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合わせ鏡の涙と雨

作者: フジミツ タスク

 校舎の廊下を歩く足音だけが、響き渡る。先ほど階段を登った時も誰ともすれ違わず、廊下に出ても他の人は見かけなかった。

 ふと窓の外へ視線を移し、足を止める。閉じられた窓が無数の水滴を弾き、雨音を奏でている。濡れた硝子の先にある景色は、雨水で滲んでいてよく見えなかった。

 外から視線を外し、再び歩き出す。しばらく廊下を先に進み、『二年一組』の表札が掲げられた教室の前で、立ち止まる。少し耳を澄ませてみたが、特に物音は聞こえなかった。

 教室の引き戸に手を掛けて、少し力を込める。カラカラと乾いた音を立てながら、ぎこちなく戸が開いた。

 教室には、一人だけ男子生徒が残っていた。椅子に座り、机に頬杖をつきながら、窓を見つめている。外にある何かを眺めたいわけではなく、ただ、ぼんやりと視線が彷徨っているだけのように見えた。

 教室に入り、生徒へ近づく。こちらの存在に気がついたのか、どうでもよさそうに彼はこちらに顔を向けた。

「あんた、誰?」

 彼の不躾な視線と吐き捨てるような言葉に、僕は思わず苦笑を浮かべる。何かに苛ついているのか、何かを諦めているのか。長い前髪から覗き見られたのは、そんな瞳だった。

「一応、俺は先生だよ」

 とりあえず答えておくと、彼は少しばつが悪そうな表情をして、口を結んだ。一人で教室に残っていることに触れられるのが、面倒くさいと思っているのだろう。

「君、名前は?」

 今度はこちらから質問を投げかける。答えてくれることにあまり期待は無かったが、思っていたよりも素直に彼は応じた。

「岡辺、です」

 取ってつけたような敬語の使い方に、少し呆れそうになる。無理に敬語なんか使わなくてもいいよ、と言い聞かせながら、質問を続けた。

「ここに残って、一人で何をしていたんだ?」

 岡辺は鋭い目を更に細めながら、雨が滴る窓を横目に答えた。

「進路希望調査、書いてた」

 彼の言葉を聞き、机上に視線を落としてみると、そこにはシンプルな書体で『進路希望調査表』と書かれていた。第一希望だけでなく、名前まで全て空白だった。

「これを提出しないと、帰れないらしいから」

 こちらは向かずに、岡辺が呟く。視線はまた、窓に向けて宙を彷徨っていた。

「とりあえず書くだけ書いて、提出するのは駄目なのか?」

 あまり考えずに提案すると、岡辺は小さく首を横に振った。

「本当は適当に書けば良いんだろうけど、それすらも出来ない」

 彼は不器用だな、と不意に思う。真面目に考えることもせず、完全に課題を投げ捨てることもせず、どちらにも偏らず悩み続けている。どうしようもなく、中途半端だ。

「あのさ、先生」

 黙っていると、岡辺が口を開いた。無言で続きを促すと、彼は淡々と喋り始めた。

「俺さ、進路の希望どころか、自分の将来の希望にも何も興味がないんだ。全部どうでもいい」

 激しい雨音が、窓を叩く。その轟音に掻き消されそうな声で、岡辺は続ける。

「暗いだとか不気味だとか言ってくるクラスの連中といても何も感じないし、役に立たないことばかり教わる学校にいても、何も興味が湧かない。ただ黙ったまま、一日が終わる」

 言葉を区切って、岡辺がこちらに顔を向ける。鋭い目つきだったが、その瞳に映っていたのは諦めや嫌悪のような、負の感情だった。

「ここにいる意味がないし、生きている意味もない。もう、死んでもいいかな」

 最後に言いたいことを言い切ったのか、岡辺は深く息を吐く。再び、雨の中で静寂が訪れる。

 しばらく彼の言葉を考えた後、岡辺の目を見ながら、僕は言い放った。

「死ぬのは、まだ辞めた方がいい」

 ただの説教が始まるのかと予想していたのか、岡辺は複雑な表情で首をかしげた。何か言いたそうな彼を遮るように、続ける。

「まだ、十七年しか生きてないだろ。先は長い」

 今度は説教めいた言い回しだったからか、岡辺は露骨に嫌そうな顔をした。

「あんたには、分かんないだろ」

 吐き捨てるように言う岡辺に対して、僕は弾かれたように答える。

「分かるさ」

 簡単に言われたからか、その表情が嫌悪から怒りに姿を変えそうになる。今にも殴りかかってでも来そうな彼を横目に、僕は続ける。

「お前は、嫌なんだろ。自分が生きてる場所も、周りの他人も、そんな考えしか出来ない自分も。全部が大嫌いなんだろ。そんなこと、僕は知ってる」

 そう、知っている。楽しそうに生きている他人が嫌いだった。自分はそう振る舞えない世界が嫌いだった。そんな人や世界を受け入れて諦めている自分が、一番嫌いだった。

 岡辺––––––高校生の、十年前のもう一人の自分に、僕は語りかける。

「でも、そんなのは今だけだ。もうしばらくすれば、友達も作れる。沢山じゃないけど、本当に信頼出来る友人と、必ず出会える。それに、お前を隣で支えてくれる、大切な人にも巡り会えるんだよ。だから」

