第十三話 甘く誘う声
とぼとぼと真っ白な廊下を歩いていると、言いようのない悲しみが込み上げてきて、胸がずたずたに引き裂かれそうだった。徐々に足が早くなってゆき、小走りになると、七緒は逃げるようにして医院を飛び出したのだった。
そのまま訓練場に戻る気にはなれなかった。かと言って寮に戻る気にもなれず、気がつけば七緒は学校の屋上へと向かっていた。あそこはいつも昼休みに一人で過ごす、七緒が唯一、心安らげる場所だから。
校舎の階段を駆け上がり、屋上にたどり着いた七緒は、しばらく大きく肩で息をしていたが、唇をきゅっと引き結ぶと、堪えきれずにその場にうずくまってしまう。
一度、腰を落ち着けてしまうと、二度と立ち上がる気力すらなくなって、七緒は屋上の隅で膝を抱えたまま、いつまでも小さく丸まっていた。
やがて日が落ちて、あたりが真っ暗になっても、七緒は屋上から動くことができなかった。ヴェロニカにぶつけられた言葉が耳の中に張りついて、木霊のように甦ってくる。そのたびに、殴られたような衝撃が七緒を襲った。
今まで他人と距離を置いてきた七緒は、誰かに優しくされることも無かったかわりに、ひどく傷つけられることも無かった。陰湿ないじめはあったけれど、面と向かって罵られることも、激しい怒りをぶつけられることも無かったのだ。それなのに、よりにもよってヴェロニカから、あんなに酷いことを言われるなんて。
どんなに頑張っても、自分の言いたいことが伝わらないことが、ただただ悲しくて。切れ味の鋭いナイフのようなヴェロニカの言葉が恐ろしくて。七緒は屋上から一歩も動くことができなかった。
(やっぱり……私にいていい場所なんて無い……! 一ノ瀬の家でも、オラシオンでも同じ……‼ 誰も私とは一緒にいたくないし、組みたくも無いんだ‼)
七緒のいったい何が悪かったのだろう。誰にも必要とされない自分が、ヴェロニカの力になりたいとおこがましいことを願ったから、罰が当たったのだろうか。それとも、今まで自分から人と関わろうとしなかった怠惰の報いを受けているのだろうか。七緒にはまるで分からなかった。
どんなに拭っても、涙は堰を切ったように次から次へと溢れて、ほほを伝って滴り落ちる。七緒はとうとう顔を覆ってしまうと、肩を震わせながら、小さく嗚咽を漏らした。
「ううっ……ひっ……!」
惨めだった。どうしようもなく惨めで、恥ずかしかった。自分はいったい何を期待していたのだろう。ヴェロニカから暖かい言葉が返ってくるのを望んでいたのなら、それほど愚かな事はない。ヴェロニカは出会った時から一度だって、七緒に心を開いたことは無いのだから。
今となっては、自分の軽率な言動に呆れるれるばかりだ。こんな事になるくらいなら分不相応な願いなど抱かずに、お下げに顔を埋めたまま、永遠に大人しくしていれば良かったのに。
(このまま消えてしまいたい……私の身体なんて、スィスィアの森から吹いてくるこの風に吹き飛ばされればいい! 私の存在そのものを消し去ってしまいたい……‼)
すでに空は夜闇に包まれ、頭上には無数の星々が瞬いて、賑やかにさざめき合っている。おまけに遮るものが何もない屋上は、風が吹きさらしとなっていて、ひどく寒い。じっとしているだけで凍えてしまいそうだ。
それでも七緒は、そこから動かなかった。屋上にいれば何かが解決するわけではないけれど、寮に戻ったとしても何をすればいいのだろう。勉強も、訓練も、何の役に立つとも思えないのに。
その時の七緒には、オラシオンでの生活すべてが空虚で、意味のないものにしか感じられなかった。剣のいない聖杯に存在価値などない。ヴェロニカに認められない七緒にとって、オラシオンでの居場所は無いのも同然なのだから。
するとその時、ふと北から吹いてくる風に乗って、何かが聞こえたような気がした。低くかすれて不気味だけれど、どこか甘く、密やかに七緒を誘う声。
時おりスィスィアの森から聞こえてくる、幻聴だろうか。七緒はそう思ったけれど、今日はやけにその声が大きいような気がする。気のせいだろうか。
――いや、そうではない。「おいでおいで」と七緒に呼びかける声は、いつもなら耳を澄ますとすぐ聞こえなくなってしまうのに、今日はいつまでたっても途切れることがない。
風に混じったかすかな声音は徐々に大きくなり、ついには、はっきりと七緒の耳に届いた。
『――おいで……おいで。お前の望みを叶えてあげる。だから、こちら側へおいで……』
膝に顔を埋めていた七緒は、ゆるゆると首をもたげた。
