外交官R054 アジー
管理局の倉庫にいつの間にか隠れ住み、食料その他を盗んで生活していた盗人。
その正体が目の前にいる漆黒のドレスの女である。Lゲートに恐れられるRゲートの魔王の親族だったと記憶しているが、強烈な発酵汁を直接浴びて鼻水を垂らしているような子なのできっと記憶違いだ。素行が悪いので、ただの不良少女か家出少女なのだろう。
シュールと名前に付くだけあって、魔族が吐き気に苦しむ姿はシュール過ぎて事情聴取もできない。怖いが一度警備部の詰め所まで戻ってバスタオルを手に入れて、アジーへと手渡した。
「どうしてお前が管理局にいるんだ?」
「だって仕方がないのよっ。お父様が、私に家から出て行けって!」
「あれかな。百獣の王は我が子を谷に突き落とすっていう家庭内暴力」
「全部お前達の所為だ! お前達がツアー中に色々仕出かしてお父様の関心を引いた所為で、今まで一人でお風呂も入った事のない娘が外交官として魔王城から放逐されてしまったのよっ!」
魔王が権力を一元管理しているだけあって、Rゲートの教育方針および人事はアクロバティックだ。外交官に任命された癖に、誰にも知られず倉庫で暮らしていた娘も娘であるが。
命じられたその日にアジーは魔王城から出立させられてしまったが、それでも数日はゼルファの所に転がり込んでいたらしい。が、魔王に見つかってゼルファの所からも追い出されて魔界から地球へ。それが約一か月前の事のようだ。
「つまり、管理局へと不法侵入したのが一か月前で、それからずっとこの倉庫に住み着いていたと……」
馬鹿みたいな話であるが、実際はシビアな話である。高位の魔族であればセンサー類に感知される事なく地球に潜り込めるという証明をしてしまったのだ。新たなセキュリティホール発見により、管理局科学班はまた残業となるだろう。
他部署はともかく、今はアジーの一か月間について調書を取るのを優先する。
地球を知らない異世界人がどのように日々を生き抜いたのか。一言一言が黄金に相当する貴重な体験談となる。地球人が異世界へと放り出されて一か月生き抜いたなら、その体験談はミリオンセラーの本となるだろう。
「アジ・ダハーカ、どうやって暮らしていたんだ?」
「最凶最悪の竜と言われた私であっても、新世界は過酷なものだった――」
「もう。お父様ったら、もうっ」
Rゲート側の異世界入国管理局から追放されたアジーは親に対する文句を呟くだけの気楽さがあった。
「一度魂魄ズタズタに引き裂かれてミミックに転生したぐらいで、お父様は慎重過ぎますわ。新世界を過大評価し過ぎて、ここのどこが恐ろしいというのかしら。……そうだわ。良い機会なので、このまま新世界を滅ぼしてしまいましょう」
Rゲートを歩いて渡り、管理局へとやって来たアジー。
「さーて、まずは破壊の限りを尽くしてしまいま……えっ」
アジーが到着した時点で異世界ゲートのある出国ホールは破壊の限りを尽くされていたため、彼女は思考と体を停止させてしまう。
数時間の時間差で管理局へと襲撃を仕掛けていたドライアドにより、壁面はボコボコで一部に鋭い穴が開いてしまっていた。審査を行うブースの中身は物が散らばり審査不能な状態だ。戦闘の跡だというのが丸分かりである。
事件そのものは既に解決していたが、まだ始業時間には早過ぎる。業者を入れて修理を開始するのは朝日が昇ってからだった。
「…………うん、目的はとりあえず達成したわ。次へ向かいましょうか」
ベッドで眠っていたところを出発させられたアジーは朝食前である。そろそろ腹が空く時間帯のため、無意識に腹を手で押さえる。
軽く朝食を摂ろうとホールから出て行くアジー。
「私の口に合う食料か新世界人があれば良いのだけど」
ホールの先にある食料と言えば……コンビニ弁当となるのだろう。
キオスク程度の小さなコンビニの光が通路を照らしている。
Rゲートの住民たるアジーがコンビニを知るはずはないが、誘蛾灯に誘われる羽虫のごとく、興味をそそられて足を向けるのは当然と言えた。
「いらっしゃいませ。はて、この時間には職員しか来ないはずだけど」
