大晦日X099 ただの妖精が消える時
羽を広げた女神の傍には、上下に裂かれた男の死体が転がっている。一人の人間の死体なのだから一体と数えるべきか、二つになっているのなら二つと数えるべきか。
そんなどうでもよい単位の話のごとく、女神にとって男の死体はどうでもよかった。状態が生から死に変化しただけ。狂った発言をしない分、死体の方がまだマシとぐらいには考えているかもしれない。
「無意味な時間を過ごした。さあ、新世界を征伐しようぞ」
エルフとドライアドを引き連れた妖精界の女神が、ついに新世界へと侵攻を開始する。個でありながら軍を超越する力を有する神性が地球へと足を踏み入れたら、その瞬間に地球人類の敗北は決定するだろう。
強い兵器はあっても、神を殺す武器は存在しない。
人類すべてを抹殺できる兵器はあっても、神を滅ぼす武器は存在しない。
神性を倒すならば、軍を超える個を地球も用意するべきであるが、普遍性により世界を進歩させてきた現在の地球に英雄は存在しないのだ。
ゲルセミが半浮遊しながら戦いの終わった出入国ホールを進む。
多くの観光客を審査したブースは崩壊し、金属探知機の類も壊滅している。審査官が安らぐ休憩室は天井が崩落して無惨なものだ。誰かが一時期住んでいた鳥かごは、そこいらで寂しそうに転がっている。
妖精だった頃の記憶がないゲルセミにとっては、廃墟やゴミと変わらないだろう。
「……ゲルセミ様」
「どうした眷属?」
だから、ゲルセミは何も気付かず、無表情のまま進むだけ。
「ゲルセミ様が……、泣かれております」
ゲルセミは、エルフから指摘されるまで気付かずにいた。片目から涙が流れ落ちて頬を伝って、肌から浮き出るアイオライトを濡らしているというのにまったく分からなかったのだ。
当然だ、ゲルセミは何も悲しくないのだから。感情的な前触れがない状態で涙を流しても、それはただの生理現象でしかない。
問題は、新陳代謝を必要としない神性に生理現象が存在しないという事にあったが。
眷属の指摘を確かめるべく、ゲルセミは手を使って頬の涙を掬おうとしたものの、正体不明の手の震えが発生して、意識した通りに動いてくれない。
「どうなされたのですか、我が神!」
「……心配するな。想定以上に長く封印状態にあった反動であろう」
神性であるゲルセミは己の不調原因を即座に看破する。封印状態にあった己が収拾、蓄積したデータに体が過剰反応を起こしているのだ。
特に珍しい現象ではない。神性は時に、分霊を作り出して人界のデータを収集するものだ。データ量は下手をすると人間族の一生分となるため、神性はいちいちチェックせず知識データの統合を行う。
それゆえ、しばしばデータの不適合が発生して体が異常動作を起こすのだ。
「戦闘に支障が出る程ではないが……神性が涙を流すなど見苦しい。原因を取り除くため、擬態妖精の記憶を参照する。たかが数か月であれば数秒もかからず終了するが、その間、眷属で我を守護せよ」
「承知いたしました。ドライアド、全周警戒だ。命をかけて守れよ」
ゲルセミは擬態妖精だった頃の全データへのアクセスを決定する。どの記憶が理由で、涙を流して手を震わしているのか。問題部位を確認して切除するのだ。
汚染データに触れる危険性を問う者はいるだろう。コンピュータ・ウィルスに感染しているUSBがあったなら、USBごと破棄するかフォーマットするのが大前提だ。が、それは弱々しい人間族の水際対策に過ぎない。
神性は汚染など恐れない。千年、万年を生きる神性が、たった数か月の記憶に汚染され尽くすはずがないからだ。どんなに濃い経験であっても、長い年月と混じり合えば希釈されてしまう。
例示するならば、かつて人間族に化けた神性が人間族として生き、最愛の相手と番となり、子孫に囲まれながら一生を終えた。神性はそのデータを回収後、最愛の相手と子孫のデータのみを抹消して、淡々と住み慣れた街を滅ぼした。
神性とはそういうもの。
人間族とは決定的に何かが異なる、非人間なのである。
「目を瞑る。後は任せたぞ」
ゲルセミは宣言通り、瞼を閉じて擬態妖精の記憶を参照し始める――。
まったく、何よ。あの人間族は!
しょっぱなから私に調味料を塗して、妖精は貴方達の食べ物じゃないのよ。しかもペット呼ばわりまで。何よ、アイツ! 何よ、アイツ!
はぁ、はあぁぁ?
何でいきなり私、顔ごと唇奪われちゃっているの?!
アイツ私が好きだったの。それともやっぱり食べるつもり!?
