「名前を取り戻す練習」
その日、家は静かだった。
外の影はまだ動いている。
学校や街にも、じわじわ侵食は広がっている。
それでも、
この家の中だけは――
不思議と“落ち着いた空気”に包まれていた。
昼下がりのリビング。
テーブルの前に影クオリアが揺れ、
ソファには三人が並んで座っていた。
アリアはクッションを抱え、
テレビは消してあるのに画面をじっと見つめている。
セレナはノートを膝に置き、ペンをくるくる回していた。
リオナは床に座って、
テーブルに頬杖をつきながら影を見上げている。
「……さっきの、ほんとに聞こえたのじゃ」
ぽつりとアリアが呟いた。
「“ただいま”って」
セレナは静かにうなずく。
「幻聴じゃない。
ちゃんと“呼ばれた”感覚だった」
リオナは、思い出しただけで顔が熱くなる。
「しかも声が……反則級に優しかったんですよ……!!」
影クオリアは、
その視線を浴びながら
バツが悪そうにホワイトボードに文字を浮かべた。
《あれは たまたまだ》
「たまたま、なのじゃ?」
《意識してなかった》
《気づいたら こぼれてた》
言い方が完全に「本音漏れた」です、という顔で
三人がじっと見つめる。
アリアが、じわじわ距離を詰めながら言った。
「なら、今度は意識してやるのじゃ」
セレナも、少しだけ前ににじり寄る。
「練習なら付き合うよ。
兄さんの声、もっと聞きたい」
リオナは、躊躇ゼロ。
「私、何時間でも聞いていられます!!」
影クオリアの揺れが、一瞬で落ち着きを失った。
《そんなに聞かれても 困る》
「困られても、なのじゃ」
アリアはにやりと笑う。
「妾たち、兄者のことが好きで堪らんのじゃ。
声が戻るなんて、嬉しいに決まっておる」
セレナも微笑む。
「名前で呼ばれたいし、
呼びたいし、
会話だってしたい」
リオナは勢いよく頷いた。
「“おかえり”に“ただいま”返してほしいです!」
影クオリアは、
ホワイトボードをしばらく空白のままにして――
やがて、観念したように一行だけ書いた。
《わかった》
◆ 名前の練習
「じゃあ、まずは……
兄者の名前からなのじゃ」
アリアは照れくさそうに笑う。
「妾たちはずっと“兄者”って呼んでおるからな。
本名で呼ぶほうが照れるのじゃ」
セレナも同意する。
「改めて名前で呼び合うのって、
なんか告白みたいでドキドキする……」
リオナは即座に突っ込む。
「告白ですよ、実質!」
二人が赤くなった。
影クオリアは、
しばらく揺れたあと――
床に影を濃く集めていく。
三人は息を止めて見守った。
空気が、わずかに震える。
喉の奥から声を出す感覚を、
影の身体で再現しようとするように。
――く……
小さな音が、確かに響いた。
アリアが目を丸くする。
「今、“く”って聞こえたのじゃ!」
セレナの心臓が跳ねる。
(あと、もうちょっと)
リオナが勢いよく前のめりになる。
「今のでもう十分かわいいです!!」
影クオリアは、
すごく疲れたように揺れた。
《これだけでも けっこうしんどい》
「だが、妾たちは諦めぬのじゃ」
アリアはぐっと拳を握る。
「兄者、名前は一気に呼ぼうとせず
少しずつでもいいのじゃ」
セレナが補足する。
「発音の最初と最後だけとかね。
“く……”と“……ア”とか」
リオナは手を挙げる。
「じゃあ一文字ずつでもいいですよ!
音が“増えていく”の、全部聞きたいです!」
影クオリアは、
どうしようもなく照れくさそうに揺れた。
《いじめてないか》
「いじめておらんのじゃ。
甘やかしておるのじゃ」
アリアが真顔で返す。
セレナも続ける。
「それに、
兄さんが“声を戻そうとしてくれてる”って事実が
すごく嬉しいから」
リオナは笑いながら言う。
「完全に自己満足です!!
でも、聞かせてください!!」
ため息をつくような揺れ方をしたあと、
影はもう一度、音を作ろうとした。
――くお……
空気が震えた。
そこに確かに“名前の一部”があった。
アリアは、
胸を押さえながら笑う。
「十分なのじゃ……」
セレナの目が潤む。
「……もう、これだけでしばらく戦える」
リオナは机に突っ伏した。
「尊い……!!」
影クオリアは、文字でぼやく。
《お前たちのほうが ずっとおかしい》
《こんな曖昧な声で 喜べるのか》
アリアは即答した。
「兄者のことだから嬉しいに決まっておるのじゃ」
セレナも穏やかに言う。
「量じゃなくて、気持ちの問題だから」
リオナは満面の笑みでうなずく。
「進捗が最高なんです!!」
◆ 三人の名前
ひとしきり名前の「出だし」を練習したあと、
今度は、三人の番になった。
セレナが提案した。
「次は、私たちの名前も呼んでほしい」
影クオリアは一瞬だけ揺れ、
ホワイトボードに文字を書く。
《負担が大きすぎる》
「一人につき一音でもいいのじゃ」
アリアはそう言って、少し照れたように笑う。
「妾の名前、呼ぼうとしてくれるだけでも
心臓が破裂しそうなのじゃ」
セレナも言葉を続ける。
「全部言えなくても、
最初の音だけでも十分」
リオナはにっこり笑って、
「私は最初と最後でいいです!
