第十五話 決別
その日の午後の訓練に、ヴェロニカは来なかった。医院での治療はもう終わっているはずなのに、姿を現さなかったのだ。
どうしたのだろうと七緒はひどく気になった。もしかしたら治療が上手くいかなかったのだろうか。それとも他に具合が悪いところがあるのだろうか。けれど、七緒はすぐにヴェロニカの姿が無いのは自分のせいではないかと思い至った。七緒と顔を合わせたくないがために、ヴェロニカは訓練をさぼったのではないだろうか。
そう考えると、ひどく気分が塞いだ。やはり七緒がヴェロニカとパートナーになる可能性は、これっぽっちも残されていないのだろうか。
一人きりのトレーニングを終えて、更衣室で着替えを済ませて寮に戻る途中、七緒は不意に声をかけられた。振り向くと、そこにはヴェロニカが立っているではないか。怪我が治ったのは本当のようで、包帯はどこにも無い。
――ああ、本当に良かった。七緒は心から安堵したものの、その喜びはすぐに戸惑いへと変わった。ヴェロニカの真っ青な瞳が、じっと七緒へと注がれていたからだ。ヴェロニカが真正面から七緒を見つめるなんて、今までになかったことだ。
違和感を覚えながらも、七緒に話があるというヴェロニカに連れられて来たのは、寮の裏庭だった。そこのベンチに座って二人きりで話をすることになった。
「怪我……治ったの?」
七緒が尋ねると、ヴェロニカは頷いた。
「ああ、魔法の力って奴だ。明日から魔女討伐に復帰することになっている」
「……。そう、なんだ。……良かったね」
七緒はうつむいて、お下げの中に顔を埋めた。ヴェロニカはいったい、どうしたのだろう。いつもは怖いほど怒りや苛立ちをあらわにしているのに、今日のヴェロニカは不思議なほど静かだ。かと言って、七緒に良い感情を抱いているわけでもないようで、こうしてベンチに座っていても微妙に距離がある。ヴェロニカの話とは、いったい何なのだろう。
「お前に話がある」
「……何?」
七緒はどきりとする。その先を聞きたいような、聞きたくないような。しかし、ヴェロニカは七緒の戸惑いなどお構いなしに、まっすぐに七緒を見つめると、率直に話を切り出すのだった。
「オレはお前とは組まない。だから、お前もオレのことは気にせず、別の剣を探せ。レイヴンにもそう話しておく。きっと誰か良いパートナーが見つかるだろう」
何となく、そんな気はしていた。だからと言って「はいそうですか」と納得できるわけではない。気づけば、七緒の口から疑問の言葉が零れ落ちていた。
「どう……して……?」
「何?」
「聖杯がいなければ、あなたは死んでしまうんでしょう? どうしてそこまでして私を拒むの? そんなに私の事が嫌いなの?」
するとヴェロニカは、はっきりと首を振った。
「そうじゃない。オレはもう二度と聖杯を選ぶつもりは無いんだ。お前に何か非があるわけじゃない」
「サラという子のため?」
「……そうだ。オレの聖杯は、これまでもこれからもサラだけだ。みんな口を揃えて言う。死んだ奴のことは早く忘れろ、新しい聖杯を選んで前を向けと。でも、オレはあいつの事を忘れられない」
ヴェロニカは血が滲みそうなほど手の平を強く握りしめながら、口元を震わせる。
「オレがサラのことを忘れてしまったら、誰があいつの事を覚えてやるというんだ? 誰があいつの生きた証を残してやれるんだ! あいつは……あいつは本当は戦いなんて望まない優しい奴だった。それなのに黒猫として戦って命を散らして、存在したことすら忘れられていく……! そんな事、できるわけない……‼ そんな惨いこと、できるわけがないんだ‼」
「ヴェロニカ……」
七緒は初めてヴェロニカの本音に触れた気がした。ヴェロニカはサラを忘れることなんてできない。今も昔も、彼女の聖杯はサラだけなのだ。ヴェロニカに揺るぎない決意を突きつけられて、七緒の期待は粉々に打ち砕かれてしまう。