出会ってから僅か五話で進展しちゃって、良いの? プロット崩壊していないか心配だわ、私。
混乱し過ぎて、思わず加護まで与えちゃったわよ。てか、私の秘めたる力すごくない。
新世界の奴等、事もあろうに魔族と繋がっていたのよ。ここまで頭がお花畑な集団だと思っていなかったわ。
手鏡とかゴブリンとか直筆手紙とか信じられないわ。きっとアイツ、碌な死に方しないわ。上下に分離して死ぬはずよ、間違いないわ。
ひっきりなしに職場が崩壊しているとか言って暢気に笑っているし、ワーカーホリックもここまでくると重症ね。
仕方ないわ。妖精のやる事じゃないけど、私がアイツを守ってあげないと。気分で!
ふ、メドゥーサごとき妖精の敵ではなかったようね。
夢でアイツが石になってバラバラに粉砕されていたけど、石鹸系の漫画を読み過ぎた所為だわ、うん、そそるぜ、こいつは。
今回もアイツが生き延びれたのは私のお陰ね。感謝しなさい。
それとあんまり私を心配させない事。
魔界まで攻略しちゃったわよ、私。
まあ、妖精にとって大した場所ではなかったわ。こけおどしにも程があったわ。ツアー客が次々と襲われる犯罪発生率二百パーセントな世界だったけれども、名探偵の私にかかればどんな難事件も解決よ。
私に料理の才能まであったなんて、将来は探偵と料理人、どちらになろうかしら。
それはそうと、どうしてアイツ、私が密航しているって分かったの? まさか、ストーカー? やだ、人間族すら魅了しちゃう自分が怖い。
ごめんなさい。ごめんなさい。
黒くてまっ平らなあいつらが占拠する鳥かごではもう生活できません。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ようやく里帰りよ。散々、条約違反とか生態系に悪影響がとか言って私を帰さなかったけど、最後に頼る相手はやっぱり私なのよ。えっへん。
というか、アイツまた死にかけているし。もー、心配かけるなって言っているのに。コンニャクの食べ過ぎなのよ。
何度も助けてやっているからかしら、ようやく私をペットじゃなくペネトリットと呼び始めたし。懐いてきたのね。
眷属の管理は主人の義務だから、今後はより長く傍にいてあげないと。
……それはそうと、体の調子が妙にいいわね。なんで?
魔界と友好?
ありえない。ありえない。あいつ等は野蛮なのよ、常に悪戯する事しか考えていないから。
でも、一番ありえないのは……私。どうして世界情勢とか考えちゃっているのよ、私。
私はただの妖精であって、自由に生きていたいの。
時々、人間族をからかって、好きなタイミングでお布団で寝て、アイツをおちょくって、一緒に食事して。
そういう特別なものなんて何もない、普通の生活が幸せなのよ。伝説になるような波乱な人生はまったく必要としていない。
隔週で死にかけているアイツは私よりも先に死んでしまうでしょうけど、でも、叶うなら、アイツと最後まで一緒にいたい。
だって、アイツは私と気が合うから。
だって、アイツは私をただの妖精として扱ってくれるから。
だって、アイツは私がどんな姿になっても見捨てないから。
だって、アイツは私以上に私を、ただの妖精だと信じてくれているから。
私が私でなくなったとしても、アイツだけは私を信じてくれる。
私が存在したって証人になってくれる。
妖精と人間族。何の利害も一致していない癖に、私を保障してくれるアイツは貴重な存在よ。下手をすると、私自身よりも大事な存在。
逆説的にアイツを失った時、私は私の証人を失い、存在を失う。
所詮は妖精でしかない私に、本来の私を止める手立てはないけれども……もし、この記憶をアイツの殺害後に見ているとしたなら、もう何もかも遅い。
私の記憶は、本来の私にとっては全くの無価値で、路傍の石のようなものでしょう。一切の共感を覚えず唾棄してしまう。
妖精の私に意味を求める方がどうかしているけれどもね!
けれども、本来の私。私は無価値なものではなく……正真正銘の無であったなら、さあ、どうする?
私の記憶は、本来の私に対するブービートラップ。大汚染と化してしまうから。
無力な妖精にできたたった一つの悪戯よ。無駄に長い耳の穴をかっぽじって聞きなさい。
私の記憶を削除すれば対処可能と考えていたのなら、大間違い。
審査官のアイツがいない以上、もう私の存在は証明のしようがない。妖精の私なんて偽物は最初から存在しない。そして、存在しないものは削除できない。
私のたった数か月の記憶なんて、歴史程に長い記憶によって薄まると考えていたのなら、大間違い。
妖精の私が存在しないのであれば、妖精の私は本来の私が演じていた事になる。頭の足りない妖精の行動はすべて計算され、計画されていたものとなる。
はたして私は、いつから、妖精演技を計画していたのか。
新世界の実存を知った時から? いいえ違う。
衰退しかけた妖精種族をまとめて森林同盟を結成した時から? いいえ違う。
上位神たるフレイ・フレイヤが神代の戦いで消えて、妖精界を受け継いだ時から? たぶん、そう。
少し宝石が好きなだけの神性が、妖精界なんてものを継ぎたいと思うはずがない。面倒な役目を押し付ける他の神性がどんどんいなくなって、仕方なく、運営を今も続けているだけ。
どうにか役目を放任できないかと私は神代の頃から考え続けていた。妖精のように能天気に暮らせたらとずっと望んでいた。
さあて。こんなにも長い期間計画しておいて、希釈されるかしら?