「声が……聞こえる……? 幻じゃない……スィスィアの森のほうから……」
今までも不思議な声がスィスィアの森から聞こえてくることはあったけれど、それは風の音と聞き間違うほど儚く、意識して耳を澄ますと途端に消え失せてしまうほど弱々しいものだった。ところが、これまでかすかだった呼び声が、はっきりとした言葉となって、七緒の耳に流れこんでくる。
何故なのだろう。
『さあ、おいで。こちらにおいで。楽にしてあげるよ……』
いったい誰が七緒を呼んでいるのだろう。この声の主は、どこにいるのだろう。
この声に従ったら、本当に楽になれるのだろうか。七緒は顔を上げると、スィスィアの森へと視線を向けた。学校の屋上から見えるスィスィアの森は、寮の自室から見るより黒々として、得体が知れないように感じられる。あまりにも気味が悪くて、見ているだけで背筋が寒くなってくるほどに。
でも、このまま七緒がオラシオンにいても、ただ苦しいだけ。どこからともなく聞こえてくる謎の呼び声に従うのも、悪くないのではないか。そう思った七緒は立ち上がると、ふらふらと森に向かって身を乗り出した。
本当に望みをかなえてくれるのなら、楽にして欲しい。今、すぐに――――
足を踏み出そうとした次の瞬間、七緒は強い力で手首を掴まれた。
「その声を聞いてはいけないよ」
「え……?」
気づけば七緒の背後に、一人の少女が立っていた。彼女が七緒の手を掴んで、スィスィアの森へ行ってしまわないよう繋ぎ止めてくれているのだ。
――誰だろう。見知らぬ少女だ。どこかで見たような気もするけれど、思い出せない。
「その声は、魔女の声だ。従ってはいけないし、耳を貸してもいけない。そうでなければ……戻れなくなってしまうよ」
夜闇に浮かび上がるミストホワイトの髪、月光の下で妖しい光を放つレッドワインの瞳。肌は白磁みたいに滑らかで白いけれど、唇はもぎたての林檎のように赤い。神秘的なまでの存在感を放つ少女だった。
ヴェロニカも美人だが、彼女はそれとも少しタイプが違う。上手く言い表せないけれど、ヴェロニカが夜空に輝く月だとするならば、彼女は夜の闇そのものだ。掴みどころがなく、底が知れない深淵。手を伸ばせば伸ばすほど、その暗闇に飲みこまれそうになる。
星々の幻想的な光を浴びた少女は、ぞっとするほど美しかった。七緒より年上に見えるけれど、本当は何歳なのだろう。瑞々しい少女の魅力と、老獪さを思わせる落ち着きの、両方を兼ね備えた瞳をしており、どこか人間離れしているように感じてしまう。
「……。あなたは……?」
七緒は戸惑って、少女に誰何する。すると彼女は少女とは思えないほど妖艶な笑みを、その紅い唇に浮かべた。
「私はアーテル。第一部隊の黒猫だ」
「第一部隊……」
「君はナナオだろう? 東の国から来た、一番新しい黒猫」
七緒はようやく、目の前の少女が何者かを思い出した。初めて魔女討伐を見学した際に、大剣を手にした一対の黒猫が、魔女の顔面を覆う白い仮面を真っ二つにしていた。それが致命傷となって、魔女を討伐することができたのだ。間違いなく、あの日の討伐で最も活躍した黒猫だったと言っていい。
アーテルは、その時の黒猫の片割れだ。右手に大剣を携えていたから、おそらく彼女が剣なのだろう。
彼女の存在感は、数多いる黒猫たちの中でも際立っていた。第一部隊の黒猫はトップクラスの実力の持ち主が集められるそうだけど、アーテルは第一部隊の中でもさらに一、二を争うほどの力を持つ黒猫なのだ。
そんなトップクラスの黒猫が、どうして夜の屋上にいるのか。七緒にいったい何の用があるのだろう。
いぶかしむ七緒だったが、当のアーテルはまじまじと七緒の顔を見つめながら微笑んだ。
「……泣いていたのかい?」
「……‼」
七緒はあわてて頬を伝う涙を拭った。こんなところで子供みたいに泣いていたと知られるのは、いくら本当のことでもさすがに恥ずかしい。顔を赤くする七緒に気を遣ってか、アーテルはそれ以上、涙について言及しなかった。
「君は確か……ヴェロニカの新しい聖杯だったね?」
アーテルにそう尋ねられたけれど、七緒は返答に窮したまま、涙で濡れたまつ毛を伏せる。
「……ヴェロニカは私とは組みません」
「どうして?」
「私は……嫌われているから」
「君たちは嫌い合うほど、互いを理解しているようには見えないけどな」
アーテルは人差し指を口元に当てると、悪戯っぽい仕草で、うつむく七緒の顔を覗きこんだ。けれど、七緒は弱々しく首を振る。
