視察旅L069 神のいる異世界で
波に流されて、沈んでいく小さな体。まるで人形のようで、その実、黙っていれば人形以上に綺麗な少女の姿をした異世界人。
ペネトリットがスライムの体の中で溺死しようとしている。
その小さな死に際を目撃してしまった俺は、ネクタイを解いて革靴を脱いでいた。
「言わんこっちゃないっ! クソっ」
「審査官殿、よせっ。スライムの体に跳び込んで無事でいられるものではない」
「ちょっと待っていろ。ペット妖精!」
俺を止めようとしたカイオン騎士であったが、打ち付けてくる波に防御結界ごと押されたオークに道を阻まれて手を伸ばせない。
俺の行動はカイオン騎士の言う通り無謀であり、無茶なのだろう。が、俺達だっていつまでも無事でいられるものではない。今、跳び込まなくても結界が崩壊するまで残り僅かだ。
だから、俺は自分のしたい事を優先した。
生物としても当たり前。自己の生存を最優先にする計算ができていない。審査官にあるまじき直情的な行動だ。
灰色の粘性あるコニャークの体内へと自ら潜り込んで、内部をかき分けて泳ぐ。
想像以上に泳ぎにくい環境だった。水ではなくゲルであるため重さを感じる。まるでコンニャクの詰まったプールに跳び込んだみたいだ。これでは、食品を粗末にしたとネットで叩かれてしまう。
何より、動くたびに体の中から何かが吸われていく気色悪さがあり、寒い。スタミナ消費が激しい。コニャークの体内にいると考えれば、栄養素的なものが奪われていても仕方がないのか。
ペネトリットが沈む地点までの数メートルが途方もない。はっきり言って遠過ぎる。本来の俺のスペックでは絶対に辿り着けるはずもない距離だ。
それでも腕を無理やり動かして分け入って前進できたのは。それでも俺が近づいていけたのは、きっと、ペネトリットの所為に違いない。ただし、それは加護がどうのこうのではない。目の前で沈んでいるのがペネトリットでなければここまで辿り着けなかった。
呼吸できない状態で進み、やっと手を伸ばして溺死妖精の体を掴み、引き寄せる。
多大な労力と酸素を消費し、せっかく手にしたペネトリットの体であるが、呼吸をしていない。気管にスライムが詰まってしまっている。頻繁に呼吸停止する妖精だと呆れてしまう。
俺も呼吸が限界で、分けてやれる酸素はもう残っていない。
だから、俺はもう駄目だからペネトリットを優先した。小さいペネトリットならば少ない酸素でも長く生きられるからだ。
生物としても当たり前。自分を最優先する当然ができていない。審査官にあるまじき直情的な行動だ。
一度、ペネトリットの口から息を吸い込み、詰まったコニャークを吸い出す。
それが終われば、肺に残る多少の空気をペネトリットの口から吹き込む。口というか顔全体になってしまったが鼻からも届けば二倍の効果になるだろう。
ここまで損得計算を放棄して頑張った俺の行動は、ぜひ報われて欲しいものだが。
残念ながら、ペネトリットは起きなかった。
人形のような少女は、人形のように眠ったまま起きようとしなかった。
死にたくないと、悪の主人公みたいに言っていた癖に起きようとしない。
俺は最善を尽くさず救いにきてやったというのに、最後まで、どうしようもない、妖精だった。
眠ったペネトリットを乗せた両手が震えてしまう。丁寧に扱ってやりたいというのに、それができない。
俺は泣いていたのかもしれない。が、スライムの体内にいる状態ではそんな事さえ分からない。
これが、ペネトリットという妖精の最後だっ――。
――精霊活動低下。
封印解除開始……完了。
フレイ・フレイヤの正統分神。我が名はゲルセミ。顕現開始。
――ふと、目の前が眩しく輝く様は、まるで宝石の乱反射。
百万ドルの夜景を眺めるよりも強い感動を覚える。そんな女性が現れている。地球上では見た事もない造形の美人だ。
