大晦日X096 最終防壁
耳障りな羽音が……聞こえない。耳の内側が腐っているからだ。
背中の感覚が……ない。最も多くの蠅が群がって皮膚を腐乱させたからだ。青いシャツだったものと体組織だったものが混ざって背中から滴っていると思われるが、何も感じない。
「――それでも、生存シたか。審査官、やはりお前ハ何者カの加護ヲ受ケている」
赤い複眼の悪魔が指で操り、俺へと殺到していた蠅を後方へと下げさせた……なんて分からない。聴覚と触覚はほぼ壊滅。瞼を開いて視覚の無事を確認したいが、何も見えなくなっていたらと思うと怖くて動かせない。
「何者カの正体を探ルべきかとも考エられるが、時間ノ無駄カ。腐乱シかけた人間族ニ手ヲかけるまでもなし。オ前ハそこで、新世界ガ崩壊スる音デも聞イておれ」
矢が飛び、大剣が振るわれる。そんな出来事が行われているのかもしれないが、もう俺には分からないのだ。
「闇の勢力に、新世界を奪わせるものかッ!」
「審査官殿ッ!」
何も分からない。再起不能。腐りかけ。
異世界入国管理局を去っていった前任者達と同じ末路を俺は歩み、倒れた。
俺は審査官として失敗してしまい、いや、審査にさえ移れず、悪意ある入国者の侵攻を防げなかったが……けれども、胸ポケット付近に小さな鼓動は感じている。ペネトリットだけは、無事に守りきれたらしい。
「先輩っ、大丈夫ですか! しっかりしてください、先輩!」
「浦島、無理に体を揺するな。皮膚が全部ずりむけて落ちる。台車で運ぶぞ」
「ああ、先輩! そんな、髪の毛まで」
え、俺まだ二十代なのにヤバい? えっ、聞こえないよ、えっ。
触覚はなくとも、誰かに運ばれているというのは何となく分かる。
意を決して瞼を開くと――瞼が癒着して開かなかったので指を使って開くと――後輩と局長の姿が確認できた。
二人の乙女が必死に俺を看病してくれていると思うと、自然と涙が溢れ出る。
「先輩が目を開きましたよ、局長! 先輩はまだ死んでいませんでした。半分ゾンビなのに」
「勝手に死なれてたまるか。管理局で殉職者が出るなど許さない。お前は病院で死んだ事になるんだ」
きっと俺を励ましてくれているのだろうな。耳が聞こえないのが残念だ。
救急箱をひっくり返し、どうにか手当を開始しようとする後輩。
「――こ、箱」
そんな後輩に対して、俺は言葉を伝えるべく手招きする。
「箱、は、箱」
「先輩、今、救急箱から赤チン取り出しますから」
「違う……、その箱じゃ、ない」
一言発するだけでも息切れする容態であるが伝えなければならない。動けない俺の代わりは、異世界の脅威に立ち向かえる審査官は、もう後輩しかいない。
「箱だ……。箱を、使え」
「別の救急箱ですか、先輩?」
「箱を使って……後輩、お前が審査……するんだ」
管理局に最大の敵が現れた事で、これまで敵対していた者同士が共闘している。エルフが矢を放ち、有子がヒットアンドアウェイでベルゼブブに攻撃を加えている。
しかし、焼け石に水にもなっていない。味噌を口に突っ込まれていたドライアドも全員叩き起こして総戦力で遅滞を試みているのに、戦果は微小。Rゲートから続々と押し寄せる蠅の大群に、矢や剣で攻撃しても意味がないのだ。
ベルゼブブの体に刺さった矢が勝手に落ちていく。ダメージはない。
それなりの人数が行き来可能な出入国ホールの半分が、蠅の侵略により黒く染まってしまっていた。
もう誰にも異世界の悪魔の侵攻を止められない。
そんな戦場に出向く命知らずは、力を有する真の英雄か、何も知らない真の能天気か、命知らずな真の審査官のみである。
「――通行許可書がなければ、ここは通せません!」
男の審査官ではない。審査官のエースは既に倒れた。動ける状態にない。
今、ホールを歩んでいる審査官の性別は女。名前は浦島直美。前任者の戦線離脱によって急遽代打投入された彼女は、後輩と呼ばれる事が多い。
