拒絶していたから。七緒と同じように、ヴェロニカも凍りつくような一人きりの世界で、どうしようもなく震えていたのだ。
だから、今この瞬間が始まりだ。七緒とヴェロニカはきっと、たった今、初めて出会ったのだから。
ヴェロニカは蒼い瞳を頼りなげに揺らすと、何か大切なものを探り取るかのように七緒の瞳を見つめた。
「オレは、お前の髪を引っ張り回した、ひどい剣だぞ。それでもいいのか?」
「あの時は、本当にびっくりした。でも、私もヴェロニカに酷いことを言ってしまったから……これでおあいこね」
「オレは……たぶんサラを忘れられない。……それでもいいのか? そんな薄情な剣でも……お前は本当に良いのか?」
「構わないわ。サラのことを忘れられないヴェロニカだからこそ、私はきっと惹かれたの」
ヴェロニカは意を決したように大きく息を吸うと、その言葉をおずおずと口にした。
「ナナオ……オレは……お前を信じてもいいのか……?」
「……ええ。私も……ヴェロニカを信じる……‼」
ドクン、と大きく心臓の鼓動が跳ねたその刹那、ヴェロニカと七緒の重ね合わせた手から、まばゆいほどの閃光が迸る。
その光景に、二人の様子を遠巻きに見つめていた黒猫たちも感嘆の声を漏らす。
「あれは……⁉」
「凄まじい量の魔法だ……‼」
手のひらから溢れ出す光が形を変えて剣の輪郭を描くと、ヴェロニカの右手に収まった。
その一部始終を司令塔で観ていたレイヴンたちは、驚きと安堵の息をついた。最も胸を撫で下ろしたのは、第二部隊のレイヴンであるレティシアだ。
土壇場での一発勝負に、一時はどうなることかと思ったけれど、どうにか接続は成功したようだ。あの二人の様子なら、ひとまず心配はいらないだろう。
そのレティシアに、第三部隊のレイヴン・ベアトリスが声をかける。
「あの二人、完璧に接続をさせましたね、先輩」
「まったく……本当に一か八かなんだから……」
接続に成功したなら、ヴェロニカと七緒を引き戻す理由は無い。リスクはあるかもしれないが、第二部隊の役割は危険なものばかりではないし、せっかく接続に成功したのだから、この際、出撃させて慣らしてしまったほうがいい。
以前の二人の様子を知っているレティシアからすれば、この接続は奇跡だ。この機会を絶対に無駄にしてはならないと思う。レティシアとしては、もっと段階を踏んで慎重にやって欲しいところだが、型にはまりきらない少女ほど優秀な黒猫になったりするから、それも致し方ないだろう。
やがて学校の時計塔が午前零時を告げると、漆黒に覆われたスィスィアの森が急に騒がしくなった。木々の間から黒い闇の塊が膨れ上がったかと思うと、どんどん巨大化していく。そして夜空に浮かんだ月がそれを照らし、徐々に異形の化け物を鮮やかに浮かび上がらせる。
ほどなくして魔女が完全にその姿を現した。ずんぐりとした胴体に、ひょろりとした細長い二つの手。それがゆらゆらと不気味に宙を彷徨っている。頭部にはピエロのような派手な仮面を被っており、白地の面は鼻のてっぺんや口の周りが真っ赤に塗りたくられており、目の周りは青いラインが縁取っている。そして森の木々を薙ぎ倒しながら、ゆっくりとオラシオンへ近づいてくる。
それを見た他の黒猫たちが、次々とカップルをつくり接続していくと、三羽の鴉が黒猫たちを導くように城塞から魔女に向かって飛び立っていく。
「さあ、あなたたち行くわよ!」
「黒猫たち、魔女狩りの始まりだ!」
いよいよ魔女討伐が始まった。七緒にとっては初めての出撃になる。他の黒猫たちも魔法でできた武器を手に取ると、続々とアルクスを飛び立っていく。
七緒はさすがに緊張を隠しきれずに、張りつめた表情で宙を踊る黒猫たちを見つめた。これからあの魔女と戦うのだ。ヴェロニカにはああ言ったものの、恐怖や躊躇がまったく無いと言ったら、それは嘘になる。
するとヴェロニカが繋いだ七緒の手を引いて、優しく語りかけてきた。
「ナナオ、心配するな。戦うのは剣の仕事だ。お前はただ、この繋いだ手を放さないことだけ考えていればいい」
「うん……分かった!」
「……行くぞ‼」
そしてヴェロニカ=七緒組も飛び立った。ハイヒールのつま先がアルクスの石床を離れたその瞬間、七緒の身体をぐん、と強い浮遊感が包み込む。ふわりと黒いドレスのすそが広がり、夜空に舞った。
――刹那。
(飛んだ……‼)