「――む? ここは、新世界ではないな。……腹を押さえて倒れ込む魔族の巨人に、妖精でもない癖に何故か我が誕生させた事になっているスライムが戦っている。起きて早々、状況把握が難解な」
塔のような巨人達を見上げる姿も美しい。
「ニャック!? これは、神代の気ッ。何を体内に取り込んだというニャーク??」
「黙れ。スライムごときが我を取り込めたと勘違いするなど、おこがましい」
「や、止めろニャーク。魔力を吸うはずが、逆に吸われて、いぃぃぃぃぃ」
コニャークが突如、苦しみ始めて不定形の巨人が弾けて消えたかもしれないが、俺の目は前方に固定されてしまっている。
後光に輝く白い肌。
大粒のエメラルドやサファイヤやルビーで彩られる腕。
細かく見れば、金細工のごとき精巧さとフラクタル構造を持つ羽。羽を持っていてとっても美しい。
彼女を見た俺の希望を端的に吐露すると、ぜひ食事に誘ってみたいとなる。ここまで完璧な女性だと、誘う側にも相応の勇気が求められるが、何となく親しみがあるような。断られるにしても、まずは話しかけてみないと始まらない。
とはいえ、妙に息苦しい。これが恋煩いというやつなのか。
……あれ、そういえば俺は酸欠状態で、そろそろ命脈が。あっ、俺死ぬのちょっとタンマ、あ、三十万カラットの宝石に勝る女性との夕食が、駄目……ぐふぇ。
「――そこの人間族。カラットは照度の単位ではなく、重さの単位である。神である我の存在をたったの六十キロ換算とは小さくみたものであるが、この余分のない体を見て六十キロと想像したのであればやはり不敬であろう。 …………もう聞こえていないか」
神としての権能の大部分、有り余る魔力の大半、物質的な体の体積、質量の九割強、超越者として振舞えるだけの頭脳のほぼすべてを封じていた妖精の擬態が解かれる。封印の要たる妖精の生命活動が停止して、ようやく世界に顕現できたゲルセミ。
野生妖精の年間生存率を考えれば緩い封印解除条件であるが、万能に等しい力を有する神格が自らに課した制約である以上、封印そのものは完璧である。ゲルセミ本人の意識さえ封じられてしまって、妖精擬態中は己が神格である事さえ忘れてしまっていた。
「密かに新世界に潜入するための封印だったというのに、新世界から戻って来てしまうとは。神にとっても世界とはままならないものだ」
本来であれば新世界に到着後、生活力のない擬態妖精は速やかに衰弱死するはずであった。そして、代わりに顕現するゲルセミが新世界を掌握、併合する。
新世界の戦力化に成功したならば、異世界ゲートを通じて直接魔界に侵攻する。
魔族を滅ぼして妖精系種族が世界の半分以上を支配し、霊長の座を占有する。そういう筋書きだったのだ。エルフやドライアド、木人、妖精、その下に他種族と続くヒエラルキーこそが妖精界を統べる女神として望ましい。
そんな神の脳内に描かれた目論見が初期段階から狂ってしまった理由の多くは、そこで溺死中の人間族だろう。こうゲルセミは考えた。
擬態妖精だった頃に見聞きした事柄は記録としてのみであり、人格としての連続性、記憶の共有はない。体感が完全にそぎ落とされている。だからこそ記録の中で出現頻度の高い人間族が原因であると客観的に認識できる。
封印解除によって一時的に広がったゲルセミの魔力、それが発光して生じた光の柱。
その光の中で弛緩してしまっている人間族の男に意識を向ける。既に心肺停止状態であり、そもそも神代から現代まで存在を保つ神性が人間族ごときに注目するのは妙なものだ。
それでも新世界併合計画を邪魔されたゲルセミとしては、何が原因だったのかを知りたくなる。
所々、翠や青の宝石が表皮を押しのけて現れている腕を前方に伸ばす。
「新世界の人間族がどのような思考を保有するのか、それを知るのも良かろう。どういった動機を有すれば自分の命を捨てて役立たずの妖精を助けようとする? 一切の共感はないが、下等種族の思考ルーチンを研究しておくのも悪くなかろう」