ヴェロニカのサラへの想いは強く、半端なものではない。
そんなヴェロニカに、あなたの聖杯になりたいだなんて、七緒が言えるはずがないではないか。
「オレは一人で戦って、一人で死ぬ。サラが望んでいるかどうかじゃない。オレがあいつの為にそうしたいんだ。オレの身勝手な願望にお前を巻き込みたくない。だから……お前は生きろ。新しい剣と共にな」
「……」
七緒は雷のような衝撃に全身を貫かれて、頭の中が真っ白になってしまう。
サラのために一人で戦って、一人で死ぬ。ヴェロニカは、それほどまでサラのことを想っているのか。サラのために自分の命を差し出しても構わないと思えるほど、彼女の存在が大切なのだろうか。
ひるがえって自分はどうだろう。七緒はヴェロニカのために―――他の誰かのために命を懸けてもいいなんて言えるだろうか。果たして、それを実行できるだろうか。
七緒は命を懸けていいと思えるほど、誰かと深い関係になったことも、大切な誰かがいたこともない。誰とも関わらずに一人で閉じこもって生きてきた七緒にとっては、考えもつかない感情だ。
(私はたぶん勝てない……ヴェロニカの中のサラには絶対に勝てない……‼)
七緒は完全に打ちひしがれていた。ヴェロニカの中にいるのはサラだけだ。七緒は最初から、心の片隅にも入れてもらえない。どれだけ努力しようと、ヴェロニカに受け入れられることはないのだ。可能性など欠片も無いと思い知った七緒の絶望は深く、まるで足場がガラガラと崩れ、真っ黒な奈落の底に呑み込まれそうな気になってしまう。
けれど、ひとしきり落胆した七緒の中に、徐々に別の感情が芽生えてくる。胸の奥でおぼろげに灯り、熾火のように燻っている感情をあえて表現するなら、それは悔しさだった。七緒は決してサラに勝てない。それが悔しくて悔しくて、仕方がない。気づけば七緒は口を開いていた。
「あなたは……死ぬつもりなの……?」
「ああ」
「どうあっても、私を聖杯にするつもりはないの……?」
「……ああ」
「どう……して……! どうして! どうして……‼」
行き場のない想いが問いとなって、七緒を激しく揺さぶる。マグマのように胸の奥底から湧き上がってきた、自力では抑えられないこの感情は怒りだろうか、悔しさだろうか。それとも別の何かだろうか――いや、全部だ。七緒の心のすべてが叫びを上げ、暴れ狂い、解放されたがっている。
七緒ははじめてヴェロニカを真正面から見据えると、思いの丈を拙い言葉に乗せてぶつけた。
「私を見て! ちゃんと私を見て! ……あなたは最初から、ずっとサラしか見ていなかった! サラの事ばかり考えてた! でも、私はここにいる! 私だって……私だってあなたの目の前にいるのに‼」
七緒はただ、ヴェロニカに自分を見て欲しかった。七緒という存在がいることに気づいて欲しかった。たとえ聖杯に選んでくれなくてもいい。ただ、七緒に気づいて欲しかったのだ。
ヴェロニカは七緒のまっすぐな目差しに驚いたようだったが、すぐに冷静さを取り戻すと、申し訳なさそうにポツリとつぶやいた。
「オレにはお前を選ぶことはできない……すまないな」
「……‼」
七緒は唇を噛みしめる。怒り、悲しみ、失望、虚しさ。いろんな感情で頭がぐちゃぐちゃになったまま、気づけば七緒は声を張り上げていた。
「謝罪なんて要らない! 悪いなんて思ってないくせに! そんなにサラが大事なら、一人で好きなだけ死ねばいい‼」
そう叫ぶや否や、七緒は踵を返し、その場から走り出してしまう。ヴェロニカは一瞬、あっけに取られたものの、複雑そうな表情で七緒を見送った。
「……なんだ、あいつ。ちゃんと自分の思いを口にできるんじゃないか」
今なら七緒と接続ができるかもしれない――しかし、ヴェロニカはすぐにその考えを胸の奥に封じ込める。相手が誰であろうと自分の考えは変わらないし、接続できるかできないかは関係ない。ヴェロニカの聖杯はサラだけなのだと、そう自分に言い聞かせながら。
