第九話 新しい生活
オラシオンでの生活に少しづつ慣れてきても、七緒は相変わらず一人で、誰とも言葉を交わさずに日々を過ごしていた。
寮の中はもちろん、授業中や訓練の間も、いつも一人だった。どうしても必要に迫られた時は言葉を発するけれど、自分から積極的に誰かに話しかけたり、コミュニケーションを取ることはしなかった。七緒はただ、故郷で独りぼっちだった時と同じように振舞っているだけだから、それがおかしいことだとも思わなかった。
ヴェロニカは初めての接続に失敗して以来、訓練場に姿を現さなくなった。パートナーのいない七緒は、訓練中、一人でランニングをして過ごしていた。ほかの黒猫たちが接続をして、空を舞っている間も、だだっ広いグラウンドの外周を、黙々と一人きりで走り続けていた。
ヴェロニカの傷は良くなったのだろうか。あれから少し元気になったのだろうか。彼女のことが気にならないわけではないけれど、七緒が勇気を出してヴェロニカに声をかけたとしても、拒絶されるのは目に見えている。だから七緒は進んでヴェロニカと接触したりはしなかった。
ヴェロニカが何に怒っているのか分からないのが怖いし、自分から声をかけるのも恥ずかしかった。何より、どう声をかけていいのか七緒には分からなかったのだ。
(私……どうしたらいいんだろう……?)
ヴェロニカの怪我が一日も早く治ればいいのに。七緒は心から心配しているけれど、七緒の気持ちを伝えたところで、ヴェロニカはいい顔をしないだろうし、励みにもならないだろう。自分はヴェロニカに疎まれ、嫌われている。そう考えると心臓のあたりで鈍い痛みが疼いて、七緒はひどく落ちこむのだった。
もう一つ七緒を気落ちさせたのは、オラシオンでの生活に慣れてきた頃に、ある事に気づいてしまったことだ。
特に学校生活において顕著なことだけれど、少女たちは基本的に二人一組になって行動しているらしい。もちろん一人で行動している黒猫もいるし、三人以上のグループで行動している少女たちもいるけれど、二人一組になって行動している場合が圧倒的に多いのだ。
彼女たちは聖杯と剣だ。接続を成功させるために、聖杯と剣は日頃からコミュニケーションを密にしなければならないとレティシアは言っていたから、その為だろう。聖杯と剣は魔女討伐や訓練の時だけではなく、日常生活でも行動を共にしていることが多かった。
もし接続ができなければ、魔女討伐に出ることはできない。黒猫としての責務を果たせない少女は、ひどい罰を受けたり、オラシオンから追放されることもあるという。黒猫たちにとって接続できるか否かは死活問題なのだ。
それは七緒にとっても同じで、もしオラシオンを追い出されたら、一ノ瀬の家に帰ることができない七緒は、どこにも行き場所を失ってしまう。
学校や寮で仲睦まじい聖杯と剣の姿を目にするたび、七緒はつい思ってしまうだった。
(あんな風に、剣と強い信頼関係で繋がることができたら……どうなるんだろう。私がヴェロニカに聖杯として認められたら……)
けれど、いくら想像しようとしてみても、うまく思い描くことができない。七緒は今まで常に独りで、親しい友人は一人もいなかった。家でも同様で、両親に甘えたこともなければ、姉妹と楽しくおしゃべりをしたり、家族と気やすく軽口を叩いた記憶もない。だから、ヴェロニカとどうすれば仲良くなれるのか、七緒には想像もできなかった。
ただ、仲良く肩を並べて歩く聖杯と剣を見つめていると、何だか胸がモヤモヤとしてくるのだった。自分もヴェロニカと、彼女たちのように親密な関係になれたらいいのに。そう強く願うほど、それが手に入らないことが苦しくて、ひどく胸が締めつけられそうになる。
親しげにおしゃべりしている少女たちが羨ましくて、妬ましいとさえ感じてしまう。そう思うほど、いつも一人でぽつんとしている自分が、ひどく惨めに思えてならないのだった。
「………」
そのたびに七緒はため息をついて、お下げに顔を埋めるのだった。この癖がヴェロニカに嫌われる原因のひとつなのだと頭では分かっていても、どうしてもやめることができない。
この『避難場所』が無くなってしまったら、七緒の心はどこにも行き場がなくなってしまう。そんなことは、とても耐えられそうにない。七緒を守ってくれるのは、このお下げだけなのだ。
だから七緒はうつむいて、目の前の光景からそっと視線を逸らすしかなかった。お下げに顔を埋めてさえいれば、何も得ることがないかわりに、ひどく傷つくこともないのだから。
オラシオンに来て二週間がたったある日。七緒は突然、レティシアに呼び出された。指定された空き教室に向かうと、そこには制服や戦闘服が一式、並べられていた。どれもトルソーに着せられていて、スカートをふんわりと広げている。
「ナナオ、来たわね」
トルソーの隣で七緒を待ち受けていたレティシアは、にっこりとほほ笑んだ。
「あの、これは……?」
「あなたの制服と、戦闘服ね。ようやく仕上がったのよ。さっそく着てみてくれる?」
七緒はレティシアに言われるまま、故郷の高校の制服を脱いだ。まず袖を通したのは、漆黒のドレスである戦闘服だ。ドレスの裾はひざ丈で、美しく波打っており、素材も軽い。わずかに動いただけで空気を含み、ふんわり広がる仕様だ。
