「雨の日の来訪者」
――雨の日
ある雨の日のこと。ざあざあと音を立てながら、雨が降る。踏み固められただけの地面は、泥だらけ。誰かが歩けば泥が跳ねる。家畜の糞尿の混じる放牧地や、畑は泥濘である。今日は一日中雨の気配。ひとびとは外での労働を休み、みな屋根の下で過ごしている。外へ出ている者はほとんどおらず、わずかな衛兵たちが沁みこむ水に、ブーツの中への不快感へ悪態をつきながらクロークを被って見回りをしているだけである。雨の日は、多くの人々にとって手内職の日か、休日となる。農民たちは糸車をまわして、糸を紡ぐ。機織り工房や、皮なめし所、染織工房などの音が、雨だれの音に混じる。
ここクルティボの教会にある一室、本の積み重ねられた写本室。ここもまた、雨の日ならではの住人が集っていた。
「アンナおねいさん、ここのラテン語は、アビエニア語で読むのですか?」
「見せてください。Tres bien,覚えるのが早いですね。どれ……。」
などというやりとりをするのはロベルト卿の娘リザ嬢と、我らが少女騎士アンナ嬢。石造りの教会。この写本室は牛が3頭も入らないような狭い部屋で、所狭しと本が平積みで並べられている。大人が横になって寝ることは考えることができない。写本室とは名ばかりで、本をむやみにつっこんだだけの、まるで本の物置だ。大人が立って書見台へ向かうのがやっとである。
そこへわずかな隙間を見つけて、書見台とテーブルが設置され、。小さな窓が一つだけ。しかし雨ゆえに鎧戸は半分しか開けておらず、明かりはもっぱらロウソクが頼りであった。ふたりは寄り添って、肩と肩を触れさせながら本の上で羽ペンをくるくるとやっている。手にはインクの跡が付いており、壁も天井も床も石造りの部屋の中は、少女たちの息で窒息しそうだ。
ふたりは適当に積み重ねた本や、スツールを椅子代わりとして、肩を寄せ合って座る。リザ嬢は白い丈長の下着の上へ、シルクでできた緑のブリオーを着、ブルネット髪をウィンプルで覆う。ブリオーは所々金色や赤色の糸で刺繍が施され、装飾されている。足元は羊毛のタイツ、革靴である。彼女はラテン語で書かれた詩を、アビエニア語に訳しているようだった。
そんな部屋ではアンナ嬢のいつもの鎧姿では、リザ嬢はあっという間に全身擦り傷だらけだ。剣も引っ掛かり、マントなどは立ち上がる間際に踏みつけられ、すっころぶだけだ。とはいえ、
今日はその心配はいらない。珍しいこともあるもので、鎧兜ではなく、アンナ嬢、修道女らしく清貧な服装。ラピスラズリ色に染められたローブを革ベルトで〆て、ふたつ三つ編みにされたほおづき色の赤毛は、フードが一体化したケープで覆い隠されている。首には銀でできた十字架の首飾りがかけられている。だが顔は見られたくないのか、丁寧に包帯でまかれて覆い隠されており、目元しか見えない。手もまた指先まで薄い羊革の手袋で隠す周到さであった。一見すると、顔の傷を気にした修道女か町娘にしか見えない。だが、見回りの衛兵隊がわざわざ会釈せざるを得ない点がひとつある。こんな淑女らしい装いでも、金の拍車付きのブーツを履いていることだ。雨の日に教会へ向かう、この辺りでは見かけたことのない娘に、思わず衛兵が声をかけようとしたとき、彼女の足元を見てその正体を知ったのだった。
「あー、Mademoiselle,エリシア。ここの綴りが違うようです。えーっと、アビエニアではなんて書くのでしたっけ……。」
「アンナおねいさん、ミス・エリシア。ここは……。」
