第十六話 接続【リンク】①
翌日、学校の授業に七緒は出席しなかった。いつも受けている講義に七緒が姿を現さなかったので、ヴェロニカは彼女の欠席を知ったのだ。七緒はいかにも気が弱そうだけれど、真面目な性分なのか講義や訓練は一度もさぼったことがないから、とても珍しいことだ。
どこか具合が悪いのだろうか。ヴェロニカはふと考えた。昨日、寮の裏庭で話した時、七緒はひどく感情を昂らせていた。大人しくて引っ込み思案の彼女が、あれほど自分の感情をはっきり言葉にするところをヴェロニカは初めて目にしたし、ひどく驚かされた。
七緒が休んだのはそのせいだろうか。ヴェロニカからペア解消を告げられたことが、そんなにショックだったのだろうか。それほど七緒は、ヴェロニカと組みたかったのだろうか。
だが、ヴェロニカは七緒の欠席を知りつつも、あえて彼女と関わろうとはしなかった。聖杯はもう二度と選ばない。それはヴェロニカの確たる信念だから。情けをかけて下手に接触すれば、自分にとっても七緒にとっても良くない結果になるだろう。
ヴェロニカは自分が生き残ることなど考えていない。サラのために一体でも多くの魔女を殺して、彼女の元に行く。だから七緒はヴェロニカのことなんて忘れて、新しい剣と組んだほうがいい。それが七緒のためなのだから。髪を乱暴に掴んで引っ張ったし、ひどい言葉もさんざんぶつけた。それがどれだけ七緒の心を傷つけたかも分かっている。
だが、ヴェロニカとて決して好きで七緒を傷つけるような言動をしたのではない。ただ、自分の事情に七緒を巻き込むわけにはいかないと思ったのだ。
ヴェロニカがサラのために死ぬのは自由だ。七緒の言う通り、「一人で好きなだけ死ねばいい」のだから。しかしヴェロニカが死んだら―――もし相棒と組んでいたら、残された聖杯はどうなるのだろう。剣を失った聖杯は生涯消えない傷を心に負い、苦しむことになる。そう―――今のヴェロニカのように。
七緒に自分のような思いはさせたくない。そう考えるからこそ、ヴェロニカはどんな事情があっても彼女と組むわけにはいかないのだ。それがお互いにとって幸せなのだとヴェロニカは信じて疑わない。
自分が自己中心的で、七緒のことを考える余裕なんて無い、嫌な剣だと理解していても、ヴェロニカは決して態度を改めなかった。ヴェロニカがパートナーに相応しくない最低な剣だと分かれば、七緒も自然とあきらめて離れていくだろうと思ったから。
ところがヴェロニカがどんなに撥ねつけても何度も拒絶しても、七緒はなかなか諦めてくれない。それどころかヴェロニカに好意すら抱いているようだ。それにはヴェロニカもさすがに少々戸惑った。初めて会ってからこれまで、ヴェロニカは七緒に冷たい態度しか取ってこなかったのに、七緒はヴェロニカの聖杯になりたいと願ってくれるのだ。
正直なところ、ヴェロニカもそれほど七緒のことが嫌いなわけではない。ちょっと主張が弱くて、何を考えているか分からないところもあるけれど、それは聖杯と剣として信頼を築いてゆく過程で乗り越えられる問題だと思っている。
一途にヴェロニカの聖杯になろうとしてくれる七緒の熱意に、心動かされないはずがない。もっと違う出会い方をしていれば、互いに良い聖杯と良い剣になれたかもしれない。
しかし、どれだけ願っても過去を変えることはできない。七緒がどんなにヴェロニカを慕ってくれても、サラの死が無かったことになるわけではないのだ。だからヴェロニカは最後まで一人で戦い、一人で死ぬつもりだった。
今ごろ七緒はどうしているだろう。ヴェロニカを恨んでいるだろうか。それならそれでもいい。オラシオンには他にも大勢の黒猫がいるから、いずれ別の剣と組むことになるだろうし、ヴェロニカのことなんてすぐに忘れてしまうだろう。その方がきっと、七緒にとっても幸せなのだ。
だから、これでいい。
そして時計塔の針が深夜零時三十分前を刻む。
