大晦日X098 女神の顕現
とくん、と心臓が鼓動する。
とくん、と心臓が一回前よりも強く鼓動する。
その鼓動は大きくて、既に妖精の体に収まるものではなくなっていた。力が溢れる一方で逃げ場がない。体が内側から弾け飛ぶ寸前だ。限界は一分先か、あるいは一秒先か。
破裂する寸前の風船のような容態であるというのに、何故だろう、ペネトリットに不快感はなかった。
これは復調の兆し。
封印された力が仮の体を破る前触れ。
真の姿へと蘇るのだから、喜ぶべき出来事に違いない。
「――まだ、まだ」
だから不思議なのだが、ペネトリットは張り裂ける寸前の体を抱えて必死に耐えていた。
一秒にも満たない、一回分の鼓動を遅らせるだけの意味もない行為であろうと耐えていた。
「まだ、私でいたい。まだ、私でいたい。まだ、私でいたい」
ペネトリットがペネトリットでいられる時間は、もう尽きる。
「私はもっと、私の眷属と一緒にいたい。たった、それだけなのに……」
コンビニ店長とベルゼブブの戦いは続いている。CG作成費用が高くなりそうな戦いを繰り広げており、戦況は一進一退といったところか。
手数ではベルゼブブが上回っているが、技の理不尽度ではコンビニ店長が上なのだろう。まあ、どちらも一撃良いのを食らえば致命傷となる戦いだ。勝利がどちらに転ぶのか予想できない。
いや、勝利が訪れる対象は、何も戦っている二人だけとは限らない。
「局長、今の内に、Rゲートの、魔王に連絡を。ベルゼブブの侵攻は、独断です」
いつまで待ってもベルゼブブ以外の魔族が現れない状況は、不自然が過ぎた。ベルゼブブの呪術が広域破壊用のため、巻き込まれないように時間を置いているのだとしても、その時間があまりにも長過ぎる。
他の敵が一切現れない理由は、Rゲート全体が地球侵攻に動いている訳ではなく、少数の過激派が動いているからという推測で成り立つ。
そして、魔王を頂点とするRゲートの政治体制的に、魔王が過激派に加わっているはずがないだろう。魔王の意思は魔界全体の意思となる。魔王が加わる勢力が少数派であるはずがなかった。
「ベルゼブブの独断なら、魔王にクレームを付ければ、止められます」
ベルゼブブの横暴を魔王に報告するのはいつもの手段だ。それだけ確実とも言える。
未だに蠅が多く飛ぶRゲートであるが、魔族のアジーかマルデッテなら突破できるだろう。一つしかない俺の体を腐らせたのだ、それぐらいの協力はさせるべきである。
ベルゼブブとコンビニ店長の戦いが拮抗している今だからこそ、誰かを魔界に向かわせられる。好機は到来した。
被害は大きかったが、今回の管理局崩壊も終わりが見えた。
これでようやく、紅白を見ながら年末を迎えられるだろう。
「――も、もうっ、抑えきれない。もうっ、駄目ッ!! 破裂して、何もかも巻き込んでしまう!?」
ふと、胸ポケットから擦れた悲鳴が聞こえてくる。
「だったら、せめて、こいつから、私の眷属から遠くに離れないとッ!! 私でなくなった私が手出しできない遠くまで、離れていかないと!!」
目線を向けるより早く、ポケットから勢いよく飛び出していったのは小さな体の妖精。気を失っていたはずのペネトリットだ。
何の力も持たない妖精の身でありながら、戦闘区域へと飛んでいく。寝ぼけるにしても、危機回避能力が無さ過ぎる。
「――私は、ペネトリット」
追いかけようと立ち上がった。が、想像しているよりも体の状態は悪いらしく、一歩踏み出しただけで息が上がった。それでも無理やり歩き出した俺を、局長や後輩が邪魔して追いかけられない。
「ペネトリットっ、戻れ!」
「何を考えているッ」
「先輩、そんな体で動いたら、本当に死んでしまいます!」
「――私は、ペネトリット」
俺の声が聞こえていないのか、コンビニ店長とベルゼブブの中間地点へと飛んで行ってしまうペネトリット。
「戻れ、戻るんだ!」
「――私は妖精」
妖精が割り込んだぐらいで悪魔と鬼が止まるはずもない。次の攻防で、ペネトリットは確実に巻き込まれて死んでしまう。