胸は大胆に露出しているけれど、首元まで黒い花柄のレースが覆っているので、あまり気にならない。背中もかなり空いているものの、前と同じように黒い花柄のレースで覆われている。黒いレースの手袋に、黒いハイヒール、そして黒いタイツ。小柄で大人しいイメージの七緒に合わせてか、どれも清楚で可愛らしい雰囲気だ。
レティシアは戦闘服を着た七緒の姿を見て、満足そうに頷いた。
「いいわね、よく似合うわ。あなたに合わせて衣縫部がデザインし、仕立ててくれたのよ。戦闘服はそれぞれの黒猫に合わせてデザインするのが決まりだから。……どう? どこかきついところはない?」
「大丈夫、です。でも何だか……私じゃないみたい……」
七緒は途轍もなく恥ずかしくなって、真っ赤になってうつむいた。レティシアが引っぱり出したスタンドミラーに映りこむ七緒は、あまりにも華やかすぎて、まるで自分ではないみたいだ。七緒みたいな地味で、美人でもない人間が、こんな素敵な格好をしてもいいのだろうか。違和感を抱くあまり、訳の分からない罪悪感まで湧きあがってくる。
するとレティシアは七緒の背後に回って肩に両手を添えると、一緒に鏡を覗きこんだ。
「……自信を持って。きっとうまくいくわ。ヴェロニカも……本当はとても仲間思いの良い子なの。それに、とても優秀な黒猫なのよ。ただ……いろいろあったから、今は自信を失っているだけ」
「……」
レティシアの口から出たヴェロニカの名前に、七緒ははわずかに眉間を曇らせると、目を伏せてしまった。本当にそうなのだろうか。彼女は最初に出会った時から一貫して態度を変えていないし、一度たりとも七緒を聖杯として認めてくれたことは無い。ヴェロニカが認識を変える日なんて、本当に来るのだろうか。
レティシアは嘘や誇張を口にするタイプには見えないから、ヴェロニカが優秀な黒猫というのは本当なのだろう。でも、七緒とヴェロニカがこのままペアを組んで上手くいくようになるなんて、まったく自信はなかった。肩を落とす七緒を励ますように、レティシアは声をかけてくる。
「接続はどう? 上手くいってる?」
「……分かりません」
「分からない? どうして? 自分のことでしょう?」
訝しげな表情になったレティシアに気づき、七緒はあわてて発言を改めた。
「えっと……上手くは、いってないです。……ごめんなさい」
尻すぼみに言葉を濁して、途端に小さくなってしまった七緒を、レティシアはため息をつきながら鏡越しに見つめた。
「ナナオ、言いたいことは、もっとはっきり言っていいのよ? あなたの国では曖昧さは美徳だったかもしれないけれど、ここはデュシスで、その上、オラシオンは魔女討伐の最前線なのだから。円滑な意思疎通は、作戦を展開する上でも必須よ。あなたが何を考えているか、みんなも知りたがってるわ」
しかし、七緒はレティシアの助言を、どこか空虚な感情とともに聞いていた。
(そうなのかな……? ううん……そんなこと、あるわけない……ここの人たちはみんな、きっと私のことなんて、いてもいなくてもどうでもいいって思ってる。……一ノ瀬の家の人たちも、みんなそうだったもの)
七緒にとって、世界は冷たいのが当たり前だった。レティシアのように優しく接してくれる人間のほうが稀で、いつだって無視をされ、いないのと同じ扱いをされてきた。国や場所が変わったからといって、この冷たい世界が急に変わるなんて思えない。七緒が不必要な人間である限り、居心地の良い場所なんてどこにも無いのだから。
(私はこのまま、一人でいい。このままが……楽だもの)
七緒は常に一人だった。一ノ瀬の家でも、故郷の神社でも学校でも、いつも一人だった。だから孤独には慣れている。よけいな期待を抱けば辛くなるけれど、そんな愚を冒さなければ、いつもと変わらないのだから。このまま永遠に、この冷たさが続くだけ。そう割り切ってしまえば、七緒にとって孤独はむしろ心地良いものだった。
学校で仲睦まじくしている聖杯と剣の姿を見せつけられるたび、胸がざわつくことはあるけれど、自分とは関係ないものなのだと諦めてしまえば、それ以上、執着や苦痛を感じることもない。
七緒は今まで、ずっと一人で生きてきた。ここオラシオンでも、それが続くだけだ。
もしこのままヴェロニカと接続できなければ、七緒はどうなるのだろう。それはまだ分からない。オラシオンにはいられなくなるかもしれない――それだけが気がかりだったけれど。
だからと言って、どうすればいいのだろう。ヴェロニカにあれほど拒否され続けてるのに、七緒にできることなんて、何も無いように思える。
考えれば考えるほど気が滅入ってきて、七緒はその日、何度目かになるため息を小さくついた。初めてのことだらけの環境に戸惑って、上手くいかないことばかりで、何が原因で上手くいかないのかも、よく分からない。
思い悩む七緒をよそに、それでも時間は待ってくれない。昼休憩もはやくも半分が過ぎ去ろうとしている。昼食をしっかり摂らなければ、午後の授業はともかく、訓練はとても耐えられそうにない。
七緒は灰色をした真新しいオラシオンの制服に着替えた後、昼食を摂るために学校の屋上へ向かった。校舎の中には食堂もあるけれど、たくさんの黒猫たちで混雑することが多くて、七緒はあまり好きではない。だから売店でサンドイッチを買って、屋上で食べるのが日課となっていた。
ほかの生徒が屋上にはやって来ることもほとんど無いし、誰にも気兼ねしなくていい。今のところ屋上だけが、七緒が息をつくことのできる安全な場所だった。