「ごきげんですよ!」Ⅱ
――ごきげんですよ!・Ⅱ
色を失ったかのような薄墨色の空。鉛かと思われるほどな雲からは、冷たき雨が霧のように降り注ぐ。
しずくが優しくなでるのは田寧。泥を跳ね上げながら駆けるのはやせ細った人々。粗末な衣服を身に着け、わずかな家財を背負ったり、引いたりしていた。
難民たちはいっせいに駆けだしていた。泥に足を取られ、転ぶ者、荷車を急いで進めようとする夫を急かす妻や、わめく子供たち。転ぶ老人。
彼らは誰から逃げるのか。誰から? という問いは間違いだ。人間ではない。墓を暴き、罰当たりにも屍を食らうのは”グール”であった。背むし男が四つん這いになって獣のように四肢を使って走り回るかのような姿。手足が蜘蛛のように妙に長く、爪はするどく伸び、顔は豚面がつぶれたかのよう。だが全身の皮膚が一枚はがれたかのような吐き気を催す醜い身体。その一見火傷で爛れたかのように見えるにも関わらず、身体からはイノシシのように黒い毛がまだらに生えている。そして身体中からは腐乱臭が噴き出す。
新鮮な死体に飢えているのか、10数匹にもおよぶこの怪物どもは憐れな難民たちを追跡していたのだった。落伍した難民たちを貪ろうというのだろうか。しかし、怪物に自制心を求めることはできない。グールどもは我慢できずに、いまだ生きている者たちに牙をむいた。
難民たちはひどくやせ細っており、栄養失調の極みであった。そのうえ、粗末な衣服を身に着け、ところどころ怪我をしている。これが、この血に飢えた獣を呼び寄せたのかもしれない。
さきほど転倒した老婆へ、施しのパンを奪い合う浮浪者たちのようにグールどもは群がった。倒れ伏した瀕死の鹿が、飢えたネズミに食われるかのように、生きたまま貪り食われた。だが、怪物どもはまだ食欲は満たせていないようだ。
オオカミは獰猛な獣だが、狩人としての知性があることは否定できない。獲物を集団で追いつめる過程は見事なものだ。だが、このグールどもにそのような狩人としての能力は無い。各々に勝手気ままに襲っている。狩人ではなく獣そのものだ、ただひたすらに己の欲望を満たすことしか頭にないのだ。あるいは頭の中は腐肉しか詰まっていないのかもしれない。
逃げ惑う難民たち。ああ、不運にも、少女がひとり、泥に足を取られて躓く。握りしめていた親の指は、彼女の手からするりと落ちる。父親は振り返ると絶叫し、額を覆う。少女の背後には、腐敗臭ただよう大口を開けた怪物。天は彼女を見放したのだろうか。
「Sacre bleu!」
というくぐもった少女の声とともに、神はこの難民の少女を見捨てておられないことの証明に、ユニコーンにまたがり、純白のサーコートを羽織り、バケツ状のへルムを被って、槍でグールを突き飛ばす赤毛の三つ編みを垂らした騎士をお遣いになられた。我らが少女騎士アンナ嬢、さっそうとランスチャージをお見舞いしての登場である。当然ながらグールは胸から上をえぐり飛ばされ、蹴り飛ばされる石ころのように転がってゆき絶命した。
「ああ、神よ!」
と歓喜の声を上げ、娘を抱く父親。難民の親子は抱き合い、サタンの手先のような怪物の牙から逃れたことを感謝する。ユニコーンにまたがった白き騎士を見上げる。が、その白い騎士は親子のことなど眼中にないかのように拍車をかけ、また別な怪物へと突撃していった。
「Non,non,non,La vache ! Ça sent mauvais !(ノンノンノン、ラ ヴァッシェ! サ サン モヴェ!)」