「――私はペネトリット、私は妖精、私はペネトリット、私は妖精。私は――」
「ペネトリットッ!!」
「――私は…………わたッ………。 ……我は、フレイ・フレイヤの正統分神。我が名は、ゲルセミ」
ペネトリットへと刀か呪いが届く寸前、彼女を中心に眩い光の柱が出現して出入国ホールの天井を貫く。
大量の爆弾を抱え込んだ爆撃機は、正体不明の光柱の出現を確認する。
「我々はまだ爆撃を開始していないぞ??」
「あそこがターゲットだ。あの光の柱を照準するぞ」
二機編隊で上空を高速移動するF‐35が、異世界入国管理局へと急速接近していた。ウェポンベイに収まらない大量の高性能爆弾が、次々と活性化し始める。
先陣として、ミサイル攻撃に耐えるという触れ込みの管理局を徹底破壊するべく採用された貫通爆弾が、爆撃機から離れて落下を開始する。
「ボムズ・アウェイ! ボムズ・アウェイ!」
蛹となっていた蝶が羽ばたくがごとく、光の柱の中で広がる金で縁取りされた透明な羽。
白い肌を際立させるように体表面のかしこで煌く多種多様な宝石達。
小さな妖精のどこに封じ込まれていたのか分からない膨大な神性が、アーカイブされていた宝石の極光が完全な姿を現す。
整い過ぎた美貌――神性であるなら珍しくもない――が、ふと、天井を見上げる。
「……ドラゴン? いや、新世界の兵器か。人間族でありながら空を飛ぶとは小癪な」
神性に相応しい超常的な感覚器官により、分厚い天井を透過し、ゲルセミは管理局上空を通過中の爆撃機を察知する。すぐさま、脅威度を選定、認識する。
丁度、機体下部から爆弾を投下している最中だった爆撃機に対して、ゲルセミは、手の平を向けた。
「我が顕現したというのに騒がしいぞ。……散れ」
手の平から射出されたエメラルドが、800メートル毎秒を超える初速で打ち出される。
天井を軽く貫通する。一直線に上空へと到達して、自由落下を開始した直後の爆弾と、その直線上に並ぶ爆撃機を同時に撃ち抜いた。
ゲルセミは最新鋭戦闘機の破壊という戦果に一切興味がない。無表情のまま、作業的にもう一機の爆撃機も撃墜する。人間が蚊を叩き落しても喜々とした表情を作らないように、ゲルセミは爆撃機を撃ち落としても何も感じない。
「空は静かになったが、地上にはまだ害虫がいるようだ」
ゲルセミが無表情のまま次に目線を向けた相手は、コンビニ跡地を背にするコンビニ店長と、Rゲートを背にするベルゼブブだった。
光の柱が時間経過と共に収束していき、完全に消え去る。
跡地に立っていた、というか、つま先だけを床に付けて浮遊している美人のような女神がいるが……奇妙にも、そこにいたはずのペネトリットがどこにもない。
「おい、ペネトリットは、どこだ?」
俺が探している妖精がどこにもいない。だから、女神に目を奪われていられないし、女神に対してコンビニ店長とベルゼブブが同時攻撃をしかけている理由も気付けない。
「この存在は……ッ、破店倒産剣が裏三式“店舗包囲破壊”」
「ゲルセミッ?! まさか神代ノ生キ残リがッ!! 八節、“楽園喪失”」
初撃でありながら最大級。
人理を超え、神秘に至る破壊が前後より女神へと襲いかかる。オーバーキルにも程があり、神性であったとしても並の神であったならば、回避も防御も生存さえも不可能であったと思われる。
「たかが蠅ごときが、たかが人間族ごときが、涙ぐましい程に憐れな抵抗よな」
女神が片腕を広げるように動かす。たったそれだけで虚空に宝石が生じる。
宝石の輝きが、まるで銀河のようだ。
刀の斬撃が無限に生成される宝石に阻まれる。悪魔の呪いが無限の輝きに押し込まれて飲み込まれる。最強と疑いようのない二人の攻撃が、赤子の手を捻るよりも容易く、無力化されてしまう。
広がる宝石銀河から宝石が射出され、女神に歯向かった不埒者へと神罰を加えた。一石で戦闘機を撃墜した攻撃が、シャワーとなって降り注ぐ。
「地球のコンビニ経営を揺るがす大敵と分かっていながら。不覚――」
コンビニ店長は宝石群に飲み込まれて消えていく。