唯一残念なのは、ただの妖精だった私が存在しない事。
死ぬ訳でも、本来の私と融合して消える訳でもなく、妖精の私はただの演技でしかなくなるから。
それはとっても悔しいけれども……悪戯のためだもの。悪戯のためなら、それぐらいは我慢してあげるわ――。
「――我が神、ゲルセミ様。どうされましたか、お気を確かにっ!」
ゲルセミは深呼吸によって息を吹き返す。自分の記憶を参照している間、ずっと海に潜っているように呼吸を止めていたからだ。
「ッ?! 違う。これは我の記憶などでは、い、いや、合っている。これは私の記憶よ」
「ゲルセミ様? 何をおっしゃって??」
「なんて悪辣な罠を我は! 流石は私、やるわね……はっ、我は何を言っている!?」
「ゲルセミ様がご乱心されたぞっ」
苦しさに耐えるように、ゲルセミは額を手で掴む。グラグラと揺れる視界に、神性として生まれて以来、感じた事のない気色悪さを感じていた。こんなものは、局長室でコニャークを盗み飲みして二日酔いになった以来だ。
「無価値な妖精ごときがァッ。精神汚染したところで! 妖精界に用意してある精神バックアップから復元し直せば……おけ、バックアップには始まった紅白を録画しておくわね、ってッ! 止めろォッ」
ゲルセミは体中の宝石を点滅させながら苦しんだ。
妖精になる事を望んだ神性へと置き換わった己に憤り、煽り、嘆き、プークスクスと笑う。二重人格同士の喧嘩であっても、もう少し落ち着いているだろう。
妖精ペネトリットの悪戯は強烈で、ゲルセミの意識は死に体だ。
あるいは既に、大敗してしまっている。妖精に憧れる神性が、外聞を気にして神性らしく振舞っているだけなのかもしれない。
しかし、神性がそう簡単に敗れるものではない。首の皮一枚の状況になろうとも奇跡を起こして逆転を掴み取る。ゲルセミの心を大きく揺さぶり、不安定にしてしまう更なる衝撃でもない限りは、いくらでも挽回可能だった。
「我は急ぎ妖精界に戻り、自らに封印を施すっ。妖精の汚染が薄まるまで数千年だろうと数万年だろうと眠り続けて……て……ぁ、あれ、は?」
ゲルセミは地球侵攻を中断して、Lゲートへと振り向いてしまう。
これが、致命的な判断ミスであった。振り向いてしまった事によりゲルセミの視界に、上下に分離した男の死体が映り込んでしまったからである。
「あの死体は、アイツ?? どうして、死んで……。あれ、我が、アイツを、この手で殺した? 我じゃなくて私が神性らしく振舞っている間に間違って? あ、あれ、嘘でしょ。嘘よね……だってアイツが簡単に死ぬはずが。これまで何度も危険な目にあっても死ななかったのに、あれ?」
死体は血が存分に噴き出した後なので、白く冷たくなっている。背中側が腐っているので腐敗するまでの時間は通常よりも早いだろう。
「動かないし冷たい? え、本当に死んで……ぇ……駄目、死んだら駄目ッ。目を覚まして!!」
酷く慌てふためきながら、ゲルセミは死体の上半身を抱き上げて介抱し始めたものの、今更何をしたとしても遅いというのは誰でも分かる。
「びょ、病院っ。それか薬草をッ!! 誰か、誰か誰か誰かっ! 誰か助けて、ねえ、誰かッ」
目を覚まさない死体に動揺したゲルセミは、泣き叫びながら周囲に対して助けを求める。その行動は暗に、男の蘇生が神性であろうと不可能であると示していた。
「誰か、誰か! 私の眷属が死んじゃう! 私の、大切な人が!!」
「……ペネトリットちゃん、で間違いなさそうね」
ゲルセミが諦めずに、周囲に対して見苦しく叫んでいたからだろう。
傷付いた片腕を抱えながら近づいてきたのは、審査官の浦島直美だ。ペネトリットだった頃のゲルセミが、死体の男の次に多く言葉を交わした相手である。
「死んじゃう。私の大切な人が死んじゃうからっ、だから助け――」
ゲルセミは言葉を言い終われない。
浦島が無事な方の腕を動かして、ゲルセミの頬を叩いたからである。
「ペネトリットちゃん。誰かに助けを求めないでッ。先輩を殺したのは、貴女なのだからッ!!」