「そういうのは、理解しなくても自然と決まるものだから……」
「そうかな?」
なおも不思議そうに首を傾げるアーテルに、七緒はとつとつと話し続ける。
「私は、いない方がいい人間だから……今までずっとそう言われ続けてきたから。この世界はどこまでも冷たくて、冷たくて……私は弱い人間だから、その冷たさに身が竦んでしまうし、簡単に傷ついてしまう。ヴェロニカはそんな私に苛立っているんだと思う。誰だって、いなくてもいい人間なんかと組まされたら腹が立つもの」
サラのことが無かったとしても、ヴェロニカは七緒とは組まないだろう。彼女は美しく、強い。ヴェロニカの聖杯になりたいと願う黒猫は、他にも大勢いるに違いない。彼女はきっと、光に満ちた輝かしい世界で生きてきたのだから。そんなヴェロニカにとって、七緒なんて日陰でひっそりと生きる苔と同じくらい、どうでもいい存在なのだろう。七緒なんかがヴェロニカの聖杯になりたいと願ったこと自体、そもそも分不相応だったのだ。
するとアーテルは、七緒を慈しむように目元を細めた。
「……そう。君はとても辛い思いをしたんだね」
生まれて初めてかけられた優しい言葉に、七緒の目元に涙が迫り上がった。一ノ瀬家でもオラシオンでも、七緒に同情し、優しい言葉をかけてくれる者は誰もいなかった。けれど本当はずっと、七緒はその言葉を待っていたのかもしれない。
言い表すことができない寂しさと悔しさ、そして悲しさがない交ぜになって、胸に溜まっていた想いと一緒にこみ上げてくる。今まで押さえつけていた感情が、堰を切ったように涙となって溢れ出るのを、七緒は抑えることができなかった。
「私……私、どうしていいか分からない。私が生きるのを許される世界なんて、どこにもない……! どこに行っても同じ……オラシオンでも嫌われて、和国に戻ることもできない。苦しいの。息がどんどん詰まって、抵抗もできないまま、心が弱って死んでいく。苦しいことばかりなの……!」
「そう……」
七緒は零れ落ちる涙を両手で拭いながら、叫ぶように苦しい胸の内を吐き出す。知り合ったばかりの少女の前で泣きじゃくるなんて、恥ずかしい事だと分かっているけれど、それでも涙を抑えることはできなかった。
アーテルはそんな七緒を馬鹿にすることもなければ、叱責することもなく、慈愛に満ちた優しい眼差しで見つめていた。
しかし、アーテルは恐ろしいほど作り物めいた美貌を、七緒の耳元へ近づけると、不意に小さく囁いた。
「自分を憐れむのは気持ちがいいかい?」
「……!」
「分かるよ。悲劇のヒロインというのは、いつだって甘美な自己陶酔に浸れるし、周囲の同情を誘うこともできる。可哀想な女の子は、みんなの大好物だからね」
「そんな……!」
七緒はアーテルの真意を図りかねて、その妖艶に煌く瞳を見つめ返した。先ほどまでワインレッドだった瞳は、夜闇で見るせいだろうか、今は限りなく混じりけのない赤に見える。その光には、まるで悪意が感じられず、ガラス細工のように透明で、どこまでも優しい。
だから七緒は逆らうことできず、アーテルの言葉に大人しく耳を傾けるしかなかった。
「……もし君が故国で守られ続けるのなら、そういう生き方も十分あるだろう。でもね、ここではそれでは駄目なんだよ。ここはオラシオンだ。すぐそばにはスィスィアの森があり、魔女たちが手ぐすねを引いて君を誘い込もうとしている。魔女たちはね、君が抱いているような、空虚で傷ついた心が大好物なんだ。君にも彼女たちの声が聞こえるだろう? あの声に呑まれたら……君はもう二度と、元の自分を取り戻せない」
「でも、私……私……!」
言葉を詰まらせる七緒に、アーテルはどこまでも無邪気に問いかける。
「君は、本当はどうなりたいんだい? 何をして、どういう未来を手に入れたい?」
「わ……分からない……」
「いいや、君はそれを知っているはずさ。ただ、その願いは君の中で眠っているだけ……いいかい、これだけは覚えておくんだ。ここでは願いの強い者が生き残る。どうしてか分かるかい? ……願いの強さは命の強さ、魔法の強さだからさ」
「願いの強さは、命の強さ……」
七緒はアーテルの言葉を小さく繰り返した。アーテルはどこか嬉しそうに頷き返す。
「そう。だから君は、君の中で眠っている願いを呼び覚まさなければならない。そうすれば、あの森から誘惑してくる声も、自ずと聞こえなくなるはずだ」