臭いぞ、何なのこの匂いは、などと悪態をつきながらも醜き怪物どもを突き飛ばしているものの、フランス語をしらない難民たちには、何か聖なる言葉を述べているようにしか聞こえない。少女騎士は群衆の間を縫って馬を駆けさせる。人々とすれ違うたびに、一目散に逃げ惑うばかりだった難民たちは足を止め、振り返り、歓声を上げた。そして、慈悲深き心を取り戻したのか、倒れ込んだ同胞たちへ手を差し伸べ、けが人を背負い、泥にとられた足を引っ張り出し合った。
やがて白い騎士がもう一人。さきの赤毛の三つ編み騎士と違い、体格の良い騎士。その槍は醜き人食いの怪物を突き飛ばし、青毛のユニコーンは無力な怪物を轢き殺す。そして従士たちも槍を手に、それぞれの馬を駆けさせ、無垢な人々を襲う獣へ立ち向かった。
グールどもは食事を邪魔しにあらわれた乱入者へ牙をむいた。が、その牙は騎乗した戦士には届かず、駆ける速度は馬には勝てない。逃げる怪物は後ろから突き殺され、抵抗する怪物は騎士に追いつくことができない。そして騎士が反転し、正面から突貫しあう形になると、怪物はするどい爪を生かすことなく、馬上槍で以て突き殺された。
またたく間に、憐れな難民たちを襲っていた野獣のごとき怪物どもは退治された。
難民たちは雨に打たれてびしょびしょになりながら騎士たちへ集まる。この窮地を救ってくれた英雄たちを取り囲み、感謝の言葉を述べ始めた。じっとグールの死骸を馬上からみつめたままの少女騎士のもとへ老騎士が行ってしまったので、従士たちが彼らへ対応し、手を左右へ振りながらなだめていた。
そして、何組かの人々は、怪物に襲われてずたずたに引き裂かれてしまった者の元へ駆け寄り、泣き崩れている。
少女騎士は槍をだらんと下げたまま、グールを見つめつづけていた。ときおりユニコーンが首を上下させて、ぶるると鳴く。
「この姿はなんだ? この爛れた皮膚は。地獄で皮を剥がれた獣が、逃げ出してきたかのような。この鎧兜の下に隠した私の身体を暗示しているのか。私の身体もこの怪物と同じだという警句なのだろうか。鎧兜を脱いで、この泥地で腐臭にまみれた屍をさらせば、私もこの怪物と同族に見られるだろうか。血に飢えた怪物。それはお前自身なのだぞという啓示か。慈悲深き神よ。どうかお傍でお見守りください。私が怪物に陥らないように。血に飢えないように。人を人たらしめ、野獣たらしめるか否かは、血を恐れるか否かかも知れない。私はどうだ。血を恐れるか? むしろ血を求めていないだろうか。いや、私は神の敵の血を求めているのだ。だれかが返り血を被らねばならぬなら、それは私の役目のはずだ。」
彼女が兜から雨水を滴らせながら、甘すぎてくどい詩を読む吟遊詩人のように長々と自省の独り言を述べる。そして手綱を握ったままの左手で十字を切ったところで、びちゃびちゃと泥を跳ねあげる蹄の音。誰かの馬が隣に並び、小さくいななく。そして、彼女にとって聞きなれた、親しみ深い声がする。
「そう思うなら、剣を置き、修道院にこもったらどうだ。ただ、雨でずぶ濡れになりながらグール退治なんて、誰がやりたがる。お嬢さんくらいだな、よろこんでやるのは。」
「おじさま! せっかく地獄から這い出た怪物を倒した余韻に浸っていたというのに、冗談にしないでください。」
とアンナ嬢はだらんと下げた槍を垂直に上げ、鐙にある馬上槍をのせるホルダーへ、槍の石突きを引っかける。老騎士は槍の穂先で怪物の顔を正面に向け、
「たしかに長々と正視するのは御免こうむりたい面だな。グールも、お嬢さんも。ああ、そうだ。魔女に頼めば、美容整形の魔術をかけてくれるかもしれないぞ。自らの望む姿を得られるわけさ。お嬢さんもかつての可憐さを取り戻し、そのバケツみたいな兜を常に身に着けていなくて済む。」
するとアンナ嬢、槍を持ち上げ、怪物の死骸をつつきはじめる。
「N’importe quoi.そんな罰当たりで淫らで甘ったれた悪魔の技に、わたしが頼るとお思いで?
