第十四話 アウルムの忠告
それから一週間ほどが経ち、ようやく怪我が完治したという診断がヴェロニカに下った。傷口が開いた時はどうなることかと思ったけれど、医院で魔法による治療を受けて、どうにか快復したのだった。ただ、魔法も万能ではないから、あまり傷が酷いと魔法の治療が受けられないこともあるらしい。
ともかくも、魔女討伐で負った傷が完治したのだ。それはヴェロニカが魔女討伐に復帰する日が近づいていることでもあった。
しかし、復帰を知らせを受けても、ヴェロニカの心はちっとも晴れなかった。あれほど魔女討伐に復帰することを望んでいたはずなのに、何故だろう。だが、ヴェロニカはすぐその理由に思い当たった。サラがいないからだ。ヴェロニカの隣にいるべきサラが、もういない。だから、こんなにも苦しくて、胸が張り裂けそうなほど痛むのだ。
今日の授業がまだ残っていることを思い出したヴェロニカは、医院を後にして、学校へ向かった。一刻も早く授業に出て、第二部隊の黒猫たちや教師であるレイヴンに、自分の元気な姿を見せてやるのだ。
すると学校へと向かう渡り廊下の途中で、ヴェロニカは一組の黒猫の少女たちと遭遇する。アウルム=ラーウス組。第一部隊に所属している黒猫だ。
アウルムはチョコレート色の肌をした、獅子のような威風堂々とした少女だ。白銀に輝く髪は短く切り揃えられ、黄金に輝く瞳は毅然として、野生動物のような荒々しさと純粋さが宿っている。上級貴族の出身ではあるけれど、気高く生真面目で、誰よりも努力家な黒猫だ。
アウルムの隣にいるのは、ラーウスだ。彼女はぱっちりとした瞳が印象的な大人びた少女だけれど、やや小柄で、アウルムより頭ひとつ分ほど背が低い。艶やかなランプブラックの髪にアッシュブルーの瞳。彼女もまた努力家であり、剣であるアウルムのことを誰よりも慕っている。
二人の少女を前にして、ヴェロニカはつと立ち止まった。彼女たちが自分を待ち受けていたのだと、すぐに分かったからだ。
すると予想通り、渡り廊下の柱に背を預けていたアウルムは、ヴェロニカに気づいて体を起こすと、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
「アウルム……」
「魔法治療は終わったそうだな。いよいよ戦線復帰か」
アウルムはヴェロニカの目の前で、ぴたりと立ち止まった。輝く黄金色の瞳には、こちらを責めるような色がある。ヴェロニカはどこか気まずさを感じながらも、アウルムの視線を受け止めた。
「何しに来た? お前ともあろうものが医院に用があるわけでもあるまいし」
「決まっているだろう、お前を待っていたんだ」
「オレを……? なるほど、冷やかしか? それとも落ちぶれた元ライバルを嘲りに来たのか」
そう言って、ヴェロニカが自嘲気味に肩を竦めた。その刹那、アウルムはその生真面目そうな顔に怒りと苛立ちを浮かべると、ヴェロニカの胸元を乱暴に掴みかかってきた。それを見たラーウスが、慌ててアウルムを止めに入る。
「あ、アウルム様……!」
それでも、アウルムはその手を放さない。ヴェロニカに掴みかかったまま、金色の瞳にマグマのような激しい怒りをたぎらせ、声を荒げる。
「貴様がこの我のライバルだと? ふざけるな! 貴様などもはやライバルでもなんでもない。ただの臆病風に吹かれた負け犬だ!」
「何だと……⁉」
「確かにお前たちは……ヴェロニカ=サラ組は、第一部隊に所属してもおかしくないほどの実力の持ち主だった。入隊試験の時、我らがお前たちに勝って第一部隊に配属されることになったが、勝敗が決すまで、みな我らではなくお前たちが勝つものと予想していた。お前の背中を追いかけ、厳しい鍛錬を積んできたのも、全ては、お前たちという目標があったからこそだ!」
「……」
そんなことは知っている。オラシオンにやって来てから、ずっと共に研鑽を積んできたのだから。だがラーウスがいるアウルムと違って、今のヴェロニカには聖杯がいない。そのことがヴェロニカを余計に卑屈にさせた。
どこか投げやりな笑みを口元に浮かべるヴェロニカを目にして、アウルムはさらに憤りを募らせる。
「だが、今のお前には完全に失望させられた。お前はただ、サラを失った心の傷を持て余し、新しい聖杯に八つ当たりをしているだけだ! 相手の聖杯を尊重せず、接続する努力すらせず、ただ横暴に振舞っているだけだ。まるでママに反抗する甘ったれの子どものようにな!」
「アウルム……お前、よくもそんな事を!」
――聖杯を失った剣の気持ちなど知りもしないくせに!