 途中で言葉を止めて、彼の瞳をもう一度覗き込む。諦めでもなく、嫌悪でもなく、この時の自分の目は、ただ何かに怯えて、泣いていただけだった。

「だから、お前は大丈夫だよ」

 雨の音に負けないぐらい強い声で、僕は彼に精一杯伝えた。

 僕の言葉を聞いた彼は、しばらく唖然としていたが、しばらくすると、ぎこちない微笑みを浮かべた。会ってから初めて見せる表情だった。

「そっか」

 僕から目を逸らし、窓の外へ視線を移す。その瞳は虚ろではなく、しっかりとその先を見据えていた。

「俺が言うなら、信じてみるよ」

 彼のそんな台詞を最後に、僕は教室を後にした。




「岡辺先生」

 誰かに呼ばれた声が聞こえて、僕は突っ伏していた机の上から、重い頭を持ち上げた。壁に掛かった時計に目をやると、午後七時を過ぎていた。

「職員室、もう閉めちゃいますよ」

 急かされる声で完全に目が覚めて、僕は帰宅する準備を始めた。

 ものの一分で職員室の扉から出ると、僕を起こしてくれた先生が待っていた。

「ありがとうございました、牧之瀬先生」

 軽く頭を下げてお礼を言うと、牧之瀬先生は大丈夫ですよ、とやんわり笑った。

 牧之瀬先生は、同じ日にこの学校へ赴任した同期だ。教職に就いてから五年程経つが、僕も彼女もようやく先生という立ち位置に慣れてきたところだった。

「何回か声を掛けたんですが、全然反応がなくて」

 長い黒髪を揺らして歩く牧之瀬先生が、苦笑しながら言う。仕事中に寝入ってしまったことを深く反省する意味も込めて、彼女へ謝罪する。

「待っていただいて、本当に申し訳なかったです」

 牧之瀬先生は首を横に振りながら、不思議そうな表情で僕を見つめる。

「よっぽど、嫌な夢を見ていたんですか?」

 彼女の質問の意味がよく分からず、僕は首をかしげる。しかし、僕は夢の内容を覚えていない。頭に霧がかかっている気分だった。

「よく覚えていないんですが、うなされていました?」

 余程寝苦しかったのだろうか。教師になってからの睡眠不足は否めないが、生活習慣を改善しないといけないな、と改めて決心した。

 しかし、牧之瀬先生はまた首を横に振り、僕の頬を指差した。

「でも、岡辺先生。涙の痕がありますよ」

 言われて、思わず左手を自分の頬に当てる。もう乾いてしまった涙の痕は、僕には分からなかった。

 他愛ない話を続けながら昇降口へ辿り着くと、僕はふと疑問を感じた。

「さっきまで、凄い雨が降ってませんでした?」

 既に暗くなった空には、星が瞬いている。雲一つない夜が、どこまでも頭上に続いていた。

「岡辺先生が寝ている間に、降り止みましたよ」

 くすりと笑いながら、牧之瀬先生が答える。寝ていたことを何度も指摘するのを、楽しんでいるようだった。

 ばつが悪いのを誤魔化したくて、早々に下駄箱で靴に履き替えて外へ出た。牧之瀬先生の様子を伺うために後ろを振り返った時、雨に打たれて水に濡れた窓硝子が、不意に視界へ飛び込む。

「それじゃあ、帰りましょうか」

 先に外へ出た僕へ追いついた牧之瀬先生が、自然と一緒に帰るように促す。この五年間、殆どの帰り道は、彼女が隣にいた。

「さっき、見た夢を少しだけ思い出しました」

 帰路の途中、学校の話が一段落したところで、僕が口火を切った。

「どんな内容だったんですか?」

 興味があったのか、牧之瀬先生が少し身を乗り出す。彼女は何でも話を聞きたがり、様々な反応をくれる聞き上手だった。辛いことも多い教員の生活だったが、彼女の存在に支えられている部分は多いと、日々感じている。

「昔の自分に、大丈夫だよって伝えていました」

 断片的に思い出せた部分を、牧之瀬先生へ話した。涙の意味は分からないけど、多分、自分にとって重要な夢を見ていた気がした。

「それは、素敵な夢ですね」

 どこか遠くを見ながら、彼女が呟く。つられて僕も、立ち止まって遠くの夜空を見上げる。


 僕がいるこの場所は、雨はもう降り止んでいる。けれども、十年前の彼がいるあの場所は、ずっと雨が降り続けているのかもしれない。

 いつか晴れるまで頑張れよ、と心の中で静かに祈りながら、僕はまた歩き出した。

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