しょせん、自分で得たものではないじゃないですか。与えられたものは、つねに奪われることもある、ってことですよ。」
「神はお前に多くのものをお与えになられているようだが?」
「神はなんでも与えて下さるのではなく、人を導き、人が自らの手で得たいものを手にできるように、ほんのちょっぴりの勇気を持てるように見守ってくださるだけ。実際には神のご意思によって与えてくださったものなのですが、悪魔に頼らず、人が人の手によって得ることをお喜びになられているのです。ときおり、ヨブ記にあるように人から取り上げられることもありますが、それは巡り巡って人のためになっていますよ。わたしの顔、身体が醜く傷ついているのは、わたしに良き妻となる運命を遠ざけられた代わりに、善良な人々を襲う悪魔を地獄へ送り返す役目を与えて下さったってことですね。」
「じゃあなんで俺はこんなところでグールとお嬢さんと一緒に雨に打たれているのやら。神は一体おれにどんな役目をお与えになったのか。お嬢さんのお世話係なんてのは断固同意しないからな。おれはそんなに罪深いことをしたっけな……。ああ! お嬢さんを救ってしまったことか! まったく、お嬢さん、神の御心を知っていたら教えてくれ。」
「それはおじさま自身が見つけることですよ。……わたしはおじさまとこうして雨に打たれているのも楽しいですけどね。」
「おれは雨が嫌いなんだ。」
「ならば、はやいところ屋根のある所へいきましょう。従士たちが人々を誘導して、村へ戻っていきますよ。」
「亡骸の埋葬は雨がやんでからか。仕方ない。」
といって、村へ馬を向けた時、雨音に混じって若い男の、か細い声が聞こえた。
「た……たすけて……。」
ふたりの修道騎士は、その声に素早く反応し、辺りを見渡す。すると、牛一頭を隠してしまう程な岩の近くで倒れ伏しているラバがあり、そのラバから助けを求める男の声が再び聞こえた。
修道騎士たちは馬をすすめ、ラバへ近づく。どうやらラバが喋っているのではないらしい。足を切断され、息絶えているラバに自身の足を挟まれた男が、声の主であった。辺りにはラバに背負わせていたと思しき麻袋が散乱している。
「お待ちください。Monsieu.」
と述べてから、手綱を老騎士へ預け、下馬するアンナ嬢。槍を持ったまま男に近づくと、男はうめき声をあげる。
「お怪我を?」
「ああ、騎士さま。どうやら、骨も折れてしまっているようで……。」
「Bah...」
と言いながら少女騎士はラバと男、辺りを見渡すと、男の痛みにあえぐ声をききながらも、散乱した麻袋から、固そうな物が入っているのを一つ選び、ずるずると男の方へ引きずっていった。そしてラバの腰と地面との間に、麻袋をねじ込み、馬上槍の後端をもねじ込んだ。そうして、先端部分を両手で持った彼女は、
「ラバの腰を上げますから、うまいこと這い出てください。」
「ああ、ああ、承知しました。神よ、騎士さま、ありがとうございます。」
「その言葉は這い出てからにしてください。では、いきますよ。」
えいやと力をこめて、槍の先端を持ち上げる。てこの原理でラバを浮かせようというのだ。しかし、雨によってぬかるんだ地面によって後端が沈み込んでいく。色々な物が詰まった麻袋によってそれを和らげているものの、少女騎士は予想よりも難儀している様子。
すると、少女騎士は急に槍が軽く持ち上がるのを感じた。ラバの腰が浮き、男が苦痛に呻きながら這い出る。すると槍は再び重くなり、どすんとラバの亡骸は地面にめり込んだ。這い出た男へ、いつの間にか下馬していた老騎士が手を貸し、立たせる。
「Merci beaucoup,おじさま。」
「お嬢様に力仕事をさせるわけにはいきませんので。さて、お前、歩けるか?」
と男へ、肩を貸したまま老騎士が問うた。
「はい……申し訳ございません。騎士さまにこのような……。なんとか、歩いてみます。」
跛行の体で3歩ほど歩むが、すぐに転んでしまう。
「やれやれ、おれが手を貸そう。お嬢さん、馬を頼んだぞ。」
「Oui,oui,了解です。」
と少女騎士は槍を手にユニコーンたちへ向かい、老騎士が再び男へ肩を貸し、歩みだそうとした、そのとき、馬が大きくいなないて、前足を高く上げて興奮しだした。すると、どこからともなく3匹のグールが性懲りもなくあらわれ、老騎士と男へ背後から襲い掛かったのだ!
