「名前がほどける夜」
夜は、音を失っていた。
時計の針の音すら、
遠くに感じるほど静かだった。
リビングの灯りは落とされ、
カーテンの隙間から月明かりだけが差し込んでいる。
床に敷かれた布団の中央で、
影クオリアは静かに揺れていた。
いつもより、
影が小さい。
存在が、
“軽く”なっている。
アリアは布団の上に正座し、
背筋を伸ばしていた。
「……始めるのじゃな」
影クオリアは、
ゆっくりとホワイトボードに文字を書く。
《今から 真名の 切断に入る》
《途中で 止めることは できない》
《もし 何かあっても
俺は 戻れない》
セレナが、
震える息を吐いた。
「……うん。
でも、戻れなくなっても……
“迷わない”ようにする」
リオナは、
ぎゅっと拳を握りしめて言った。
「先輩が迷子になったら、
私たちが迎えに行きます」
影クオリアの影が、
少しだけ大きく揺れた。
《ありがとう》
《……それじゃあ》
影が、
床に円を描く。
ゆっくりと、
しかし確実に。
その円は、
これまで見たどんな影よりも“濃い”。
まるで、
世界そのものが息を止めているようだった。
◆ 切断開始
影クオリアの輪郭が、
徐々に曖昧になる。
ホワイトボードに、
歪んだ文字が浮かぶ。
《……痛みは ない》
《ただ……
遠くなる》
セレナが、
思わず呟いた。
「……何が?」
《“呼ばれる感覚”》
その言葉と同時に、
影の円が脈打った。
空気が、
一瞬だけ歪む。
アリアの胸に、
奇妙な感覚が走った。
(……あれ?)
名前が、
喉の奥で引っかかる。
いつもなら、
自然に浮かぶはずのものが――
形にならない。
「……兄……?」
言葉が、
途中で止まった。
アリアは、
自分の口を押さえる。
「……兄者……?」
呼べている。
だが――
“何か”が足りない。
胸の奥に、
小さな穴が空いたような感覚。
セレナも、
眉をひそめた。
(……変だ……)
(影はそこにあるのに……
“誰”だったかが、
一瞬、ぼやける……)
リオナは、
はっきりと異変を感じていた。
「……せん……ぱ……」
言葉が、
途切れる。
涙が、
勝手に溢れてきた。
「……おかしい……
大事な人なのに……
名前が……」
◆ 切断の波
影の円が、
もう一度大きく脈打つ。
今度は、
はっきりと“切れる音”がした。
音ではない。
感覚だ。
世界から、
一本の糸が外れたような感覚。
アリアの脳裏から、
“影の王”としての姿が
すっと遠ざかる。
(……王……?)
(……何のことじゃ……?)
それでも。
目の前の影を見た瞬間、
胸が強く締めつけられた。
「……分からん……
でも……」
声が震える。
「……大事なのじゃ……」
セレナは、
唇を噛みしめていた。
影城。
王座。
真名。
その知識が、
一斉に霧散していく。
だが、
感情だけが残った。
(……守りたい)
(……失いたくない)
理由は分からない。
けれど、
選択は残っている。
リオナは、
涙で視界が歪む中、
必死に影を見つめていた。
「……忘れちゃ……
いけない……」
名前が出ない。
過去が思い出せない。
でも――
胸が叫んでいる。
(この人は……
私の“帰る場所”だ……!)
◆ 影クオリアの崩れ
影クオリアの輪郭が、
大きく崩れた。
床に溶けるように広がり、
存在が分散していく。
ホワイトボードに、
途切れ途切れの文字。
《……切断……完了……》
《王としての
呼び名は……
世界から 消えた……》
《だが……》
文字が、
揺れる。
《俺自身も……
少し……
分からなく なっている……》
アリアが、
思わず叫んだ。
「大丈夫なのじゃ!!
妾が……
妾が教えるのじゃ!!」
何を、
とは言えない。
だが、
叫ばずにはいられなかった。
セレナも、
必死に声を出す。
「……あなたは……
選んだ人……」
「肩書きじゃなくて……
“一緒にいたい”って……
そう言った人……」
リオナは、
床に手をつき、
泣きながら叫ぶ。
「……ご飯……
一緒に食べた……」
「帰ってきてって……
言ってくれた……」
「それだけで……
十分……!!」
影クオリアの影が、
微かに反応した。
散らばりかけた影が、
三人の声の方向へ、
少しずつ寄ってくる。
◆ 名前の代わり
ホワイトボードに、
ゆっくりと文字が浮かぶ。
《……聞こえる……》
《名前じゃない……
だが……》
《呼ばれている……》
アリアは、
涙をこぼしながら、
はっきり言った。
「妾は……
お主が誰か、
忘れても構わぬ」
「だが……
お主を“選ぶ”ことは、
忘れぬ」
セレナも続く。
「私も……
あなたの過去を忘れても……
今の選択は覚えてる」
「一緒にいるって、
決めたこと……」
リオナは、
震える声で笑った。
「名前がなくなっても……
先輩は先輩です……」
「それだけで……
十分なんです……」
その瞬間。
影クオリアの影が、
ひとつにまとまった。
以前より、
ずっと小さい。
王の威圧も、
影の重さもない。
ただ――
“人一人分の存在感”。
ホワイトボードに、
新しい文字が浮かぶ。
《……俺は……》
《王ではない》
《だが……
消えていない……》
《お前たちが
呼んでくれる限り……》
声が、
かすかに、
しかし確かに、
響いた。
――ここ……だ……
三人の胸が、
同時に熱くなる。
◆ 夜明け前
切断は、
終わった。
外の空気が、
少しだけ軽くなった。
影城との“線”は、
確実に細くなっている。
アリアは、
涙を拭って言った。
「……成功……
したのじゃな……」
セレナは、
深く息を吐いた。
「完全じゃないけど……
戻ってきた」
リオナは、
影の前にそっと座り込む。
「おかえり……
名前は分からないけど……」
影クオリアは、
しばらく揺れたあと、
ホワイトボードに最後の一行。
《……ただいま》