皿のような満月が夜闇を照らし出し、いよいよ魔女討伐の刻限がやって来た。ヴェロニカがずっと待ち望んできた瞬間だ。艶やかな漆黒の戦闘服に身を包み、短いスカートを翻すと、ヴェロニカは他の黒猫たちと共にスィスィアの森を睨みつける。久しぶりの城壁、久しぶりの広場。ここに立つと戻ってきたのだという感慨と、これからはじまる魔女との戦いへの興奮が体中を駆け巡っていく。
(待ってろ、サラ……! オレはお前の仇を討つ! 魔女を全員、屠ることはできなくても、できるだけ道連れにしてやる‼ そして、きっとそっちへ行くからな……‼)
そう心に誓うヴェロニカだったが、彼女に不安げな視線を送る一団があった。第二部隊の仲間の黒猫たちだ。彼女たちは小声で会話を囁きかわす。
「ヴェロニカは……一人か。ナナオは一緒じゃないんだな」
「結局、ナナオとの接続はうまくいかなかったのね」
「ヴェロニカ、今度こそ死んじゃうんじゃないかなー?」
「馬鹿ヤロー! そういうこと言うな。縁起でもないだろ!」
「わたくしは下民の一人や二人、いなくなっても構いませんけど? 足は引っ張って欲しくありませんわね」
みな内心では、ヴェロニカが魔女討伐に戻ることを歓迎していない。ヴェロニカが一人きりで、聖杯を連れていないからだ。聖杯のいない剣は長時間戦えない。けれど、ヴェロニカがサラを失ったこと。聖杯を失ったせいで魔女討伐にこだわっていることを知っているから、みな口には出せないだけだ。
一方、憤りを隠せないのが第一部隊のアウルムだった。第一部隊のいるアルクスは、第二部隊のいる場所とは離れているけれど、アウルムのいる広場からでもヴェロニカの姿は確認できた。
「ヴェロニカ……奴め、あれほど言ったのに‼」
憤りもあらわにアウルムは吐き捨てた。確かに戦場で待っていると伝えはしたものの、あくまで聖杯を伴った剣としての話だ。黒猫は一人では戦えない。あれでは玉砕しに行くようものだ。
今からでもヴェロニカのいる広場へ乗り込んでやろうか。怒りのあまり本気でそう考えるアウルムだったが、聖杯のラーウスによって阻まれてしまう。
「……アウルム様、仕方ないのです」
「何が仕方ないというのだ、ラーウス⁉」
アウルムが、きっとラーウスの顔をにらむと、ラーウスの青灰色をした悲しげな瞳が、じっとこちらを見つめている。
「人は皆、あるようにしか生きられないのです。アウルム様がアウルム様の生き方をお捨てになることができないように、ヴェロニカ様も自らの生き方を曲げることはできないのでしょう」
「く……! だから死を選ぶというのか、ヴェロニカ⁉」
アウルムは途轍もないもどかしさに唇を噛みしめた。どうして、こんな事になってしまったのだろう。他に選択肢はいくらでもあるだろうに、なぜヴェロニカは過酷な道を選ぼうとするのか。アウルムには、サラが死んでからヴェロニカがおかしくなったようにしか見えない。
以前のヴェロニカは――アウルムの良く知るヴェロニカは、ああいう自暴自棄な行動を取ったりしなかった。もう昔の彼女には戻らないのか。あの青い瞳が蒼穹のような輝きを取り戻すことは、二度と無いのだろうか。
今まで切磋琢磨してきた仲だけに、アウルムはヴェロニカの選択が歯痒くて仕方なかった。アウルムではヴェロニカの目を覚まさせることができないのだ。
このままではヴェロニカは本当に死んでしまう。それなのに、アウルムはただ指を咥えて見ていることしかできない。
だが、ヴェロニカを止めようとする者は他にもいた。時計塔から一羽のカラスが飛んできて、ヴェロニカの元に舞い降りる。闇に濡れた翼と嘴を持つカラスが口を開くと、放たれたのは乾いたカラスの鳴き声ではなく、レイヴン・レティシアの声だった。
「ヴェロニカ、戻りなさい! 私は出撃を許可した覚えはないわよ⁉」
ヴェロニカの単独での出撃を知ったレティシアは、いつもに増して激怒していた。ヴェロニカは出撃許可を取りつけずに勝手に行動しているのだから、それも当然だ。しかし、ヴェロニカの決意はレティシアの制止さえ振り払うほど強固だった。