「おじさま!」
「む!」
少女騎士は槍をグールへ向かって放り投げ、襲い掛かろうとする一匹の体勢を崩し、彼女自身へ怪物の関心を引き寄せた。老騎士は男を突き飛ばし、振り返りながら剣を引き抜く。引き抜きざまに、相手が視界に入る前から抜き打ちの体で横なぎに剣を振るった。
もう一匹の卑怯なグールは両手を高く上げ、大口を開けながら飛びかかっていた。横なぎに振るわれた剣で顎から切り裂かれ、顎から上を失った怪物は転がり込むように崩れ落ちた。
同時に襲い掛かったはずの3匹のうち一匹は、小賢しくも飛びのき、老騎士と距離をとった。だが、この肉への渇望に支配された怪物にはオオカミのような賢明さはなく、退く気はないらしい。腐臭を牙の間から吐き出しながら、再び老騎士に飛び掛かる。彼は泥に悪態をつきながらも、軽やかな身のこなしで怪物の一撃を躱し、反撃とばかりに剣の一撃を食らわせる。だが致命傷とはならなかったようで、グールの醜い皮膚から血が滴り落ちるにとどまった。
もう一匹のグールは少女騎士へ牙をむき出しにして飛びかかった。彼女も剣を抜き、腰だめに構えたままグールへ向かって駆け出した。
ねちょりとまとわりつく泥によって、大地から這い出た死者が足首をつかんでいるかのような足を叱咤し、剣を持つ手首を返して右脇に構えると、飛び掛かるグールに対して左足を大きく斜め前へ踏み出し、左側をすり抜けるように邪悪な牙を回避した。そしてすり抜けざまに、怪物の胴へ剣を打ち込む。グールは人間の赤ん坊と牛の鳴き声が混ざったようなおぞましい鳴き声を発し、腹から血を噴き流しながらも、地面へ爪を立てて体勢を整え、少女騎士へ向かい合った。
「修道騎士の相手ははじめてか? 怪物!」
神のしもべたる修道騎士であるアンナ嬢は前かがみになって若干腰を落とし、剣を肩の高さで構えながら挑発した。時を同じくして、彼女の背後からも、
「どうした? かかってこい!」
などという老騎士の挑発の声。
すると怪物どもは再び騎士へ飛び掛かり、騎士たちはそれぞれ一回転、くるりと回りながら左右へ回避した。剣で空気を切り裂きながら回転するので、怪物たちは連続しての攻撃ができなかった。グールどもは騎士たちと間合いを取りながら、にらみ合った。そして、再び怪物が襲い掛かり、騎士たちはそれを回避し、返す刀で斬りつける。再度、怪物と騎士、それぞれが一対一で向かい合ったときには、老騎士と少女騎士が初めに相手取っていたグールは入れ替わっていた。老騎士の眼前には大きく開いた腹の傷口から血を流し続けるグールがおり、少女騎士の眼前には切り刻まれあらゆる個所から血を流すグールがいた。
「どうだお嬢さん。グールとの戦い方はわかったか?」
「そのためにわざわざ浅い傷だけを? Ah ,Ha! おじさまの親切には感服しますよ!」
少女騎士は剣を振り上げて大きく飛んだ。グールも同じように少女騎士へ飛び掛かり、爪と牙で迎え撃とうとするが、そのまま真っ二つに斬り裂かれた。真っ二つに斬り裂き、着地した隙を狙って、もう一匹のグールは少女騎士へ狙いを定めた。迫りくる凶悪な牙と爪。とはいえ、怪物殺しの経験は少ないが人殺しの経験は豊富なアンナ嬢。落ち着き払って、隙を突こうと襲い掛かってきた怪物へ視線を向けると、地面にめり込む寸前に止められた剣を、手首を返しながら逆袈裟に切り上げる。グールの冒涜的な腕は斬り飛ばされる。斬り上げた剣を、そのまま右腕を返しながら左手のスナップ効かせ、裏刃を使ってグールの首元へ打ち込む。
グールはまたもおぞましい鳴き声を上げると泥へ頭から突っ込み、うつ伏せになる。すかざず少女騎士、右足で怪物の背を踏みつけながら、剣を逆手に持ち替えて延髄へ深々と突き刺した。
「お見事。人狼よりも楽だろう?」