「審査官カ。レベルは……ほう、10、平均的ナ兵士職ヨり高い。それだけであるが」
「ここは通せません!」
「立チ塞ガる事サえできない審査官。無意味ニ、ただ呪殺サれよ」
蠅の集団が浦島へと殺到する。
ベルゼブブに呪われるまでもなく、審査官という職自体が呪われているのだろう。浦島もまた、先輩審査官と同じ末路を辿ろうとしていた。
浦島は一歩も動けず、蠅に集られて――、
「――審査官に同じ攻撃が二度も通じると思わない事です!!」
――蠅の接近に合わせて、浦島が持参していた箱を頭上へと掲げる。そして、迷う事なく上下反対にひっくり返す。
箱の内部からドロっと落ちてきて、浦島の頭に降りかかった。
その直後に蠅の先陣が浦島に接触。黒い霧の中へと取り込まれていく。
蠅との接触によって悪魔の呪いが発動して、憐れにも体が腐り落ちていき、最後には人間の形を消失してしまって……消失してしまって……消失してしまわない。何故か、呪いが不発に終わっている。
「ナに?」
「ベルゼブブ。貴方の呪術は私には通用しませんよ!」
「なん……ダと?!」
蠅の暴風が過ぎ去った後には、一切腐食していない浦島が立っていた。涙目なのは、体に触れながら蠅の大群が通り抜けていったからに違いない。
腐食の呪いをレジストしたはずなのに、体中から異臭が漂っている理由は謎だ。肩やシャツに名状し難き冒涜的な形の何かが引っかかっているが、イア、イア、と浦島は呪文を唱えていないので何かを召喚した訳でもなさそうだ。
すべての原因は頭の上に掲げた箱にありそうだった。
箱の形は楕円の二段重ね。一段の内容量は握り飯三つと少し。色は赤く、話は変わるが管理局局長の好きな色である。
「新世界人ゴときが、我ガ呪術ヲ拒絶スるなど、ありえぬ」
「何度やっても無駄です! もうこの服、クリーニングに出しても着れなくなりましたが、その甲斐はありました。先輩のアドバイス通りです」
「アりえぬッ」
ベルゼブブは蠅の軍団へと直接指示を飛ばして、再度、浦島を呪殺しようとしたものの効果はない。
「馬鹿ナ、どのような手段デ?!」
「ヒント。腐食の呪いであろうと、既に腐っている物はもう腐らせられない」
浦島は不敵な表情――鼻を曲げた表情――を見せている。ベルゼブブの方には動揺が見受けられた。
「……どうして浦島は私の弁当を頭から被って不敵な顔をしているんだ?」
「良く、やった。そのまま、ベルゼブブを、挑発するんだ」
浦島が頭上に掲げていた箱の正体は、宝月局長の弁当箱だった。
名状し難き弁当箱の中身をたっぷり浴びた事により、全身が発酵物でコーティングされている。呪いが発動するまでもなく、浦島は既に腐女子となっていた。
しかし、そんな事実を知らないベルゼブブは執拗に眷属の蠅を操って、攻撃を繰り返す。
浦島は無事なままであるが、浦島の後方にある壁や重厚な扉はノーダメージとはいかない。コンクリートや金属さえも腐食して、ボロボロに崩れてしまっている。出入国ホールを隔離するための最終防壁さえも崩れ始めた。
「浦島、位置を変えろ! ベルゼブブの呪いが外に漏れ出てしまうぞ」
「これで、いい。これが、現状の最適解だ」
局長の宝月滝子は浦島に位置を変えるように叫んだが、浦島は動かない。
浦島を腐食させるはずだった蠅が彼女を素通りして後方へ。最終防壁へと衝突し、腐食を加速させていく。蓄積されたダメージは限界を突破して、とうとう、呪いの一部が出入国ホールの外へと流出してしまった。
最終防壁の外には警備部がいたはずであるが、現在はバリケードを乗り越えて全員突撃してしまっているため被害はない。その後は知らないが。
局長室やサーバー室といった重要施設は別の場所にあるため、やはり被害はないだろう。
そう大きな被害はないと思われる。
「そうだ。それで、いい。これで……あの人を、巻き込める。ベルゼブブを審査した結果、あの人に戦ってもらうしかない」