「大丈夫だ、レイヴン。他の黒猫の足は引っ張らないと約束する」
「何を言っているの、駄目なものは駄目! あなたがどれだけ頑張ろうと、前回のように負傷してしまったら、他の黒猫の足を引っ張ることになるのよ‼」
「そうなったらオレを見捨ててくれたって構わない」
「……ヴェロニカ!」
レティシアは頭を抱えたくなった。周りに他のレイヴンたちがいなければ、間違いなくそうしていただろう。
レイヴンはそれぞれ使役しているカラスを介して黒猫たちに指示を出す。レイヴン本人がいるのは、時計塔と尖塔を有した城の地下深くにある司令室の中だ。
広く薄暗い空間の石造りの床にはサークル状の魔法陣が三つほど浮かび上がり、それぞれの魔法陣の中央には、第一部隊、第二部隊、第三部隊の指揮官が立っていた。レティシアも、もちろんその中にいる。
各部隊の三人のレイヴンをまとめるのが、大レイヴンだ。大レイヴンは総指揮官であり、オラシオンの最高責任者でもある。レイヴンの中で最も地位が高く、代々、経験の豊富な者がその任を務めてきた。その為か、現在の大レイヴンは初老の女性だった。
目元や口元にはしわが入り、頭髪は真っ白であるけれど、その瞳には今なお力強い知性の輝きが灯っている。アイスブルーの両眼に宿るその光は鋭く、威厳に満ちており、冷徹ですらあった。揺りかごのような椅子ごと宙に浮かび上がると、石畳に展開する魔法陣上に佇み、ひときわ高い場所から他のレイヴンたちを審判のように見下ろしている。
そのレイヴンたちが一斉に見上げているのは、部屋の中央に浮かび上がるいくつもの映像だ。それらの城壁やスィスィアの森を中継した映像を見ながら、レイヴンたちは魔女討伐の様子を把握し、カラスを介して黒猫たちに指示を飛ばすのだ。
映像のひとつに映し出されたヴェロニカの姿を目にした大レイヴンは、鋭利に瞳を細めた。
「……あの黒猫は、以前から命令無視を繰り返しているな?」
レティシアはぎくりとした。
「大レイヴン……!」
「部隊の士気を下げる存在は必要ない。言うことを聞かない黒猫は、『ガス室』送りという手もある」
大レイヴンは合理的であると同時に、ひどく冷徹でもある。ヴェロニカのように、わけのわからない反抗をする黒猫など真っ先に排除するし、それで心を痛めることも無い。それが大レイヴンに与えられた責務だからだ。勝手な行動を繰り返す黒猫に要らぬ温情をかけると、全体の統率を失うことにもなりかねない。
しかも大レイヴンは、レティシアら他のレイヴンのように黒猫の少女たちと直に接触することがないから、彼女たちに情が湧くことも無い。そして大レイヴンの決定に逆らえる者は、このオラシオンには存在しないのだった。
それでもレティシアは大レイヴンに懇願した。どうしてもヴェロニカを失いたくなかったからだ。彼女は優秀だ。それだけでなく、レティシアはヴェロニカがオラシオンにやって来た時からレイヴンとして指導し、面倒を見てきた。情にほだされるのは指揮官として甘いと言われればそれまでだけれど、こんなところでみすみす死なせたくない。
「お待ちください! ヴェロニカは本来、とても優秀な黒猫なのです! ここで失えば、オラシオンにとっても大きな損失となるはず……‼ どうか、もう一度だけチャンスをお与えください!」
すると大レイヴンの座った揺りかごの影から一人の男性が進み出た。二十代後半の真っ白い制服を着た若い男性、サーパントのライオネルだ。彼もまた大レイヴンと同じ位置まで浮かび上がり、部屋全体を見下ろしている。
サーパントとはデュシスの中央王朝から送られてくる官吏の名称で、監督官のような存在だ。オラシオンが正常に機能し、きちんと魔女討伐を遂行しているか、監視するために送り込まれてくるのだ。貴族の出身者が務めることの多い役職で、ライオネルも有力な貴族出身の――いわゆるお坊ちゃんだ。