入水するレミングの気持ちを動物博士であっても読心できないように、数段階上の存在たるゲルセミに、数段下の存在でしかない人間族の気持ちなど分からない。
それでも無理やり想像するならば……人間族が擬態妖精に懸想していたのではないか、とゲルセミは候補を挙げた。体の大きさを考えず、そういった人形遊びに執着する特殊な人間族がいるというのを、擬態妖精が調べていたので知識があった。
「人間族が下劣なのは今更であるが、汚物に触れて気分の良いものではない。手早くすませる」
ブラックダイヤモンドのごとき、冷めた目付きとなったゲルセミ。彼女の手の先に漂う人間族の思考を、神の力を用いてスキャニングしていく。
どうして人間族が妖精と生活できて、命さえかけたのか。
人間族自身でさえ読み取れない深層心理の最奥にある、理由、をゲルセミは読み取る――。
「お母さん、猫飼いたい!」
男の子は母親に希望する。昨日のテレビ番組に猫が出てきたのか、あるいは、幼稚園の壁の上を歩く猫を目撃してしまったのか。そのどちらかだろう。
男の子の母親は猫は飼えないときっぱり言い放ち、子の無垢なる希望を取り下げた。経済的な面、飼育労力、賃貸アパートゆえの制約、そういった大人の事情をわざわざ子に伝えはしなかったが、ともかく、無理と伝える。
それで子供が言う事を聞くはずもないので、代案にならない代案を続けた。
「大きくなって、ペットのお世話ができるようなったら飼っても良いからね」
「分かった。大きくなったら、ペットをきちんとお世話する」
――ゲルセミは角度大きく首を捻った。
パッケージと中身が違うDVDをレンタルしてしまって、プレーヤーから再生される映像を見て強い違和感を覚える。そういったシチュエーションに酷似した反応だ。
「な、なんだと?? これが、たったこれだけの事が理由になる、だと?」
人間族が命をかけて妖精を助ける理由を深層心理から読み取ったはずなのに、中身がスカッスカな決意があっただけ。別世界の妖精を助ける理由にたる情愛や劣情も、血筋的な由縁や宿業も、あったものではない。
「擬態妖精でなくても、どこぞの動物で済んだ話で、我の顕現は邪魔されていたというのか? はっ、それでは我の溜飲が下がらん。下らな過ぎる」
ただ幼少期にペットを飼いたかっただけが理由であるなどと、神性たるゲルセミには理解できはしない。神に理解できない者というのはある種、貴重かもしれないが、大切には扱われないだろう。
「この人間族め。我には一切、意味が分からない」
女神の手の内から宝石が浮かび上がり、魔力が集中。発射体勢に入る。
「意味が分からないものに汚染されるつもりはない。早々に抹消してしま――うっ」
しかし、ゲルセミの体にノイズが走り攻撃は中断される。
「これは……まさかっ。まだ擬態妖精が生きているというのか! しぶといにしても、程度があろう!」
ゲルセミの封印解除は完璧ではなかった。
何せ、封印の要たる妖精が息を吹き返そうとしているからだ。ゲルセミが擬態する妖精の死が封印解除の条件であるのならば、妖精の生存によって封印が再開されてしまうのは仕方がない。
蘇生処置を受けていた効果が、遅れて現れたのか。
あるいは、心肺停止状態となっても多少の時間、聴覚機能は生きているという通説が正しかったのか。
“――だ、だ、誰がペットだ! 誰が世話されるだ! あの男は私を何だと思って、うりゃああァ!”
「またしても、この人間族によって封じられるというのか。悪意がなければ許されると思っているのであれば、酷い勘違いであり神に対する挑戦だぞ」
ともかく、ゲルセミは再封印されていき、姿も力も小さくなっていく。
「……良かろう。神の邪魔をすればどうなるか、次に目覚めた時に教えてやる。無知な者に摂理を知らしめ味わわせるのも、神の役目であるからな」