「失策ダ! 対人間族戦ハ想定シていたが、その分、対神性戦ノ呪詛ガ足リん――」
ベルゼブブさえも宝石に押しつぶされて原型を失ってしまう。
敵対者を消し飛ばした後も生産した余剰を使い果たすまで宝石は射出され続け、余波がホール内を駆け回って俺達にも襲いかかってきた。俺の傍にいた局長や後輩もどこかに飛ばされて行方不明だ。俺も腐敗する背中から衝突してしまって、気を失いかけた。
「腕の一振りさえも耐え切れんとは、か弱き芥であった」
攻撃が止んでも、長い間、宝石の細かい破片が埃となって舞い上がっていた。
女神以外、もう誰も生きてはいないのではないか。そうであってもおかしくない状況で動き出したのはエルフやドライアド。森林同盟一味だ。女神の傍まで近づいて、片膝となって頭を垂れている。
「このたびの顕現、お祝い申し上げます。我が妖精界の神、ゲルセミ様」
「我が眷属か。馳せ参じるとは殊勝な奴よ」
「偉大なる我が神の手を煩わせてしまうとは、我等は眷属失格です」
「許す。新世界征伐は我の我儘よ。庇護下にある眷属を、魔族と手を取り合う狂気な世界に汚されてもつまらん」
女神とエルフ共は知り合いらしかった。知り合いであっても近付きたいと思いたくない、非人間的オーラを発する女神によく近付けたものである。
コンビニ店長とベルゼブブを軽く圧倒した女神は、きっと、呼吸するような気軽さで人間の命を奪える存在だ。命が惜しければ、地面に倒れたまま死んだふりを続けるか慎重に這って逃げる必要がある。
「ペ、ペネトリット。ペネトリットぉ!」
だが、その前に、ペネトリットを探し出さなければならない。消えたペットを探し出すためには、できるだけ早く動かなければならないからだ。
人間の上位存在たる女神へと一歩近づく。恐ろしく重い一歩で、心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
三歩目ぐらいからは足が上がらず、ペラペラと底の抜けそうな靴を擦りながら進んでいた。
「ペネトリット、早く出て来てくれ。帰って重箱の中の、クワイを食べさせてやるぞ」
「汚い姿で近づくな、人間族ッ」
エルフの矢が太腿を貫いたが、残念、足の筋肉を頼りにして俺は動いていない。ちょっと重症部位が増えた所で止まれない。
「その汚物染みた人間族はいつぞやの」
「ペネトリット、返事をしろ!」
「神性が語りかけていながら、返事もできんか。この汚物は何を叫んでいる?」
ペネトリットが消えた付近に近づいているのに発見できない。戦闘に巻き込まれて塵一つ残らなかったのだろうか。墓を作ってやるにしても、せめて何か遺品は残っていないだろうか。
「ペネトリットっ!!」
「我が神が妖精に擬態していた頃の名前を叫んでおります」
「そこの女神は、異世界の神様ですか。神様なら、ペネトリットがどこに消えたのか知りませんでしょうか?」
「愚かな。擬態妖精だった頃の我と、神性として何一つ不都合のない我を同一視できぬのは当然であるが、失笑ものだ」
ペネトリットがいなくなった場所にいる女神が、光沢に彩られた瞳孔で俺を睨む。
「擬態妖精が己をどう名乗っていたかなど興味はないが、我がその擬態妖精だ」
「ペネトリットが出てこないから、そこの女神がネタに走ってしまうんだぞ」
「我が神に対して不敬ッ。今すぐ始末をっ」
「……いや、少し待て。この汚物に事実を知らしめてからだ」
「はっ」
宝石色の衣のみを羽織っただけの、素肌を隠す事をあまり意識していない格好の女神が滑るように床を水平移動する。エルフよりも前に出て、俺の進路上までやってきた。ペネトリット捜索の邪魔だ。
「我が擬態妖精であったと認識せよ。擬態妖精の機能停止が我の封印解除のキーであった。ゆえに、擬態妖精が消えると同時に我は顕現したのである」
「……はは、本当ならペネトリットが喜ぶ話です」
「神性の言葉を疑う事は、宝石の輝きを疑うも同じ」
女神は信じられない事に、自分がペネトリットであると告白する。