……ただし、最終防壁の手前に設置された、キヨスク程度の面積ながら、立派に管理局を行き来する旅行者へと商品を売っている二十四時間営業の売店は、多大なダメージを被ったものと想像された。
棚に並ぶ商品の数々。
職員が買っていく日用品。
冬季に必須の肉まんとおでん。
新年用に特別販売されていた重箱、定価五千円。
そのすべてが、呪いによって腐敗してしまった。経営に関わる甚大な被害である。
「審査官ガ小癪ナ、我ガ手デ直接呪イを――ッ」
そのコンビニが崩壊した瞬間に、出入国ホールの大気が凍り付いたのだろう。大群で飛び回っていた蠅の羽音さえ聞こえなくなった。
これが、時間を制止させる程の殺気であるといち早く気付いたのはベルゼブブであったが、それでも反応が刹那遅い。
「――破店倒産剣が、裏一式“フランチャイズはお客が多い程に損をする” ……ああ、まったく。私に禁技を使わせてしまうとは、まったく」
ベルゼブブの異形の腕が、斬り飛ばされて天井に突き刺さる。
少し遅れて、大穴の開いた最終防壁を始点に直線上にある床と天井も大きな亀裂が走り始める。何故か、同じ直線上にいるはずの浦島は無事だ。
二つに分離しながら脱落した最終防壁の向こう側には……刀を抜いた状態の、謎のおじさんが立っていた。
コンビニ店員を示すエプロンを揺らしているのなら、そのおじさんは崩壊したコンビニの店長で間違いない。
店長は刀を片手に、ホールへと進入する。
「この気配ハ……ッ!? 新世界ニ勇者……いや、それ以上ノ、脅威ッ! 遊ビは終ワりだ。眷属ヨ、全テを腐乱サせろ!」
ベルゼブブは腕の再生よりも施設破壊を優先し、眷属の蠅に無差別腐乱を指示した。
けれども、黒い一団は動かない。主人であるベルゼブブの命令を無視してしまっている。悪魔の契約的にありえない事象だ。
「……もう、斬ったよ。少なくとも、目に見える範囲にいる汚らわしい害虫はね」
店長がホールの中を歩いている。
店長が歩いて近づくたび、一定距離内を飛んでいた蠅の軍団が一斉に落下していき、まるで黒い滝のようだ。落下した蠅を一匹ずつ確認して回れば、そのすべてが羽と体の接合部を正確に斬られているのだと分かるだろう。
浦島が道を譲ったので、店長がまっすぐにベルゼブブへと向かえる。
店長が横切る際、彼の横顔を目撃した浦島は微かな悲鳴を上げた。
「……今日はお弁当がたくさん売れてね。今年も色々あったけど最後は良かったなって。そう思いながら、新しいお弁当の用意をしていた最中だったんだよ。肉まんもね」
「何ノ、事ダ?」
「私のお店、訪れる客は少ないけれど、皆が喜んでくれるかな、そう思いながら商品の充填をしていたんだ。なのにね、突然、害虫が現れて……全部、売れなくなってしまった。廃棄処分さ。店の奥にあった重箱も、全滅した」
「だから、何ダと」
「君が壊滅させた、コンビニの事さ」
ベルゼブブまで残り二メートルもない地点まで歩いたが、それ以上は進まず、店長は刀を正眼に構えるのみ。待っているのか。
腕のみならず、ホールを埋め尽くす程に引き連れた眷属、その半数を失ったベルゼブブ。戦力が半減していると言いたいが、Rゲートからはまだまだ増援が現れている。ベルゼブブのローブの内側からも蠅が溢れ出して、いつの間にか腕の再生を完了していた。
「コンビニを、知らないのかい?」
「まさか、神代ガ遠ク過ギ去っタこの時代ニ、未知ナる脅威ト戦ウ事ニなろうとは……、コンビニ、コンビニ、恐ルべき何カ。クク、長ク生キるものだっ!」
「知らないから、君はっ、私に斬られるんだよ」
コンビニ店長は、泣いていた。鬼の形相で泣きながらベルゼブブへと斬りかかる。
ベルゼブブは、笑っていた。未知なる敵との邂逅に感激して、知り得た呪いのすべてを動員してコンビニを呪い始める。
鬼、悪魔、審査官!