七緒は寮の扉を乱暴に押し開け、脇目もふらず真っ直ぐ自室に駆けこむと、そのままベッドに突っ伏してしまった。
「うう……うううううっ……‼」
どれだけ押し殺そうとしても、嗚咽が漏れてしまう。嵐のように荒れ狂う感情にまかせて七緒は泣いた。ベッドのシーツをくしゃくしゃに握りしめたまま、涙が枯れ果ててしまうかと思うほど泣きじゃくった。
(どうして……どうして私はヴェロニカにあんなひどいことを言ってしまったんだろう……‼ あんなこと言うつもりじゃなかったのに……‼)
どうしてあんな酷いことを言ってしまったのか、自分でも分からない。そんなことを言ってはいけないと自分を抑える間もなく、気がつけば勝手に「一人で好きなだけ死ねばいい」という言葉が口から飛び出していた。
あんな言葉を口にしてしまった自分が、今は恐ろしくてたまらない。
(このどす黒い感情は何……? ヴェロニカのことが好きなはずなのに、彼女がサラの話をするたび、真っ黒いもやもやとしたものが胸に広がっていく……ヴェロニカに拒絶されるたびに悲しくて悔しくて、滅茶苦茶にしてやりたいと思ってしまう……‼ この身の毛もよだつほど怖ろしい感情は何なの……⁉)
最初はただただ悲しかった。ヴェロニカの聖杯になれないことが、どうしようもなく悲しくて苦しかった。どんな言葉を交わしても、どんなに近づこうとも、ヴェロニカの心に七緒はいない。どれほど七緒が心惹かれても、ヴェロニカが受け入れることは無いのだと思い知らされる。
その悲しみは、いつしか怒りや腹立たしさへと姿を変えていた。どうして私の気持ちを受け入れてくれないのか。こんなにもヴェロニカのことが好きなのに。こんなにもあなたの傍にいたいのに。どうして理解してくれないのだろうと。
そんなの七緒の勝手な言い分だと分かっているけれど、ヴェロニカに拒絶されるたび、身を焦がすほどに辛く、息ができなくなるほど苦しくなる。――悔しい、悔しい、全身を掻きむしりたくなるほど悔しい。
七緒はその感情を押さえつけようとしたけれど、消し去ることができないばかりか、どんどん大きく膨らんで、とうとう破裂してしまった。よりにも寄って最悪の形で。
そんなにサラが大事なら、一人で好きなだけ死ねばいい――あの言葉を放った時の、ぞっとするような自分の声。ヴェロニカが見せた、一瞬、傷ついたような顔を思い返すと、七緒は激しい後悔に襲われるのだった。何て身勝手に振舞ってしまったのだろう。何て残酷なことを言い放ってしまったのだろう。七緒は自己嫌悪に陥り、胸が張り裂けそうだった。
(私、最低だ……! 大切な人を失って苦しんでいるヴェロニカに、『好きなだけ死ねばいい』だなんて……‼ あんな酷いこと、普通だったら言えるわけない……本当はヴェロニカに寄り添うべきだったのに……‼)
七緒も頭では分かっているのだ。もう少し冷静だったら、ヴェロニカにもっと違う言葉をかけていたのに。あの時は自分の気持ちをコントロールすることができなかった。
ヴェロニカが好きで、彼女に認めて欲しいという想いと、どうして受け入れてくれないのかという失望や憎しみ――相反する気持ちが衝突し合い、七緒をたやすく飲み込んでしまった。
あの時の七緒は、まさに嵐そのものだった。荒々しく苛烈で、どうなるか予測もつかない暴風の塊。まるで自分が自分ではないみたいだ。そのような感覚を覚えたのは、七緒にとって生まれて初めての経験だった。
(私、知らなかった。誰かを知ることが、こんなに苦しい感情を伴うものだなんて。自分が分からなくなって、感情が抑えきれなくて……あんなに恐ろしい言葉を口にしてしまえるだなんて、これっぽっちも知らなかった……‼)
そう、七緒は知らなかった。祖国では巫女という立場上、他者と深く関わることが許されなかった。だから誰かを好きなることも無いかわりに、『好き』という感情で苦しむことも無かった。七緒はオラシオンへやって来るまで、誰かに恋焦がれることの素晴らしさや幸福感も、それが裏切られた時の苦しみや憎しみも、何ひとつ知らなかったのだ。