「自分を偽るのは止めたらどうなのだ。我を見た瞬間に、お前は既に擬態妖精が我であったと悟ったのではないのか?」
確かに、面影や声についてはどことなくペネトリットに似ている。似ていると言っても、言われて初めて気が付く程度のささやかさで、ペットの犬とその飼い主の方がまだ似ているレベルだ。
俺は目を背けながら、女神に問いかける。
「どうして、女神が妖精に化けていたのです?」
「神性が直接動くと何かと目立つ。新世界を穏便に征服するためには、我は我を密入国させる必要性があった。ゆえに、力を封じた擬態妖精へと姿を変えていたのである」
「新世界を征服なんて、やっぱりペネトリットが喜んで言い出しそうな法螺ですね」
「想像できていないのか? 神性たる我が征服に手加減などありえない。新世界の半分は死に絶える。我が眷属たる妖精種族に管理を任せるためにも、間引きは必要となるであろうからな」
「有り難きご配慮です。我が神」
地球の征服を本気で企むこの女神ごときが、ペネトリットであったなど信じられない。
引きずる足で、床に流れる血で線を描きながら女神へと近づく。
「貴女は、ペネトリットではありません」
審査官たる俺は、女神を否定する必要があった。
ペネトリットという妖精は確かに存在する。どこぞの女神が用意したキャラクターではなく、個を確立し、必死に生きている。
ようするに、目の前にいる女神こそが偽物なのだと。
「失礼な言い方となりますが言い直します。……ペネトリットが、お前であるものかっ」
「当然の事を言うな。女神である我が擬態妖精となっていた。擬態妖精が女神であるはずがなかろう」
「違う! ペネトリットはどうしようもない妖精だった。その分能力が伴わないから、世界を征服できるような屑ではなかったんです」
「……それはつまり、力なき妖精でなければ我と同様の行動を開始していたと言いたいだけではないか。封印されていようと擬態妖精は我の意思を反映していた。魔族を敵とし、妖精種族以外を他種族と分類し、決して相容れようとはしなかったはずだ。行動を共にしていたのなら、覚えがあるだろう」
そうだ。ペネトリットは他生物を尊重しない酷い妖精だった。
けれども、他生物をどうこうできる程の力がないから、無害でなくとも無力であった。内心はどうあれ、秘めたる野望を実行できる奴ではなかった。それゆえ、ペネトリットは他生物と共存可能な妖精だったのである。
大声を出して否定した事で内臓が震えたのか、酷い吐き気に襲われる。
苦しさに耐えながら、俺は更に進む。
「ペネトリット、出て来てくれ」
「……発言を循環させるな、我の言葉が理解できないのか。我が擬態妖精だった」
もう一歩だ。残り数メートルで、女神に手が届く。
女神に到達できれば、きっと、その背中に隠れているはずのペネトリットを発見できるはずだから、俺は止まれない。
「ペネトリット。ペネトリットっ」
「…………神性でありながら、無駄な問答を続けてしまったな。お前は既に壊れていたらしい。壊れたものが理解し難い思考を持ち、同じ言葉を繰り返すのは道理か」
もう少しだ。
もう一歩だ。
もう少しで。
もう一歩で、ペネトリットを探し出せ――。
「――であればもう用はない。散れ」
――無表情となった女神に手の平を向けられ次の瞬間、俺は倒れ込んでいく。
いつ倒れてもおかしくなかった容態だったとはいえ、突然過ぎて状況に理解が追い付かない。俺の下半身はまだ歩こうとしているのに、実際動こうとしている下半身が見えてしまっているのに、俺はどうして倒れてしまっているのだろうか。
分からないが、もしかして俺は、倒れ込んだのではなく崩れ落ちてしまったのか。
「壊れた汚物らしい相応しい姿になったか」
腹ぐらいから上下に分離してしまっていないだろうか。
それはマズい。これでは、ペネトリットの奴を、探してやれない。
偉そうにしている癖に、傍に誰かがいないと寂しくて泣いてしまうペネトリットを、探し出して、やれ、な――ぃ。
おお、主人公。
死んでしまうとは情けない!