「神よ、戦う力を与えて下さり感謝します。Honnêtement,切り裂くたびに臭うこの悪臭は、人狼の口内の方が断然楽でした。」
「そういうな。さて、もう新手はいなさそうだな。」
老騎士は剣をクロークでぬぐいながら、鞘へ納め、辺りを見渡す。そして、例の足を怪我した男の元へ歩んでいった。
男は頭から泥に突っ込み、口の中から砂利っぽい泥を吐き出しながら、恐れおののいて腰を抜かし続けていた。
「さあ、臭い怪物は、この小さな修道騎士が地獄へ送り返してくれた。肩を貸してやろう。えーっと……ああ、村の広場へ集まっているのか。」
「Coucou.雨もやみましたよ。空を見上げてください。雲の狭間から、煌めく太陽と青い空が見えますよ。」
同じく剣を納めたアンナ嬢が空を見上げるのに満足し、村の方へ目を向けると、騎兵が一騎、こちらへ駆けてきた。アンナ嬢は馬上槍とユニコーンたちの手綱を握ったあたりで、その騎兵の正体がわかった。
「修道騎士殿! 広場からグールと徒歩をしているお姿を発見して、助太刀に参りましたが、いやはや、さすが、もう片付けてしまわれていたとは!」
「C'est bien. Merci ,従士ブライアン、あなたのためにもう一匹残しておくべきでしたか?」
「あー……修道騎士どの、あー、自分は未熟者ゆえ、どのようなご返答をすればよいか……」
と、馬上で困り果てる若き従士の姿に、老騎士は肩をゆすって
「ハハハ! ”次は腕前を披露いたしますので、どうぞご高評ください”くらいでいいさ。貴殿がお嬢さんにユーモアや皮肉で返す義理はない。それに、お嬢さんはなかなか手ごわいぞ。おれも最近困っているんだ。」
と肩をゆすって笑うのに、足が折れた男は悲痛な声を上げる。
「ハハ、すまんすまん。さあ、がんばれ。向こうから担架を持った奴らが来る。しばらく我慢しろ。」
村の広場へ集められた難民たちは、この地への移住を希望しており、ロベルト卿はそれを受け入れることにしたようだった。どうやらこの難民たちは隣で跡継ぎをめぐって内輪もめを繰り返すダッグワース家から逃げてきたようだった。かの地は前ダッグワース伯爵が亡くなった折、継承権をめぐって彼の従弟と、妾の息子とがお互いに権利を主張し合い、それぞれに主従関係にあった臣下たちや、己の利益の勘定によって加担する小領主たちによって二つに分かれた。伯爵領とその臣下たちの領地は、地図で見れば敵味方まだら模様に入り乱れ、政治的決着はあきらめ、剣と血でもって結着をつけようとしているらしい。難民たちは、領主たちがお互いに村を焼き合う荒廃した土地から逃れてきたとのことであった。
アンナ嬢がロベルト卿から聞くところによると、この地の王はこの問題に関わらないことに決め込んだらしい。その代わり、その他の諸侯たちには漁夫の利を得んとダッグワース家に干渉したり、勝手に軍隊を送ることを禁じる通達をしているようだった。
教会はこの現状に、ダッグワースの従弟と、妾の息子に警告を繰り返しているようであるが、鞘から抜いた剣は血を見ずには収まらない有様を示しているらしかった。
難民を受け入れるには上げればきりのない、さまざまな難点が常に付きまとうが、それでもロベルト卿は彼らを受け入れた。それは慈悲深き慈善の心か。それともなんらかの打算か。あるいは両方かも知れない。
そんな政治は他人事のアンナ嬢は、洗濯したてのサーコートとクロークがしわしわよれよれになってしまったのと、ブーツを乾かしてオイルを塗ったり、剣や鎧が雨で錆びないように手入れをしなくてはならなくなったのに落胆しきるのに忙しかった。とはいえ、それと同時に、またしてもおとぎ話の中だけでなく本当に居ると信じていた未知の怪物と実際に出会い、それを斬り殺し、悪魔の手先を地獄へ送り返すことができたのに、信仰心の高まりと好奇心の充足を感じて、すっかりごきげんであった。
徒歩=下馬して戦うこと