とリザ嬢、アンナ嬢の胸元に身を乗り出して、さらに腕を伸ばし、羽ペンを書き滑らせる。アンナ嬢の右隣には、もうひとりの娘。
「ありがとう、ございます……。」
と虚ろな声色で返すのは、以前、アンナ嬢が救った村娘である。彼女もまた、ムスカリ色に染められたローブを革ベルトで〆て、、フード付きのケープ姿の、清貧な修道女らしい姿である。もちろん首元には十字架の首飾り。
アンナ嬢がエリシアと呼ばれた村娘の顔をのぞき込んで微笑むと――といっても包帯だらけで判別が付かないが――彼女は顔を上げ、ほんの一瞬目を見開き、塗れた藍色のような瞳がアンナ嬢を見据える。麦畑のようなブロンド髪がフードからはらりとこぼれて、少し微笑んだ。
三人の娘たちは、仲睦まじく、まるで姉妹のように、文字通り肩を寄せあいながら、翻訳をし、写本をし、読み書きの勉強をしていた。一つのインク壺を三人で分け合い、肘とひじをぶつけ合いながら。
雨の日は衛兵への戦闘訓練がお休みになっていたので、アンナ嬢はもっぱら教会へ通った。午前は祈り、午後からは写本をしながら、村娘エリシアに読み書きを教えることを日課にしていた。写本制作は、彼女自身にとってもアビエニア語の読み書きを勉強することも兼ねていたが――ヤハウェの地の言語と多くの類似点があり、彼女は識字と筆記にさほど苦労していないものの、この土地独特の言い回しや文章表現があった。――悪癖をだれにも邪魔されずに発揮する好機だと感づいていたのが理由かもしれない。
アンナ嬢には悪い癖があった。幼いころから修道院で暮らし、写本制作をしているが、その際、勝手に挿絵を描く、という癖であった。これが原因で、しょっちゅう修道院長から叱られていたが、やめる気はなかったようだ。ヤハウェの地に残る、おかしな挿絵は大体彼女のしわざである。そして今、もはや彼女をしかりつける院長はここにはいない。ちょうど今、「聖アンジェリカの祈り」という本で、修道女アンジェリカが殺人ウサギを糾弾する場面の絵を描き始めたところだ。修道服の裾をたくしあげると光がさしていた。という状況を、ローブをたくし上げたアンジェリカの股から光が発するように描くつもりらしい。
アンナ嬢の悪戯はさておき、この挿絵付き写本をつくる会とエリシアへの読み書き勉強の習慣へ、つい最近リザ嬢も加わった。彼女は同世代の娘がいない砦に退屈を感じていた。とはいえ領主の娘であり、貴族たるもの、農民の子供たちとはしゃぎまわるわけにはいかない。そこへ、時折少女騎士が教会奥にある写本室ですごしていることをかぎつけ、ラテン語の習得をする理由で、アンナ嬢と共に勉強することにしたのだ。そして同時に、エリシアへの勉強にもつきあうようになった。
エリシアはただの村娘であるばかりか、両親を失い、故郷を失い、純潔を失った娘である。そのような哀れな平民と一緒に過ごし、文字を教えることが許される理由は、エリシアが修道女になる予定だからであった。
ロベルト卿は手に入れた資金を使って、クルティボ村の教会を増築するだけでなく、かつて蛮族どもが集落を構えていた土地を開拓し、新たな村を興そうとしていた。そしてその村には修道院を創設することにしたのであった。エリシアはその修道院の修道女第一号となる予定である。騎士と修道女と一緒に教会で過ごす、ということならば、誰も文句は言わなかった。むしろ、ロベルト卿は喜び、アンナ嬢が娘の相手をしてくれるのに感謝した。修道院関係者と付き合うのも歓迎した。というのも、この度創設されるのは完全にロベルト卿が出資した修道院であり私設修道院であったからだった。こういった修道院は、創設者に多大な利益をもたらす。一族のために祈祷が行われるのはもちろん、教育された人材を供給する拠点にもなり、寄付金も集まるからだった。ロベルト卿は、のちに自らの跡を継いだ娘にとって、エリシアは信頼できる友人になりうるのではないか、と目論んでいるのかもしれない。あるいは単純に、一人娘の慰めになるのでなはいかという親心か。
