「王をやめる準備は、静かな痛みを伴う」
提示者が消えたあと、
雨はしばらく降り続けていた。
玄関に立ち尽くしたまま、
誰もすぐには動けなかった。
空気が、
一段重くなったような感覚。
アリアが、
小さく息を吐く。
「……もう戻れぬのじゃな」
影クオリアは、
肯定も否定もせず、
ただ揺れた。
ホワイトボードに文字が浮かぶ。
《影城は “選択”を終えた》
《次は 力で 来る》
セレナが視線を落とす。
「……説得が失敗したなら、
残る手段はひとつしかない」
リオナは拳を握る。
「排除……ですよね」
《ああ》
《王をやめる前に
“王として消す”つもりだ》
言葉は淡々としているのに、
その内容はあまりに重かった。
◆ 王をやめるということ
影クオリアは、
リビングの中央へ移動した。
影が集まり、
輪郭が少しだけ人に近づく。
ホワイトボードに、
少し長めの文章が現れる。
《王をやめるには 段階がある》
《一度に捨てると 崩れる》
アリアが身を乗り出す。
「……段階?」
《影城と繋がっている “核”を
少しずつ外す》
《王としての権限》
《影を統べる力》
《真名の一部》
セレナの顔が強張る。
「真名を削る……
それって……」
《記憶も 一部 失う》
その一文で、
部屋の空気が凍った。
リオナが震える声で言う。
「……どのくらい……?」
影クオリアは、
すぐには答えなかった。
しばらく揺れてから、
短く書く。
《どれが 消えるかは 分からない》
《人としての記憶か》
《影の王としての記憶か》
《もしくは――》
言葉が止まる。
アリアが、
はっきりと言った。
「妾たちとの記憶か?」
影クオリアは、
否定しなかった。
沈黙。
それでも――
影は続ける。
《それでも 俺は やる》
《王でいるより
お前たちを 失うほうが 怖い》
リオナが、
思わず一歩前に出た。
「先輩……
それ……逆です……」
声が震える。
「私たち、
先輩が私たちを忘れるほうが……
ずっと怖いです……」
セレナも、
静かに頷いた。
「兄さんが“兄さんじゃなくなる”なら、
守ってる意味が分からなくなる」
アリアは、
拳を握りしめたまま言う。
「それでも……
兄者は、
その道を選ぶのじゃな」
影クオリアは、
迷いなく書いた。
《ああ》
《それが 俺の選択だ》
◆ 第一段階 ― 権限の切り離し
影クオリアは、
床に影を広げた。
円陣のように、
静かに影が回転する。
《第一段階は “命令権”の切断》
《影に 命じる力を 捨てる》
《終われば
俺は 影を従えられない》
アリアが歯を食いしばる。
「それは……
戦えなくなるということか」
《そうだ》
《今後の戦闘は
お前たちが 主体になる》
リオナは、
一瞬だけ不安な顔をして――
すぐに笑った。
「それなら、
最初からそのつもりです」
セレナも頷く。
「兄さんが守らなくていいように、
私たちが前に立つ」
影クオリアの揺れが、
少しだけ柔らかくなる。
《ありがとう》
◆ 侵入
その時だった。
家の外の影が、
突然“破裂”した。
窓ガラスが、
黒く染まる。
アリアが叫ぶ。
「来たのじゃ!!」
玄関、窓、天井――
あらゆる場所から
影が“染み出す”。
形は不定形。
数は多い。
セレナが瞬時に判断する。
「使いじゃない……
雑兵……!」
リオナが前に出る。
「数で押すつもりですね……!」
影クオリアが、
ホワイトボードを叩くように文字を書く。
《始める》
《今 切る》
アリアが即座に言った。
「今じゃと!?
敵が来ておるのじゃぞ!」
《今しかない》
《命令権があるうちに
切断を 完了させる》
《頼む》
三人は、
一瞬だけ視線を交わした。
そして、
同時に頷く。
「やるのじゃ」
「ここは守る」
「先輩、任せてください」
◆ 切断
影クオリアの影が、
急激に収縮した。
ホワイトボードに、
苦しげな文字が浮かぶ。
《――切断》
その瞬間。
外の影たちが、
一斉に動きを止めた。
命令が、
届かなくなったのだ。
だが――
同時に。
影クオリアの存在感が、
一段階、薄くなった。
輪郭が崩れ、
影が揺らぐ。
アリアが叫ぶ。
「兄者!!」
《大丈夫だ》
《少し……
寒いだけだ》
その“寒い”という表現が、
妙に人間的で――
三人の胸を締め付けた。
◆ 初めての“非王”の戦い
影たちは、
再び動き始めた。
今度は、
統率がない。
ただの暴力。
セレナが声を張る。
「今です!
命令がない分、動きが雑!」
アリアが踏み込む。
「妾が引きつけるのじゃ!」
リオナが続く。
「私が潰します!!」
三人の動きは、
明らかに昨日より洗練されていた。
影を“怖れる”のではなく、
“対処する対象”として見ている。
それは――
影クオリアが
王として教えてきた戦い方だった。
皮肉なことに。
影クオリアは、
もう王ではない。
だが――
王だった時間は、
確実に三人の中に残っていた。
◆ 戦闘後
影が消え、
家は静けさを取り戻した。
壊れた窓も、
歪んだ影もない。
だが、
影クオリアは床に沈むように揺れていた。
存在が、
明らかに軽い。
アリアが、
そっと声をかける。
「……兄者」
ホワイトボードに、
少し歪んだ文字。
《少し……
頭が ぼやける》
セレナが息を呑む。
「記憶……?」
《問題ない》
《まだ 名前も
お前たちも 分かる》
リオナが、
ほっと息をついた。
「……よかった……」
影クオリアは、
最後にこう書いた。
《第一段階は 完了した》
《次は……》
言葉が、
少し揺れる。
《真名の 切り離しだ》
それは、
もっと大きな代償を伴う。
そして――
影城は、
もう黙ってはいない。