アウルムの言葉にカッとなったヴェロニカは、その灰色の制服を掴み返す。あわや乱闘かと思われたその時、アウルムを鋭く制したのはラーウスだった。
「アウルム様、そのようにヴェロニカ様を侮辱するのはおやめください。サラ様を失ったことで最も深く傷ついたのはヴェロニカ様……それは事実なのです。ご存知でしょう?」
「黙れ、ラーウス!」
アウルムは怒声を放つが、ラーウスは引き下がらない。
「お怒りは分かります。けれど、らしくない行動はおやめください」
「らしくない、だと⁉」
「はい。聖杯を失い、苦しんでいる剣に悪意ある揶揄を向けるなんて、誇り高いアウルム様らしくありません」
「く……!」
アウルムの怒りは未だ収まらないようだが、ラーウスの言う事ももっともだと思ったのだろう。アウルムは徐々に落ち着きを取り戻すと、ヴェロニカの制服から手を放した。
「……そうだな。我は確かに冷静ではなかった。それは謝ろう」
ぶっきらぼうなアウルムの言葉に、ラーウスが微笑を浮かべながら続ける。
「ヴェロニカ様、どうかお気を悪くされませんよう。アウルム様は、ヴェロニカ様の事を誰よりも気にかけ、復帰なさるのを楽しみにしておられたのです。ヴェロニカ様はアウルム様にとって、今でもライバルなのですよ」
「ラーウス、余計な事はしゃべらなくていい」
アウルムは不機嫌そうに吐き捨てるけれど、本当に機嫌が悪いわけでは無いのだろう。
ヴェロニカも、それはよく分かっている。アウルムとラーウスは二人とも、とても努力家だ。生真面目すぎる雰囲気から冷たいイメージを抱かれがちだけれど、とても情の深いところもある。だから第二部隊のヴェロニカを心配して、こうやって渡り廊下で待ち構えていたのだろう。
「……」
ヴェロニカはひと言も発することができなかった。アウルムやラーウスにそのように言われてしまったら、サラを失った悲しみに振り回されている自分が、ひどく幼稚に思えてくる。
サラの死を乗り越えられない自分が――忘れられない自分が愚かなのだろうか。サラの存在を無かったことにして、さっさと新しい聖杯に乗り換えるべきなのだろうか。
唇を引き結んで黙りこんだまま、激しい葛藤に苛まれるヴェロニカに、アウルムは一瞬、表情を曇らせた。けれども、すぐに毅然とした表情に戻る。
「我を失望させるな、ヴェロニカ。……戻ってこい。お前はサラを失ってしまったが、それは誰が悪いわけでもないのだ。お前はまだ生きている。新しい聖杯もいるのだ。……我はこれ以上、お前の無様な姿を見たくない。アルクスで……戦場でお前が戻って来るのを待っているからな」
そう言い残すとアウルムは踵を返し、大股でヴェロニカの前から立ち去っていく。残されたラーウスは、何か言いたげな視線をヴェロニカに送るけれど、結局、何も言わずに一礼をすると、アウルムの後を追った。
ヴェロニカはその場に立ち尽くしたまま、小さくうな垂れる。アウルムはきっと知ることはないだろう。自らの信頼する聖杯が傍にいる彼女を、ヴェロニカがどれほど羨ましいと思っているか。サラを失った自分を、どれほど惨めで無様だと嘲っているかを。
身体の傷は治ったけれど、サラを失った心の傷は決して癒えることはない。それどころか今も生々しく血を吹き出し続けているのだ。ヴェロニカはサラを忘れられない。永久にサラは、ヴェロニカの中からいなくなることは無いのだから。
新しい聖杯がどれほど優秀で、どれだけ実力を伴っていたとしても、ヴェロニカは新しい聖杯を受け入れることなんて出来ない。ヴェロニカの聖杯はサラしかいない。サラ以外の聖杯など考えられないのだから。
ヴェロニカは、そのことを改めて思い知らされていた。時間が経てば経つほど、その想いは薄らぐどころか、ますます強くなっていく。この虚無感が、喪失感が、消えることはないのだろう。誰が何と言おうと、ヴェロニカにとってはそれが真実なのだ。
だが、アウルムの言うことも一理ある。ヴェロニカがサラを失ったことで心に深い傷を負い、傷を持て余すあまり、新しい聖杯に感情をぶつけてしまったことだ。
(オレは……まだ一度も、ちゃんとあの東方人――ナナオと話をしていない)
七緒は何も悪くない。むしろヴェロニカの事情に巻き込まれた被害者だ。彼女には真っ当な黒猫となる権利がある。ヴェロニカがサラ以外の聖杯と組みたくないからと言って、彼女の未来まで奪って良いことにはならない。七緒ときちんと話しをしなければ。そして、正式にペア解消を告げるのだ。
彼女を解放してやらなければ。
ヴェロニカはそう決意を固めると、学校に向かって歩み出した。