耳をすませば、夜風に紛れてスィスィアの森から、七緒を呼びかける声が聞こえてくるような気がする。けれど今は、アーテルが傍にいるからだろうか。先ほどのように、はっきりとは聞こえなくなっていた。七緒は自分より高い位置にある、アーテルの深紅に輝く瞳を、まっすぐに見つめて尋ねた。
「……。どうして……私にそんな話をするの?」
「私はね、もう誰も死なせたくないんだ。見てごらん」
アーテルが指し示したほうへと視線を向けると、校舎の下、スィスィアの森とは反対側に、石碑のようなものが整然と並んでいるのが見えた。その石碑の前には、花束やお菓子が供えられている。どれもきれいに手入れされているけれど、どことなく近寄りがたい、静謐で厳かな場所。デュシスの風習に疎い七緒でも、それが何であるか、すぐに察しはついた。
「あれは……お墓?」
アーテルは、「ああ、そうさ」と頷く。
「このオラシオンでは、数え切れないほど大勢の黒猫たちが命を落としてきた。私はもう、そんな事は終わりにしたいんだ。私はね、ナナオ。君に死んでほしくないんだよ」
「……」
黒猫のリーダーとして、これ以上、仲間の犠牲を出したくないのは当然のことだろう。いくら七緒が新入りで、接続にも成功していないとはいえ、もし魔女討伐で命を落とせば、他の黒猫たちの士気にも影響してくることは間違いない。下手をすると、足を引っ張ることにもなりかねない。
けれど、アーテルが言っている事は、それとも少し違うような気がした。彼女にある感情は、もっと人間的な温かさに満ちたものだ。
「さあ、寮に戻ろう。ここは寒い。風邪をひいてしまうよ」
アーテルはどこまでも優しい。黒猫の頂点に立つ者としての余裕や責任感が、そうさせているのだろうか。入ったばかりの第二部隊の七緒のことまで、こうして気にかけてくれる。謎だらけの人物だし、本心もよく分からないけれど、それでも瞳を見れば、彼女の言葉が優しさと思いやりから来るものだと分かる。
だからアーテルの言葉は、濁ったり淀んだりすることなく、すとんと七緒の中に降りてきたのだった。
(私は、どうなりたいんだろう……?)
そう問われても、七緒はすぐに答えが出ない。そもそも一ノ瀬家では、七緒は自己主張をすることを許されていなかった。自分の望みを口にすることは我がままなことで、周囲に配慮できない自分勝手な行為とみなされていたからだ。ヴェロニカは七緒のことを「死んだ魚のようだ」と表現していたけれど、半分は当たっている。七緒はずっと、自分を押し殺して生きてきたのだから。
だから自分が何を望んでいるか、自分自身に問うてみても、すぐに答えは返ってこない。
(私は、どんな未来を望んでいるんだろう……)
ふと七緒の頭の中に、ヴェロニカの隣に立つ自分の姿が思い浮かんだ。接続に成功し、ヴェロニカの聖杯となっている自分を。
あれほど拒絶されたのに、どうしてヴェロニカにこだわるのだろう。七緒はたぶん、ヴェロニカに憧れているのだと思う。自分と違って、はっきりと己の意志や感情を言葉にできるヴェロニカに。その強さや自由な心に、七緒はどうしようもなく惹かれてしまうのだ。
けれど、いくら想像しても、ヴェロニカの隣に立つ七緒は不安げで頼りなく、お下げの間に顔を埋めたままだ。ヴェロニカも不機嫌そうで、目も合わせてくれない。望んでいるはずの光景なのに、何かが違う。ちっとも完璧じゃないのだ。でも、どうすれば完璧になるのか、七緒には分からない。
(どうして、そんな簡単なことが分からないんだろう。私、オラシオンのことも、ヴェロニカのことも……自分の気持ちすらも、何ひとつ分かってない)
いや、今までは分からなくても良かったのだ。時おり苛められることはあっても、自分を殺しさえすれば、一ノ瀬家では生きていけた。大事なことは大巫女である祖母や父母が決定し、七緒はただ何も考えずに、それに従っていれば良かった。一ノ瀬神社は七緒にとって冷たい場所だったけれど、大人しくしていさえすれば、それなりに守られていたのだ。
その証拠に、七緒は一度も自分の意志で一ノ瀬家から出ようとはしなかった。家の中が安全だと、心のどこかで分かっていたのだろう。おまけに、それがおかしいとさえ思わなかった。こうして一ノ瀬家から追い出され、デュシスに送り込まれるまでは。
(私……、私……!)
七緒の中で何かが芽生えはじめていた。それがどういった感情なのか、自分にいったい何が起こっているのか、七緒にもよく分からない。
ただひたすら己に問い続ける。
自分はどうなりたいのだろう。どういった未来を欲しているのだろうと繰り返しながら。