司祭ヨセフもまた、この三人娘を祝福していた。そして彼はこのたび、副司教への推薦を受け、クルティボとコーブレ、セボージャ、トゥルエノ周辺を教区として任されることになりつつあった。新たに創設されようとしている修道院の院長が選出されるまで、代理を務める役目も仰せつかっており、一段と自らの使命を感じていた。
ここクルティボは発展の兆しを見せ、公共工事のため多くの人足が集まりつつある。人が集まれば商売のにおいを嗅ぎつけた者たちが集まり、そうするとさらに人が集まる。難民や出自不明の輩も多くおり、治安が悪化する。すると、衛兵の数も増える。人口の増加によってクルティボ自体もその領域、農地を大きくしようとしていた。村から町へと急速に変化しつつあり、先日は城壁を建造する案も出た。木こり隊も大規模に組織され、森を切り開きつつあったが、雨の日は木を切り倒す音も聞こえない。雨が屋根や水たまりにぱちぱちと弾けるように跳ねる音ばかりである。
娘たちの吐息と、ページをめくる音。インク壺に当たる羽ペンの音と、紙の上を滑る音。時々少女たちの甘い声。古びた本の香り、インクの香り、少女たちの香り。それらが混ざり合って、小さな写本室はこの三人の娘たち以外を寄せ付けなかった。
ひとつ、遠くで悲し気な雷鳴が鳴り響いた。
「……何か、聞こえます……。」
静寂を破って、エリシアがペンをとめてつぶやいた。窓へ目を向ける。リザ嬢も手を止めて、あたりを きょろきょろと見渡しながら、
「えっ?……あ、たしかに。これは……何かの鳴き声?」
アンナ嬢も殺人ウサギから顔を上げて、雨の音に注目すると、ざあざあという音に混ざって、ピイピイ、スンスン、クンクンと悲し気な音が聞こえる。
「オオカミ……いや犬ですね。子供のようです。」
「まあ! こんな雨の中にいたらずぶぬれよ。ここから聞こえるなら、教会の敷地にいるわ。」
といって立ち上がるリザ嬢。スツールを跨ぐ。どうやら鳴き声の主を探しに行く気のようだ。
「お待ちを。私もいきますよ。」
アンナ嬢もまた、立ち上がり、本の山をいくつか崩す。エリシアも続いて立ちあがり、ロウソクを消すと、娘たちは薄暗い写本室から這い出るように飛び出した。娘たちの香りがあふれ出す。
廊下へ出ると、なおいっそう、スンスンという鼻からの鳴き声は強く聞こえた。廊下を出て、十字架上の救世主を模した木彫り彫刻の前で十字を切る。奥で仕事をしていた司祭ヨセフが顔を上げ、娘たちを見やると、きゃっきゃと手をつなぎながら楽し気だ。そんな無邪気な姿を目にすると、思わず微笑んで、仕事に戻った。
娘たちは、教会の正面扉に近づく。鳴き声はさらに近くからするように思われた。念のためと言って、アンナ嬢がそーっと扉を開けた。
「Elle est mignonne!(エル エ ミニョンヌ)(かわいい!)子犬ですよ、Mademoiselle.」
彼女は振り返り、両開き扉の片側だけを開け、雨も気にせず外へ出た。二人も続いて出てみると、扉の前には、ずぶぬれになった子犬がピイピイ鳴きながら、娘たちを見上げていた。
