「選択を迫る声は、甘くて冷たい」
その夜、雨が降り始めた。
音は静かで、
叩きつけるような強さはない。
それでも、
家の中の影は落ち着かなかった。
リビングの電気を消しても、
影は勝手に濃くなる。
まるで、
“光を拒んでいる”かのように。
アリアがカーテンの隙間から外を見た。
「……雨の影が……逆さに落ちておるのじゃ」
水たまりに映る街灯。
そこに落ちる影が、
下ではなく“上”に伸びている。
セレナが低く息を吐く。
「来るね。
しかも……静かすぎる」
リオナは喉を鳴らした。
「使いより嫌な予感がします……
これ……“話しに来る”気配ですよね」
影クオリアは、
三人の背後で静かに揺れていた。
ホワイトボードに、短い文字。
《開けるな》
《向こうから 入る》
その直後。
玄関のチャイムが鳴った。
音は一度だけ。
長押しでもなく、
急かす様子もない。
それが、
逆に不気味だった。
アリアが一歩前に出る。
「兄者、妾が……」
《待て》
影クオリアの影が、
床を這うように伸びて、
三人の前に壁を作った。
《“提示者”は 攻撃しない》
《だが 言葉が武器だ》
《聞く覚悟があるなら 出る》
セレナは深く息を吸う。
「……逃げても、
後で別の形で来る」
リオナは頷いた。
「だったら……
今、聞きます」
影クオリアの揺れが、
わずかに鋭くなった。
《無理はするな》
《途中で 断っていい》
アリアははっきり言った。
「妾たちは、
兄者の選択を聞きに来た者の話を、
一緒に聞くのじゃ」
玄関へ向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間――
外の影が、
扉の内側に“滲んだ”。
ドアは開いていない。
だが、
“もういる”。
◆ 提示者
玄関に立っていたのは、
人の形をした“影”だった。
顔はある。
だが、目がない。
表情は柔らかく、
声は落ち着いている。
『こんばんは』
『驚かせてしまって、すまない』
リオナが一瞬、
“普通の人”だと錯覚しそうになる。
だが、
次の言葉でそれは壊れた。
『影の王。
――未完成のまま、
ここに留まる選択をした存在よ』
影クオリアの影が、
一瞬だけ強く脈打った。
『我々は、
君を責めに来たわけではない』
『むしろ――
救いに来た』
アリアの眉がぴくりと動く。
「救い、じゃと?」
提示者は、
静かに頷いた。
『完成すれば、
苦しみは終わる』
『迷いも、
分裂も、
崩壊の恐れもない』
『王として、
正しい場所に戻るだけだ』
セレナが前に出る。
「“正しい場所”って、
誰が決めたの?」
提示者は即答した。
『世界だ』
『影は、
影城に在るべきもの』
『王は、
王座に在るべきもの』
『それが秩序だ』
その言葉に、
クオリアの影がわずかに揺れた。
リオナが声を張る。
「じゃあ、
ここで笑ってる時間は何なんですか?」
「一緒にご飯食べて、
名前を呼び合って、
帰ってきてって言い合う時間は!」
提示者は、
一瞬だけ沈黙した。
『……錯覚だ』
『未完成の王が生む、
仮初の幸福』
『完成すれば、
必要なくなる』
その瞬間。
空気が、
確実に冷えた。
アリアの声が低くなる。
「……兄者を、
“道具”としてしか見ておらぬな」
提示者は否定しない。
『王は、
個として扱うものではない』
『機能だ』
『役割だ』
その言葉に、
影クオリアの影が、
初めて“怒り”を帯びた。
床に落ちる影が、
波のように広がる。
ホワイトボードが、
静かに浮かび上がった。
《……黙れ》
文字は短い。
だが、
確実に“意思”があった。
提示者は、
穏やかに続ける。
『感情的になる必要はない』
『選択肢を示そう』
◆ 三つ目の選択
提示者は、
影の手を上げた。
玄関の床に、
三つの影の円が浮かぶ。
『一つ』
『完成し、
影城へ帰る』
『世界は安定する』
『君は王として残る』
二つ目の円が浮かぶ。
『二つ』
『未完成のまま抗い、
やがて崩れる』
『この世界も、
君自身も守れない』
三つ目。
影の円は、
他よりも歪んでいた。
『三つ』
『王を捨て、
存在を縮退させる』
『力も、
記憶の一部も失う』
『それでも――
“個”として生きる』
リオナが息を呑む。
「……それ……
先輩が言ってた“第三の道”……」
提示者は、
初めて三人を見た。
『興味深い』
『だが、
それは推奨されない』
『不安定すぎる』
『王を捨てた存在は、
影でも人でもなくなる』
『世界に居場所がない』
セレナが静かに問う。
「……それを、
クオリア兄さん自身が選ぶなら?」
提示者は、
少しだけ声色を変えた。
『選ばせる』
『それが、
我々の役割だ』
『だから――
答えを聞きに来た』
静寂。
雨音だけが、
玄関に響く。
影クオリアは、
しばらく動かなかった。
三人は、
何も言わなかった。
言えなかった。
これは――
“代わりに答えられない問い”だった。
やがて、
影クオリアの影が、
ゆっくりと形を整えた。
ホワイトボードに、
一文字ずつ、
確実に書かれていく。
《俺は》
《王として 完成することを 選ばない》
提示者は、
静かに目を伏せた。
《未完成のまま 壊れる道も 選ばない》
《だから――》
影が、
三人の方へ、
ほんの少し近づいた。
《王を やめる》
《“個”として ここに残る》
その瞬間。
玄関の影が、
激しく歪んだ。
提示者の声から、
初めて“感情”が滲む。
『……理解した』
『ならば――
影城は、
君を“王”として扱わない』
『次に来るのは――』
『説得ではない』
その言葉を最後に、
提示者の影は、
雨の中へ溶けて消えた。
◆ その後
玄関に残ったのは、
三人と、
影クオリアだけだった。
しばらく、
誰も動けなかった。
やがて、
アリアが言った。
「……兄者」
セレナが続ける。
「今の選択、
後悔してない?」
リオナは、
不安と信頼が混ざった目で見つめる。
影クオリアは、
迷いなく文字を書いた。
《していない》
《怖いが 後悔はない》
《お前たちが ここにいるからだ》
アリアは、
ぐっと歯を噛みしめて笑った。
「なら、
妾たちは全力で守るだけなのじゃ」
セレナも頷く。
「“王をやめた存在”を、
世界に根付かせる」
リオナは、
涙を拭って宣言した。
「先輩の居場所、
私たちが作ります!!」
影クオリアの影が、
これまでで一番、
穏やかに揺れた。