あの時、七緒は確かに嫉妬していた。ヴェロニカに死んでもいいと思わせる聖杯に。ヴェロニカの心を独占しているサラに。会ったことも喋ったこともない少女に、七緒は身を焦がすほどの嫉妬を覚えていた。
それが嫉妬という感情だと自覚する間もなく、あの言葉が飛び出してしまったのだ。
(ヴェロニカ……ごめんなさい……! あんなひどい事を言ってしまって、ごめんなさい……‼)
このままヴェロニカと終ってしまうなんて絶対に嫌だ。ヴェロニカが七緒を聖杯に選ぶつもりがないことは、嫌というほど分かっている。けれど、七緒はヴェロニカにひどい言葉をぶつけのだ。そのままになんてしたくない。
ヴェロニカに謝りたい。その気持ちはあるものの、七緒にはいざ立ち上がってヴェロニカの元へ戻り、謝る勇気はなかった。ヴェロニカは七緒を軽蔑しているかもしれない。彼女に心底、嫌われてしまったらどうしよう。そう考えると、あまりにも怖くて身体が竦んでしまう。
あんな酷いことを言っておいて何て身勝手なのだろうと、我ながら嫌になるけれど、七緒はなかなか一歩が踏み出せない。
(私は弱い……ちっぽけな人間なんだ。自分の感情で手一杯で、周りが何も見えてない。ヴェロニカに自分の思いをはっきり伝えることすらできない……!)
一ノ瀬の家にいた時は、みんな環境のせいだと思っていた。巫女の一族として生まれたから、双子の二葉がいたから、自分は不当な扱いを受けているのだと。でも、ここは和国ではなくデュシスだ。七緒は大勢いる黒猫の一人に過ぎないし、特別な存在でもない。その言い訳は、もはや通用しない。
七緒は弱い。未熟で不完全で、自分の感情を持て余し、傷ついたヴェロニカに寄り添うこともできない。心を閉ざし、すべてに蓋をして見ないようにしてきた七緒は、自分のことすら知らなかったのだ。
(こんな自分は嫌……うつむいて生きるのはもう嫌。私は変わりたい! 今までとは違う自分になるんだ……‼)
でも、どういう風に変わればいいのか分からない。七緒に変わりたいという気持ちはあるけれど、こうなりたいと思える姿が自分の中に見つからない。
(私は……私は、どうしたらいいんだろう……?)
その時、夜の屋上で、アーテルに言われた言葉が脳裏に蘇る。
『――そう。だから君は、君の中で眠っている願いを呼び覚まさなければならないんだ』
七緒ははっとして、ベッドから顔を上げる。
(私の願い……? 私の願いは何……? 私の願いは……ヴェロニカの隣に並び立つこと。胸を張って、あの人の隣に並び立つこと……!)
七緒は今まで、事あるごとにうつむいて生きてきた。お下げに顔を隠すことで、襲い来る困難をやり過ごしてきた。だからきっと自分とは対極にある、ヴェロニカの強い眼差しに憧れたのだ。嘘偽りもなく、誤魔化しもない。どんな困難にもまっすぐに立ち向かっていく、強い意志と生命力を宿した青い瞳に。
でももう、それをただの憧れのままにしておくのは嫌だ。七緒はどうしてもヴェロニカの聖杯になる夢を諦めきれない。ヴェロニカに振り向いてほしい。彼女に自分の存在を認めてもらいたい。理屈なんて無い。どうしようもなくヴェロニカに惹かれる心には逆らえないのだから。
「私は……もう二度とうつむかない。これからは胸を張って……生きる‼」
七緒はそう叫んで立ち上がり、机の引き出しから鋏を取り出す。そして壁にかけてある鏡の前に向かうと、その中にいるもう一人の自分をにらみつけた。
弱くて意気地なしで、自分の想いすら口にできない駄目な自分。事あるごとにお下げに顔を埋め、都合の悪いことや嫌なことから逃げ続けてきた卑怯な自分。
でも、七緒は生まれ変わる。今、この瞬間から弱々しい過去の自分と決別する。
七緒はふんわりとしたお下げに鋏を当てると、一気に切り落としたのだった。