レジカウンターにいる中年男性の声をアジーは当然のごとく無視した。人間族なので襲ってしまっても良かったのだが、どうにもアジーの美的センスから外れた冴えない顔立ちのため食指が動かない。実に凡庸で脆弱。よって、いない者として扱ったのだ。
キョロキョロと店内を見回して、弁当箱が並んでいる棚へと近づく。指で直接触れるのが汚らしいと考えて爪を伸ばし、弁当箱を一つ摘み上げる。
コロッケ弁当四五〇円。嗅いだ事のない濃厚なソースに顔を顰めて、弁当箱を床に落とした。
「お、お客様。どうされましたでしょうか!」
アジーは隣の麺類系の弁当を摘まむが、やはり見慣れない物だったので床へと投げ捨てる。
「ああっ、困ります。お客様っ」
中年男性の弱腰な弱り声を耳に入れず、アジーは別の棚の前まで移動する。
おにぎりの包装を剥して投げ捨て、ペットボトルを数本散らばらせ、おでんの具へと爪を突き刺す。非道の限りを尽くして店内を荒らした。
「止めてください。お願いですからお客様っ」
結局、アジーが選んだのはコッペパンである。魔界でも多少は見慣れた食品であるため妥当な選択と言えるだろう。
アジーはコッペパンを爪で摘まんだままコンビニから出て行こうとした。背後から投げかけられる中年男性の制止はうるさくて邪魔であるが、始末は食事を終えた後に行えばいい。
「お客様、お代をお願いします。聞こえていますか、お客様!」
マットを踏み、ドレスに隠されたつま先が店外へと出て行く。
「お客様っ!」
そしてアジーが金を払わずコンビニから出て行った瞬間――、
「――護店経営剣が十式、“お客様でなければ神ではありません”」
カチリと店内に音が響いた時にはもう終わっていた。
神性を否定し、万物を否定する一閃がアジーの鋭く伸びた爪をすべて切り落とした。万引きされかけたコッペパンが店内へと落ちていく。
冴えない中年しかいなかったコンビニ店内では、不気味にも、腰を深く落として刀を振り切った剣豪が出現している。レジの裏側に隠していた愛刀を手にしたからか眼光がLEDみたいに光っている。
「馬鹿な人間族。私に無視されたままならもう少し殺されずに済んだというのに。発動しなさいな、私の『悪意のシントロピー』」
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“『悪意のシントロピー』、悪意には可逆性があると示すスキル。
剣や弓でダメージを負った瞬間、血の代わりにダメージ量と同等のHPを有する魔獣を傷口から産み出す”
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アジーは少しだけ斬られた指先を見て、鼻で笑う。
他人からの悪意により傷付けられた事により、傷口から魔界の害虫を生み出す固有スキル『悪意のシントロピー』の発動条件は整った。新世界の人間族など瞬殺である。
白い不健康な指先から流れ落ちる赤い血。魔族の血も赤いらしい。
少女のような指先からポタポタと血が流れ落ちていく。薄皮が斬られただけに見えて、傷は案外深いらしい。そういう傷の場合、心臓よりも高い位置にすると止血し易いが、アジーは指先を下へと向けているため血は止まらない。
「……あれ? あれぇー?? どうしてスキルが発動しないのかしら」
なかなか発動しない己のスキルにアジーは不思議がる。
「万引きの現行犯により、お前はお客様ではなくなった。つまり神ではない。神ではない者に特殊性など生じない」
「スキル封じ!? 嘘でしょうっ、悪意の竜たる私に対して新世界の人間族ごときが、ありえないッ」
「護店経営剣が二式、“商品補充は素早く丁寧に”」
三六五日、毎日ワンマンで商品を補充し続ける腕の動きは音を置き去りにした。目では捉えきれない速度の突きがアジーの体を無慈悲に貫いていく。
傷口から血が流れているが、それでもアジ・ダハーカの固有スキルが発動する兆しは一切ない。
「い、痛いだけ!? やはりスキルが封じられている。お、お前は新世界の勇者か!」
「違う。私は……店長だ」
「店長、店長?! 店長だと。って店長って何ッ」
ただの中年男性だと思われた店内の剣豪の正体は、なんと、このコンビニの店長だった。