そのライオネルは憐れむようにレティシアを見下ろしていた。くせのある豊かな金髪の下でターコイズブルーの瞳が柔和に細められる。
「いくら優秀とは言っても所詮、第二部隊だろう? 代わりの黒猫はいくらでもいるのではないかな、レイヴン・レティシア? それに優秀だという理由だけで甘やかしては、他の黒猫に示しがつかない。大レイヴンの判断は至極妥当だよ」
「そんな……!」
ヴェロニカは甘えているわけではない。ただ、サラを失った悲しみから我を忘れてしまっているだけだ。いつも黒猫たちと接しているレティシアには、それがよく分かる。
だが、大レイヴンやサーパントにとって黒猫の事情など些末事で、どうだっていいのだろう。彼らにとって重要なのは、組織の統率が一糸たりとも乱されないことであり、魔女討伐が粛々と遂行されることだけなのだ。
「ふん……サーパントめが偉そうに……!」
第一部隊のレイヴン、アーデルハイトがライオネルに向かって皮肉げに吐き捨てた。レイヴンにとって、サーパントは厄介な存在だ。レイヴンの働きを評価し、中央に報告するのもサーパントの仕事のひとつだ。レティシアもサーパントは苦手だが、気位の高いアーデルハイトは彼らを露骨に毛嫌いしている。
その気持ちは分からなくもない。しかし、彼らがこの場の主導権を握っているのは否定しようもない事実だ。これ以上、大レイヴンやサーパントの怒りを買う前に、ヴェロニカの出撃をやめさせなければ。レティシアは空中に浮かぶ映像――そこにはっきりと映り込んでいるヴェロニカに向かって厳しい口調で怒鳴った。
「ヴェロニカ、言うことを聞きなさい! これは命令よ‼」
お願いだから言うことを聞いて。サラを失って、これ以上あなたまで失くしたくはない。レティシアは言外に祈るように思いを込める。
するとその時、まったく予想していなかった声が司令室に飛び込んできた。
「……待ってください!」
その声を聞き、レティシアの脳裏に一人の少女の姿が浮かび上がった。臆病で、会話する相手の目を直視することもできず、自主性の欠片もない操り人形のような少女。
――まさか。まさかこの声は。
城塞の上に設けられた広場――アルクスの上では、思いも寄らぬ声の主の登場に、ヴェロニカも目を見開いて驚いているのが見えた。
「お前は……東方の……⁉」
ヴェロニカの視線の先には七緒の姿があった。でも、その姿を目にしても、レティシアはすぐには七緒だと気づかなかった。七緒の外見は、昨日までとは様変わりしていたからだ。
ふんわりとしたお下げは今は跡形もなく、黒い髪は耳の下あたりでばっさりと切り揃えられている。そのせいか、今の七緒に内気で大人しいイメージは無いない。
何というか、そう――とても良くなった。
印象が変わったのは、髪形のせいだけではないだろう。鳶色の瞳は、本当にこれが七緒なのかと疑いたくなるほど強い輝きを放っている。おまけに戦闘服まで身にまとっているではないか。まさか七緒まで出撃するつもりなのだろうか。
「ナナオ、どうしてあなたがそこにいるの⁉」
レティシアは驚きのあまり語調を荒げ、七緒に問い詰める。以前の七緒ならレティシアに無断で出撃するなんて、そんな無謀な行為は絶対にしなかったはずだ。こうして問いかけたとしてもしどろもどろになって、臆病そうに首を竦めて小さな声で大人しく答えていただろう。
しかし今はどういうわけか、揺るぎの無い芯を感じさせる声音で、はっきりとレティシアに答えた。
「私が聖杯としてヴェロニカと一緒に出撃します。だからレイヴン、許可を下さい」
「何を言っているの⁉ あなたたち、まだ接続も十分にできていないじゃない‼」
「では、接続ができたらヴェロニカと出撃していいですか?」
レティシアはとうとう眩暈を覚えた。
「ナナオ、あなたまで……どうしてしまったの!」
あの大人しく従順な七緒まで反抗的になってしまうだなんて。ヴェロニカだけでも手一杯だというのに、いったいどうしたら良いのだろう。