贅沢は言いません!!」
と言いながら内心では
(いや、全部ほしい……いやでも最初は……)
と忙しく揺れている。
影クオリアは、
ひとつ深く揺れたあと――
慎重に、一音ずつ紡ごうとする。
――あ……
アリアの頬が一気に赤くなる。
「い、今のは……」
「完全に“ア”って聞こえたね」
「反則なのじゃ……」
肩を抱きしめるように腕をぎゅっと組み、
その一音だけを胸の奥で何度も反芻する。
次に、
静かな音が広がった。
――せ……
セレナの胸の奥に、
柔らかな光が灯る。
「今の……私?」
「たぶん、そうだと思うのじゃ」
「名前の最初って、
こんなに心に刺さるんだね……」
目元を指で押さえ、こぼれそうな涙をこらえた。
最後に、
少し高めの音が響く。
――り……
「はいっ!!!」
リオナが勢いよく手を挙げる。
「今のは絶対私ですよね!? ね!?
そうですよね先輩!!」
影クオリアは、
バレてしまったことに
少しだけ諦めの揺れを見せながら文字を書く。
《ご想像にお任せする》
「もうそれ確定なのじゃ」
「ずるい返し方」
「ありがとうございます!!!!!」
リビングに、
小さな笑い声が溢れた。
◆ 名を呼ぶということ
しばらく練習を続けたあと、
影クオリアはホワイトボードにこう書いた。
《名前を呼ぶのは 思ってたより重い》
三人は静かになった。
《影だった頃 名前は ほとんど意味がなかった》
《“王”とか “影”とか “器”とか》
《そんな呼ばれ方ばかりだった》
新しい文字が重ねられる。
《名前で呼ばれることは》
《“一人の存在として見られている”ってことだ》
セレナの胸が痛んだ。
「兄さん……」
《だから こっちから名前を呼び返すのが怖かった》
《期待させてしまうから》
《期待に応えられなかったらと思うと 重かった》
アリアは首を振る。
「期待させていいのじゃ」
セレナも、真剣な眼差しで言葉を続ける。
「だって、もう期待してるから」
リオナは迷いなく笑う。
「むしろ期待されてください!!」
影クオリアは一瞬だけ揺れを止め――
小さく、諦めたように震えた。
《じゃあ これから少しずつ呼ぶ》
《一度で 完成させなくてもいいなら》
アリアは笑顔を浮かべる。
「名前も感情も、
少しずつで十分なのじゃ」
セレナは静かに微笑んだ。
「積み重ねていけば、いつか全部になる」
リオナは元気に宣言する。
「その過程を全部見たいです!!
今日みたいに、全部覚えておきたい!!」
影クオリアの右手が、
また少しだけ浮き上がる。
今回は、
さっきよりも高い位置まで。
三人を包み込むような軌道で伸びかけて――
やっぱり手前で止まった。
声は出ない。
けれど、確かに伝わるものがあった。
「撫でたい」
その気持ちが。
◆ 眠る前に
夜。
三人が布団に入る前、
いつものようにリビングに集まる。
アリアが言う。
「今日は、いっぱい名前をもらったのじゃ」
セレナも頷く。
「一音ずつでも……
“呼ぼうとしてくれた”だけで、胸いっぱい」
リオナはにっこり笑う。
「明日は二音目に期待してます!!」
影クオリアは、
苦笑混じりに揺れながら文字を書く。
《調子に乗るな》
《でも できるだけ 返していく》
《名前で 呼び合う関係まで 戻りたい》
胸が熱くなった。
「戻る、じゃなくて、
“新しく始める”なのじゃ」
アリアがぽつりと言う。
「兄者と妾たちの関係は、
これから先のほうが長いのじゃ」
セレナも優しく微笑む。
「影だった頃の時間より、
こっちで笑ってる時間のほうが増えていくように」
リオナは両手をぎゅっと握った。
「その未来、絶対つかみましょう!!」
影クオリアは、
そのすべてを受け止めるように揺れた。
そして――
――お……
ごく小さく、かすれた音がこぼれた。
誰の名前でもない。
まだ形にならない音。
それでも、
三人は同時に笑った。
(今のもちゃんと“誰かを呼ぼうとした声”だ)
そう分かってしまうから。