犬は、胴が長く、短足であり、耳が自身の足で踏みつけかねないほど長かった。足元と腹、鼻先は白で、あとは茶色。背中は黒色の毛でおおわれている。そして皮は余り気味である。鼻先には一本の傷あとがあるが、だいぶ前についたもののようで、犬は気にせずに、ちょっと間の抜けた顔をしている。
「きゃあ~かわいい! 犬さん、犬さん、どうしたの、こんなところで。」
とリザ嬢、裾が泥で汚れることもかまわずしゃがみこむ。犬は首を傾けながら、少女たちの顔を見渡している。わずかに尻尾が揺れる。
「迷子ですかね。しかし、この犬種はここでは初めて見ますよ。フランスでは見たことありますが……。」
「たしかに、この辺りの犬ではなさそうね。とにかく、ここではびしょびしょ。中へ入りましょう。」
リザ嬢は子犬の脇を持って抱きかかえる。嫌がるそぶりをみせるかと思いきや、抱き上げらえるとまったくの無抵抗で、だらんと足と尻尾を下げている。においをクンクンと嗅ぐ。エリシアも犬をのぞき込む。すると、犬は彼女の鼻をぺろりと舐めた。
娘たちは写本室まで犬を連れ帰ると、その辺でくすねた布で犬の身体をふいてやった。ぶるぶると身体を一回転させるように震わせると、よだれと水しぶきを飛ばす。娘たちは一歩たじろいだが、犬が座り込んで見上げるので、三人で犬を撫でた。犬は心地よさそうに目を細め、ピイ、と一つ鳴いた。
「そういえば、首輪がありますね。」
とアンナ嬢。その言葉に反応して、リザ嬢は首元を撫でていた手で、そのまま首輪をつまみ、見分した。
「あ、何か書いてあるわ。えーっと、”Mona”ですって。この子の名前かしら?」
「Hmm...イタリア語ですかね。ご婦人って意味ですね。愛しい~という意味でも使っているイタリア人に会ったことがあります。この子の名前かもしれませんね。メスのようですし。」
「誰かの飼い犬かしら。でも、こんな子を見たことはないわ。」
リザ嬢、犬の顔を見つめる。犬は不思議そうに首を傾けた。
「それに、この犬は猟犬ですよ。思い出しました。フランスでは兎狩りに使います。高貴な犬です。農民が所有しているとは考えられませんね。」
「では、一体……。滞在している商人の誰かかしら。」
エリシアが犬の長い耳をパタパタと上下させていると、手を舐められた。その後、犬は娘たちの鼻先へ顔を近づけると、スンスンとにおいをかいでいた。
「神の、思し召し。」
エリシアは十字を切ると、そうつぶやいた。リザ嬢はエリシアの顔を見やり、つづいて犬を見やる。アンナ嬢は「Hmm」とつぶやくと、片眼を瞑って腕を組み、次いで十字を切って犬を見つめた。犬は座って娘たちを見つめながら、尻尾を左右に振っている。
「どうです、Mademoiselle リザ。砦で飼われては。」
リザ嬢は背筋を伸ばし、天井を見つめた。隅に蜘蛛の巣が張っている。そして、犬の脇を後ろから抱きかかえると、
「いいかな?」
「教会の前でずぶ濡れでたたずむ子犬。この地ではめったに見ない猟犬。イタリア語の名前。もしも飼い主がいるのならば、探しに来るはず。そして犬自身も、飼い主の元へ戻るはず。その様子がなければ、きっと、教会の前で待っていたのは、シスター・エリシアのいうとおり、神の思し召しかもしれません。」
アンナ嬢はエリシアを見やると、彼女は首元の十字架を握りしめて、
「天使様の……お声を聴きました。」
「Tres bien!」
アンナ嬢は肩をゆすってから、十字を切った。リザ嬢はその様子を目にすると、犬の目を見つめ、
「うちに来る? 犬さん。」
その日以来、リザ嬢に妹ができた。胴長短足、耳の長い、いつも間の抜けた顔をしている犬で”モナ”と名付けられた。