コンビニ店長という未知の脅威と敵対してしまい、アジーの顔へと得体の知れない存在に対する恐怖が浮かび上がる。
取るに足らないと考えていた新世界に魔族と戦える人間族がいた。魔王の娘としては本気で対処するべき事案だ。最悪の場合、この場で『生命虐殺(三分の一)』の発動条件を整えてもいい。
「護店経営剣が五式、“脳内に直接語られても動じません”」
そうアジーが考えた瞬間だった。
店長の刀が少女の足の腱を断つべく横に振られる。アジーの体が軽くて店長の剣圧に押されていなければ確実に斬られていた。
「良からぬ事を考えたな? 『生命虐殺(三分の一)』なる異能。少なくとも現状では、お前の心臓さえ動いていれば発動しないと見受けられるが、いかがか?」
「私の思考がッ、読まれたというの!?」
「生かさず殺さず、お前を斬り刻む」
反撃用スキルでしか戦う術のないアジーに勝機はない。魔王の娘であるという体面を守っていられる状況ではなくなった。
アジーはコンビニへと背を向けて全力で走る。
「ば、化け物っ!? お父様は正しかったわッ、新世界の人間族は、化け物だッ!!」
「営業時間中のため店外へと出て行けない。さあ、刀の間合いへと帰って来い」
「ひぃっ、殺されるッ!! 殺されなくても、生存に不必要な器官全部斬り落とされちゃうっ」
幸い店長は追って来なかったが、命が助かったと信じられるまでアジーは逃げ続ける事となる。
こんな異世界旅行記、出版したら即シュレッダーだ。
完全なる自業自得。同情は一切できないが、あの店長が三つも技を披露したというのに生きているのだから、流石は魔王の娘と称賛はできる。
「店長なる超越者から遠ざかるべきだった。けれども、新世界にはあのような怪物がまだまだいるはず。無策のままこの建物の外に出るのはむしろ危険と考えて、傷を癒しながら身を潜めていた。これが私の一か月になる」
最初に店長と遭遇したのが良かったのか悪かったのか。アジーは地球人の平均戦闘力を店長と同等であると誤解して、他の職員との接触を完全に避けて生活していた。
そのため、一番困ったのは食料調達だったらしい。見た目だけは普通の人間に近いアジーは人間と同じぐらいの速度で腹が減るため、腹が減るたび各所で盗難を繰り返していたようだ。
「ヒーターを盗んだのもアジーだな」
「この倉庫、夜が冷えて辛かったの」
これですべての事件が一本の線で繋がった。ここ最近の怪事件の犯人はすべてアジーだったのである。局長はまた仕事が積み重なって項垂れるだろうが、アジーの身柄を確保して突き出せば事件解決である。
一か月の逃避生活に疲れたアジーは観念した様子であるが、形式として手錠を掛けておくべきだ。
俺がアジーを見張っておくので、ペット妖精に警備員を連れてくるように伝える。
……何故だろう。定位置の肩にいるはずのペット妖精がいない。廊下の端まで逃げている。
「ペット妖精、どうしてそんなに遠くにいる?」
「わ、分からないの!? そこの倉庫から悪臭がするわ」
「ニシンの缶詰の臭いはなかなか取れないぞ」
「違うわよ。もっと何週間も堆積した汚臭よっ! それに、カサカカ音が聞こえてくるじゃない!」
「臭い? 音?」
ペット妖精が指差す倉庫の内側は、真っ暗で何も見えない。
「無暗に覗き込まないでッ! 深淵に引き込まれるわよ!」
けれども、暗闇に目が慣れてくればきっと見えてくる。
積み重なるゴミ袋の山、山々。ゴミ袋にも入られていないゴミの有象無象。盗むだけ盗んでゴミ箱に捨てるという概念を知らない魔界のお姫様が、倉庫の端から下手なテ〇リスみたいに溜め込んだゴミの山。
ゴミが断熱材の働きでもしているのか、あるいはゴミが発熱しているのか、倉庫の中は妙に生暖かい。
ゆえに……外から集まってくるのは謎の動物界、節足動物門、昆虫綱の奴等。
「まさか、アジー! お前のスキルで体からこいつ等を!?」
「知らない内にやってきてシェアハウスし始めたのよ。魔界では見ない害虫だけれど、どういった子達なの?」
「イヤァァァぁーーっ!」
全ての事件の犯人がアジーならば、ペット妖精を叫ばせるGの大量発生もアジーの仕業で間違いなかった。




